このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

横浜スタジアム

 詳しい解説はありませんが、横浜スタジアムが造られる以前に、横浜公園内には平和野球場という野球場がありました。また横浜公園ではわが国で初めての国際試合が行われました。これは 「横浜の外人居留地運動場」 を参照してください。

観戦記 (たっちゃんさん)

横浜スタジアム「こけら落とし」
1978年4月4日/横浜大洋vs巨人

 その日、中央大学の移転新築されたばかりのキャンパスに初めて登校し、学部2年次の科目履修届を午前中早めに提出した僕は、その足で横浜に向かった。
 「今日は初物づくしだ。新しいスタジアムが横浜に出来て、それがまたカッコいいらしい」。
 前売り券は持っていないが、何とか当日券で入ろうと思って急いだところ、その甲斐あって、外野の右翼中段に入ることが出来た。当然グラブ持参だった。
 その席から見たグラウンドは、当時としては深い94mの両翼と5mの外野フェンスから俯瞰することもあってか、後楽園より相当広く感じた。
 (ちなみに当日の後楽園ではキャンディーズのさよなら公演があったらしい)
 外野には、スタンドを移動させる際のレールにフタをした部分が見て取れた。
 「なるほど、これに沿って動かすのか」。
 メッセージボードはモノクロだったが、映像を映し出す機能があった。
 先発メンバー紹介のときに選手の顔がアップになると、どよめきが起こった。僕も感嘆した。
 無理もない。後楽園のメッセージボードなど幼稚園児の版画程度のものしか映し出せなかったのだから。
 もちろん、試合中のプレイバックも映し出されたが、外野席からは角度的によく見えないので、あまり振り向いて見ることはなかった。
 また、打順表示は10人分あり、セ・リーグ球団の本拠地でありながら、パ・リーグでもまだ採用間もないDH制に対応したものとなっていたのも目を引いた。基本設計からDH制に対応したのは日本初ではなかったろうか。
 ちなみに後楽園では本来のチーム名の欄に投手名を表示するという苦しい対応を行っていた。

 「こけら落とし」らしくセレモニーが行われ、両翼ポール際にあるレリーフが除幕された。レフトにはベープ・ルース、ライトにはルー・ゲーリックのレリーフが設置されていた。ポールもそれぞれルース・ポール、ゲーリック・ポールと紹介された。両選手がプレーしたことのある横浜平和球場の伝統を引き継ぐということだろう。個人的にはレフトとライトを逆にした方がよいように思ったが・・・。

 足が不自由な飛鳥田一雄前市長が杖をついて登場し、マウンドのかなり前から始球式を行った後、いよいよプレーボールとなった。
 先発投手は横浜が斎藤明雄(後に明夫と改名)、巨人が小林繁(巨人では最後のシーズンとなる)。
 守備についた横浜のユニフォームの胸には「YOKOHAMA」。これも斬新。
 ホーム用ユニフォームにはニックネームを表記する慣例を破っていた。
 袖の小さな文字と、帽子の「W」が僅かに WHALES をあらわしていた。
 1回表、巨人は柴田、土井で無死1,3塁のチャンスを作るが、3番張本の併殺打の間に1点を挙げるに留まった。
 その裏、早くも「広さ」を実感させるプレーが出た。
 右翼前方の飛球に右翼・柳田が突っ込んだが後逸、「94m」のポール際に向かって転々とするボールを二塁手の土井がフェンス際まで追いかける破目になり、それが三塁打になったのだ。
 「う〜ん、ここじゃ外野は気をつけなきゃな」。
 結局、横浜の反撃を許した巨人は小林の後、西本−角とつないだが1−4で敗れた。
 斎藤明雄は完投勝ちだった。

 王、笠間(ともに巨人)に本塁打性のファウルがあったものの、結局両軍とも本塁打が出ず、「広い」イメージを増幅した。
 いまや「狭い」球場のひとつに数えられる同スタジアムであるが、日本の球場を「91.4m の呪縛」から解き放った意義は大きいだろう。
 その傾向は、翌年オープンする西武球場(両翼 95m)に引き継がれるのである。
 それにしても、横浜は綺麗なスタジアムだった。
 後楽園や神宮とは全く違う雰囲気で、球場自体を楽しめるのはここだけだと思った。
 G党の僕が、巨人が負けたにもかかわらず充分な満足感をもって球場を後にしたのは、この時以外にない。
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 巨人の先発投手がどうしても思い出せなかった僕は、横浜スタジアムにメールで問い合わせたのだが、快く回答していただいた。
 同スタジアムおよび担当者の方に感謝するものである。

← こけら落とし当日の入場券(画像提供 : たっちゃんさん)

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