このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

横浜の外人居留地運動場

 明治29年、わが国初の国際試合が行われた。一高と横浜のアマチュア倶楽部との大戦である。その時に用いられたのが明治7年に開設された横浜の外人居留地運動場である。当地は現在の横浜公園で、横浜スタジアムも存在する。アマチュア倶楽部へは一高の投手である青井鉞男が出入りしていて、そこでドロップを習得した。
 初の国際試合に至るまでの過程を『日本野球史』は以下のように書いている。

 横浜には外人が一緒になって、アマチュア倶楽部を組織して、野球、庭球、クリケット、ボート等に対して非常な誇りを持っていた。そのグラウンドは今の横浜公園で、そこへは何者も入れないくらいであったが、青井は数時そこへ遊びに行った。彼の最も得意とするドロップはそこで習得したものだ。である日彼は試合を申し込んだか、明治二十五年以来鎖国主義を採って来たアマチュア倶楽部は、未だ日本人の体躯の矮小なると技術のぎこちなきことを挙げて受け付けなかったが、青井の熱心はそれくらいのことには辟易しかなった。そして彼も常に外人と一緒なる機会をつくって試合をすることを頼み、一方一高の英語教授メイゾン氏を介して、同じ希望を伝えたので、外人団も遂に折れて、五月二十三日に横浜で試合をすることになった。

 なお試合は一高が29対4で大勝した。その夜、一高では寮生1,000人が集り、篝火を焚いて勝利を喜んだ。大勝に酔っているあいだ、横浜外人団から復讐試合が申し込まれた。今度はアマチュア倶楽部にアメリカ合衆国東洋艦隊チャーレストン号、デトロイト号の精粋を抜いたオール外人チームである。再び横浜公園にて試合が行われたが、今度も32対9で一高が大勝している。その後も両者の試合は横浜や一高グラウンドを舞台に行われた。

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