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現在、「春のセンバツ」として親しまれている選抜高等学校野球大会は阪神甲子園球場で行われている。しかしながら、阪神甲子園球場で行われるようになったのは、その前身である全国選抜中等学校野球大会時代の第2回大会からである。記念すべき第1回大会が行われたのが、名古屋市の山本球場である。
山本球場は1922年秋に開設された。開設当時の所在地は名古屋市中区広路(ひろじ)町といった。名古屋市とはいっても、1921年に名古屋市に編入されたばかりであり、編入以前は御器所(ごきそ)村といった。なお所在地の住所は、1934年に中区滝川町となり、1937年から昭和区滝川町となった。
この野球場は名古屋市鉄砲町の山本権三郎により独力で設置された。たぶん山本球場の「山本」とは、山本権三郎の姓からとったのであろう。総坪は2,800余坪、観覧席は1,000余坪で、収容人員は2,000人だった。山本球場は名古屋で最初の本格的球場だった。
山本球場で第1回全国選抜中等学校野球大会が開催されたのは1924年のことである。主宰者は大阪毎日新聞社名古屋支局。
大阪毎日新聞社が名古屋で大会を開催した理由としては、以下の2つがあげられる。
1.全国中等学校優勝野球大会で大阪付近の学校が優勝確率が高いのは風土に関係あるのか試すため
2.中京における野球ファンの希望に応えるため
全国から東は関東、西は四国から8校が集結し、高松商業が栄えある初代優勝校に輝いた。
しかし、同年8月に阪神甲子園球場が完成したため、翌年の第2回大会からはそちらに会場を移すことになり、再びこの球場に戻ってくることはなかった。
1947年から社会人野球チーム名古屋鉄道局の本拠地となった。この野球場が国鉄八事(やごと)球場と呼ばれるようになったのもこの頃からであろう。その後、長い間国鉄、JRの野球場となっていたが、1990年代に廃止となった。現在、野球場の跡地には住宅団地が並びたっている。
1992年5月16日、第1回全国選抜中等学校野球大会が行われた野球場であることを記念して、日本高等学校野球連盟と毎日新聞社により、第1回大会当時の本塁付近にモニュメントが設けられた。モニュメントには以下のような記述が書かれてある。
センバツ発祥の地
1924年(大正13年)4月1日から5日まで ここ山本球場(当時)で第1回全国選抜中等学校野球大会が開催された 全国から優秀チームを厳選し 早稲田実業 横浜商業 愛知一中 立命館中 市岡中 和歌山中 高松商業 松山商業の精鋭8校が参加 高松商業が優勝した これが選抜高等学校野球大会の始まりである 第2回大会からは阪神甲子園球場に舞台を移した
山本球場は1922年(大正11年)に完成 収容人員は2000人 名古屋で最初の本格的球場だった 1947年(昭和22年)社会人野球チーム名古屋鉄道局(現JR東海)の本拠地となり 国鉄八事球場の名で永く親しまれた この碑は第1回大会当時の本塁付近になる
1992年5月16日
日本高等学校野球連盟
毎日新聞社
碑の下部には「センバツ歴代優勝校」が掲げられている。上段は第1回(1924年)から第72回(2000年)までの優勝校が金属プレートでのっている。下段は第73回(2001年)のみが彫られてある。これまでの傾向からすると、たぶん3年分をまとめて金属プレートにのせるのであろう。なおこのモニュメントから少し離れたところには「八事球場メモリアルパーク」とかかれた石碑もある。
「センバツ発祥の地」のモニュメントはかなりいりくんだところにある。公共交通機関でいくには名古屋市営地下鉄鶴舞線を乗っていくことをおすすめする。ただし最寄駅は八事駅ではなく、一つ鶴舞よりのいりなか駅である。いりなか駅1番出口出て東(八事方面)に向かって約500m歩き、左に曲がって200mほど行くと右手にモニュメントがあらわれる。
地図ではわからないだろうが、左に曲がってからはかなりの坂を登らなければならない。下に地下鉄鶴舞線が走る国道153号線は谷間を走る道であり、その両側は丘陵地である。
探訪記 (カイリューズ)
2001年8月17日、この地を訪れた。実はこれが3度目だ。
1度目は2000年のゴールデンウィーク。友達の車で行ったのだが、どこにあるのかさっぱりわからない。地図を見てクサイところがあったので、行ってみるとようやく発見できた。モニュメントを見たときは嬉しかった。あのモニュメントはかなり入り込んだところにあるので見つけがたいです。ちなみに下のロイヤルホストに車をとめて行きました。ロイヤルホストにもちゃんと行きましたよ。
2度目は2001年3月。これはいりなか駅で降りたのだが、直ではなく、中京大中京高校を見てから行きました。グラウンドが見えなかったのが残念。そこから歩いて山本球場跡へ。地図ではわからないが、かなりの起伏があります。中京大中京高校も丘陵の上にあります。モニュメントの付近ではガキンチョが遊んでいました。このモニュメント、地元のガキンチョの間では「センバツ」と呼ばれているみたいです。「センバツに行こ!」とか言ってましたので。なかなか親しまれていますね。そこから今度は中京大学法学部へ行く。実はここも野球場跡地なのです。そしてそこから「幻の野球場」へ…。私はずっとこう呼んでいたのですが、今回の調査で少しわかってきました。
今回はいりなか駅から上に紹介した道を歩いて行く。やはりかなりの丘陵地帯です。かなりの坂を登らされました。モニュメントにはやはりガキンチョが。そこから今度も中京大学法学部へ。これについてはまた後で載せます。
スタンドもなく、グラウンドはすっかり住宅団地にかわってしまいましたが、このようなモニュメントがあるとありがたいですね。豊中といい、鳴尾といい、高校野球に関する野球場跡地には何らかの記念碑があります。それに比べてプロ野球の野球場跡地は寂しいものがあります。昭和という時代に何千、何万が集結し、熱狂した場所なのに…
なお、都市地図にも更新されていない場合だと八事球場の跡がうっすらとわかります。昭文社『愛知県都市地図』1997年1月発行には八事球場の外郭が載っています。昭文社『愛知県広域詳細道路地図』2000年1月発行には、なんとスタンドまで載っています。これは貴重です。一度ご覧あれ。
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