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後楽園球場

 後楽園球場は1937年に完成した。経営者は株式会社後楽園スタヂアム。「後楽園」は水戸藩上屋敷の庭園の名にちなむ。後楽園球場の地はもともと水戸藩邸であり、明治に入ってからは砲兵工廠が設けられていた。

 後楽園球場完成前年の1936年に日本職業野球連盟が結成されたが、当時はまだ東京にプロ野球のできる野球場がなく、東京における初試合は早稲田大学の戸塚球場を借用するしかなかった。明治神宮野球場はあったが、これはアマチュア野球の殿堂であるためプロ野球での使用は認められていなかった。
 東京・大阪。名古屋でプロ野球球団の創設の動きが活発になってきたのと前後して、わが国初のプロ野球チームである芝浦協会の創立者である押川清と河野安通志が動き出した。1つは東京市内にプロ野球専門の新しい野球場を造ること、もう1つは球場付属の新球団をつくることであった。河野らは目黒の競馬場跡地を野球場予定地としていたが、砲兵工廠が小倉(現在の北九州市)に移転して空地となるので、そこに決まった。

 1936年11月2日に株式会社後楽園スタヂアムの創立発起人会が開かれ、同年12月25日に創立総会が開かれた。それまでに東京にプロ野球専用球場として上井草球場と洲崎球場が造られたが、郊外にあったり満潮時に浸水するなど立地条件はよろしくなかった。そのような状況の中、都心近くにある後楽園球場の完成が待ち望まれた。 1937年9月11日に竣工し、開場式のあとにオールスターによる紅白試合が挙行された。水原茂選手が後楽園球場第1号ホームランを放った。

 後楽園球場完成に先立ち、1937年1月18日に
「球場と所属チームは一体であるべし」という理想のもとに後楽園野球クラブが創設した。球団名は天かける猛禽の王者ワシの威風にちなんでイーグルスと名付けられた。イーグルスは同年2月5日に日本職業野球連盟の承認を受けて連盟に加入した。しかしイーグルスの経営状態はよろしくなく、1938年10月に野球場と球団が分離し、大日本麦酒社長の高橋竜太郎氏の庇護のもとに経営されることになった。1940年には日本風に「黒鷲」と改名し、1942年には球団の後援会長であった大和工作所社長の佐伯謙吉氏が引き受け「大和」と改名した。しかし1943年にチームは解散することとなった。

 一方で野球場経営には東宝系が参入することになる。東宝は野球場を広大な野外劇場として活用しようとした。グラウンドではレビューやページェントが行われ、スタンド下では貸ガレージ業や映画館が開設された。戦局が悪化するにつれてイベントも戦時色に染まってきた。
 戦時体制にはいっていくなかで、プロ野球でも軍事色が濃くなっていった。1940年には球団名の日本語化が実施され、さらに1943年には野球用語からカタカナが追放された。ユニフォームは白または国防色に限定され、背番号や球団マークは廃止となり、帽子は戦闘帽となった。試合前に手榴弾投げ競争が行われることもあった。プロ野球興業は1944年まで続いたが、同年秋に中止となった。
 後楽園球場には戦時中、高射砲陣地が設置された。金属回収の指令に基づいてスタンドの金属製取付椅子18,000個が供出され、2階のスタンドには機関砲のほか電波探知機や観測機などが据えつけられた。スタンド下には兵隊の宿舎となり、グラウンドにはトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、キュウリの畑となった。1945年4月14日、アメリカ軍の空襲により、スコアボードが焼け落ちた。

 戦争が終わると、後楽園球場は日本軍の兵器の集積場にされ、進駐軍に引き渡すために各地から機関銃や高射砲などが集められた。連合軍最高司令部(GHQ)は進駐軍兵士への娯楽の提供のため、1945年11月14日に後楽園球場を接収した。明治神宮野球場や甲子園球場も接収された。接収が解かれたのは1946年2月6日のことである。GHQが野球を奨励したこともあり、戦後すぐにプロ野球が復興し、野球ブームが訪れた。
 この野球ブームが日本野球連盟への
加盟申込があいつぎ、ついにセパ両リーグ分立を招くことになる。1950年は15球団あったのだが、在京5球団(読売・東急・大映・毎日・国鉄)が全て後楽園球場を本拠地とした。関東には後楽園球場の他にプロ野球に適する野球場がなかったのである。1950年にはプロ野球の本拠地球場ではじめてナイター設備が設けられた。

 一方、会社の方は戦後民主化の「独占禁止」と「集中排除」により、東方系から完全に独立することとなった。また多角経営により、軟式野球場、場外馬券売場、競輪場、室内アイススケート場、ローラースケートリンク、プール、そして遊園地が次々と開設されていった。特に競輪場は売上額が全国一で、会社経営を安定させる柱となっていた。しかし美濃部都政が公営競技廃止政策をうちだすと、それを受けて1973年に廃止となってしまう。競輪場は競技場に改称され、夏季はジャンボプール、それ以外の季節はジャンボゴルフ練習場として使われていた。
 野球関係では、1959年には敷地内に「野球の殿堂」を飾る野球体育博物館が開設された。さらに、電光式スコアボード(1970年)、人工芝化(1976年)、オーロラビジョン(1981年)もすべて後楽園球場がわが国初であった。球団の本拠地としては、当初は5球団あったのが、1954年に東映フライヤーズが駒澤野球場に、1962年に大毎オリオンズが東京スタジアムに、1963年に国鉄スワローズが明治神宮野球場に移った。なお東映フライヤーズは1962年に戻って来ている。
 後楽園球場はまた様々な名シーンを見てきた。1959年の天覧試合、金田正一投手の通算400勝、長嶋茂雄選手の引退セレモニー、王貞治選手の756号本塁打の世界記録樹立。いずれも後楽園球場が舞台であった。

 株式会社後楽園スタヂアムがエアードームの建設計画を発表したのが1984年。競技場を解体し、日本初のドーム球場・東京ドームが建設されることになった。東京ドームの工事が進む一方で、後楽園球場はその役目を終えることとなった。完成から丸50年。プロ野球公式戦7,172試合、通算本塁打10,416本はいまなお日本一である。なお東京ドームは1988年3月17日に竣工した。

 後楽園球場の跡地には東京ドーム寄りにプリズムホールが建てられた。他は駐車場として用いられていたが、東京ドームホテルが造られることになり、2000年6月1日にオープンした。地上43階、地下3階、高さ155mの高層ホテルである。東京ドームホテルは東京ドームを本拠地としている読売ジャイアンツと日本ハムファイターズの観戦宿泊プランを行っている。

参考文献
後楽園スタヂアム社史編纂委員会編(1990):『後楽園スタヂアム50年史』後楽園スタヂアム,396p.

後楽園球場の画像

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