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大阪球場は1950年に南海ホークスの本拠地球場として完成した。
プロ野球球団・南海軍(商号は南海野球株式会社)は1938年3月29日に9番目のチームとして日本職業野球連盟に加盟した。この新チームは実力が定かでないことから、公式戦としては1938年秋からの参戦となった。1939年8月11日には南海高野線の沿線に中モズ球場が完成したが、同球場ではあまり公式戦が行われず、戦前の関西におけるプロ野球公式戦の野球場はほとんど甲子園球場と西宮球場に限られていた。1944年6月1日に南海軍の親会社である南海鉄道が鉄道統制令により関西急行電鉄と合併して近畿日本鉄道となったので、南海軍も「近畿日本」と改称された。商号は近畿日本野球株式会社1)。
戦後の1946年1月25日に近畿日本は近畿グレートリングと改称することとなる。グレートリングは、近畿日本鉄道の象徴である「鉄輪」からヒントを得たもので、「大車輪を響かせて走る球団。そして、チームの輪は和に通じるという意味もあった。グレートリングと決定したとき、社内の評判は上々だった」とか(ベースボール・マガジン社,1988)。近畿グレートリングはやたら米兵に人気があった。というのも「グレートリング」とは彼らの隠語で「巨大な女性自身」という意味だったからだ。しかしこのニックネームのおかげで、米兵が大勢でプロ野球観戦にやってきたり、GHQまでもがこの球団に興味を示すようになった。そのおかげかこの年、球団創設9年目にして初優勝を成し遂げた。戦後の初優勝のチームである。
1947年の近畿日本鉄道から南海電鉄の分離に先立ち、同年5月3日に南海が復活、ニックネームもホークスに改めた。新生・南海ホークスは1948年にも優勝した。
しかし南海ホークスには当時はまだこれといった持ち球場がなかった。1948年のフランチャイズ制の仮導入の際には、南海ホークスの本拠地は暫定的に甲子園球場となっていた。連合軍最高司令部(GHQ)の経済科学局長マーカット少将2)はこれを不憫に思い、野球場建設の資材を提供することにした。日本専売公社大阪地方局が約200mほど東へ移転するので、その跡地を野球場にすることになった。ここは南海電鉄のターミナル・難波駅のすぐ隣りであり、ミナミの繁華街にも近く、立地条件は最高であった。新球場の建設にはGHQだけでなく、当時の野球ブームにより税金がたくさん入るとふんだ大阪府および大阪市の協力も得られた。1949年10月31日に大阪スタヂアム株式会社が創設され、1950年9月12日に大阪球場が完成した。場所から難波球場とも呼ばれた。
大阪球場の特徴は内野スタンドにある。用地の関係上、極めて急な傾斜であった。45度まではいかないが、それくらいに思わせるような角度があり、酔っ払いが足をすべらせて転げ落ちるほどであった。ナイター設備が完成したのは1951年7月18日で、プロ野球の本拠地としては後楽園球場に次いで2番目であった3)。
なお大阪球場を本拠地としたのは南海ホークスだけではない。近鉄パールス(現在の大阪近鉄バファローズ)は藤井寺球場を有していたが、同球場が郊外にあるため1958年に日本生命球場に進出するまで身をよせていた。またセ・リーグの大洋松竹ロビンスも1953年から2年間だけ本拠地としていた。
南海ホークスは1950年代から1960年代中頃まで長きにわたり黄金時代を築いていた。1959年には日本シリーズで読売ジャイアンツを4戦全勝で倒し、10月31日に念願の御堂筋パレードを成し遂げた。大阪府警の発表によると、当日は20万人のファンがつめかけ、紙吹雪が乱舞した。
大阪球場を運営する大阪スタヂアム株式会社は、スタンドに卓球場(1954年)や場外馬券売場(1956年)を設けた。1952年には別に大阪アイス興業株式会社が設立され、アイススケート場(1952年)、プール(1954年)、ローラースケート場(1967年)、ボーリング場(1970年)を開設したが、両社は1977年に合併して大阪スタヂアム興業株式会社となった。
しかし1973年を最後に優勝から遠ざかる。1978年からはAクラス入りすらできなくなる。
そして1988年、南海はホークスをダイエーに身売りすることになる。ダイエーはフランチャイズを福岡に移すことを決めた。球団発足からおよそ半世紀。南海ホークスは九州で福岡ダイエーホークスに転身した。主がいなくなった大阪球場であるが、近鉄バファローズが1989年と1990年に計17試合ここで行った。そのうち11試合が福岡ダイエー戦であった。しかし1991年からは公式戦が行われることはなくなった。その後は住宅展示場として使われ、グラウンドにはコンクリートが敷かれて家が何軒も建っていた。
しかし大阪球場の一帯が難波再開発地区に指定され、1998年11月に解体工事が始まった。2008年春には「未来都市なにわ新都」が誕生することとなる。2001年7月現在、大阪球場は解体工事の真っ只中である。ただスコアボードの下には場外馬券売場があり、いまだ活気づいている。また大阪球場スポーツセンターは卓球場とボーリング場が難波再開発工事期間中も営業している。
注
1) ただし、会社が大阪法務局に対して商号変更を行ったのは戦後の1946年1月15日のことで、それまでは会社名は従来通り南海野球株式会社で、球団名の略称が近畿日本であった(南海ホークス四十年史編集委員会編,1978)。
2) マーカット少将は極東地区コミッショナーとして野球と深い関わりを持っており、日本の占領政策を成功させるのには野球を奨励するのが早道であると考えていた(鈴木,1980,p.277)。
3) ナイター設備ができたときに、以下のような歌がうたわれた。
「月が出た出た月が出た 大阪球場の上に出た あんまりライトが明(あか)いので さぞやお月さんまぶしかろ サノヨイヨイ」
参考文献
南海電気鉄道編(1985):『南海電気鉄道百年史』南海電気鉄道,723p.
南海ホークス四十年史編集委員会編(1978):『南海ホークス四十年史』南海ホークス,400p.
ベースボール・マガジン社編(1988):『さらば!南海ホークス』ベースボール・マガジン社,162p.
鈴木龍二(1980):『鈴木龍二回顧録』ベースボール・マガジン社,449p.
大阪球場スポーツセンター : http://www.nankai.co.jp/guruguru/arena/
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