このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

洲崎球場

 伝説の多い野球場といえば洲崎球場であろう。満潮時にグラウンドに海水が浸入してコールドゲームになったことをはじめ、グラウンドから貝殻が出てきたり、スタンドにカニがはいずっていたなど、数々の言い伝えがある。

 洲崎球場は海抜60cmほどの埋立地であった東京瓦斯の材木置場に、1936年10月13日に完成した。大東京軍の専用グラウンドであり、大東京球場ともよばれた。
 大東京軍は国民新聞社を母体に創立された。当時、国民新聞社は新愛知新聞社の支配下におかれていたため、田中斉は名古屋と大東京の2球団のオーナーということになった。読売新聞社の正力松太郎は、東京ではプロ球団を他の新聞社に結成させないことによって読売新聞社の独占事業にすると考えていたが、国民新聞社の球団設立により正力の目論見は外れてしまった。
 日本職業野球連盟発行の「聯盟ニュース」第九号のp.14に「本年スポーツ界の棹尾を飾る職業野球リーグ戦 洲崎大東京球場に展開さる」と題して以下のような概要が書かれている。

 本球場は城東区南砂町四丁目の六二四番地から七八九番地に亘る一萬八百坪の地域を占め、周囲の如く深川区と城東区との境界近く東陽公園の際、城東電車の沿線に位置しているが、球場として必須の条件たる交通の利便は極めてよく、洲崎市電終点及び青バス終点から徒歩六分、市バス及城東バス終点からは僅かに三分にて達し、円タクを駆れば日本橋より八分、銀座より十二分にして球場裡の人となり得る。左に表示せる本球場への各交通機関運転系統を一覧すれば、恰も本球場へ満都のファンを吸収せんがための施設の如き感があらう。

 1936年11月29日から12月7日まで、東京第二次リーグ戦が総当たり戦で計21試合行われた。また12月9日から3日間、年度の優勝チームを決定する試合が行われた。これは「洲崎決戦」としてよく知られている。1936年は各大会ごとに優勝チームが決められたが、9月18日から始まった第二回全日本職業野球選手権大会では各大会ごとの勝者に勝点1を与え、勝点の合計が最も多いチームが優勝という決まりになっていた。東京巨人とタイガースが2.5で並んだために、3回勝負の優勝戦を行うこととなったのだ。優勝は2勝1敗で東京巨人が勝ち取った。

 洲崎球場のエピソードとして、福室正之助氏は「潮の香りの洲崎球場」と題して以下のように記述している。


 満潮でコールドゲームになったときは見ませんでしたが、木造のスタンドをカニがはいずっていたのや、風が潮のにおいをはこんできたこと、グラウンドの中から貝がらが出てきたことなど懐かしい思い出です。
 十一年十月十四日に開場式が行われ、たしかプロの最初の試合は十九日に大東京都名古屋だったと思います。阪急の倉本が第一号ホームランをかっ飛ばしたのをこの目で見ています。
 この開場試合か何か、はっきり忘れましたが十時の試合開始に八時ごろ一番のりした人が調布の人だった。新聞記者がインタビューすると、頭をかきかき「イヤァー、ゆうべはあそこの泊ってね」有名な洲崎の遊廓が近くにありました。
 (中略)
 私はずっと練馬に住んでいましたが池袋から大塚、門前仲町と市電(当時)を乗りつぐと往復九銭で行けたのをおぼえています。その切符はいま、後楽園の野球博物館にお預けしてありますよ。
 それと埋立地だったので、帰りには露店が出てアサリを売っていたのも懐かしい思い出です。第一試合十時、第二が正午、第三が二時の試合開始なんてのもザラでしたね。当時だって野球は九回だったから進行は早かったですよ。

 ちなみにベースボール・マガジン社が2001年に発行したベースボールマガジン夏季号『野球場』のp.31には、海水がグラウンドに浸入している写真が掲載されている。

 洲崎球場は1937年には92試合も使用されたが、1938年は3試合と極端に減り、1939年以降は使用されなくなった。1945年測図の1:10000地形図「洲崎」にすでに洲崎球場が載っていないところをみると、戦中期に廃止されたものと思われる。
 洲崎球場の跡地は現在の江東区新砂1丁目にあたり、一帯は工場地帯となっている。

参考文献
阪神タイガース編(1991):『阪神タイガース昭和のあゆみ』阪神タイガース,619p.
福室正之助(1980):潮の香りの洲崎球場.牧野喜久男編:『別冊一億人の昭和史 日本プロ野球史』毎日新聞社,pp.262〜263.

洲崎球場の地形図

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