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平和台球場

 平和台球場について書くまえに、まず野球場名「平和台」の由来から述べる必要があろう。
 平和台球場は福岡城跡に建設されていたが、戦前はこの地に歩兵第24連隊の本営が置かれていた。戦後、福岡市はスポーツによって市民に復興の意欲をかきててて、明るく健全な平和社会を建設しようと、1947年に市民運動場をこの地に造成した。運動会の完成を機に、国民体育大会の誘致しようとする機運が高まり、1948年秋の第3回大会の開催が福岡市に決まった。福岡城跡には、開会式を行う陸上競技場やサッカー・ボクシング・ラグビーの各競技施設が完成し、同年10月18日に完工式が挙行された。時の市長・三好弥六は市復興のシンボルとして福岡平和台総合運動場と命名し、通称「平和台」と呼ばれるようになったのである。

 サッカー競技場跡に野球場が完成するのは1949年12月18日のことである。しかも、当時のプロ野球がパ・リーグとセ・リーグの両リーグが分立したまさにその時であった。福岡にはパ・リーグの西鉄クリッパース、セ・リーグの西日本パイレーツの2チームが誕生した。この2チームはもともとは1チームになるつもりだったのが、一方は電鉄会社、もう一方は新聞社の関係上、分裂されたのである。平和台球場は下関球場と同じく、セ・リーグの記念すべき初試合が行われた野球場となった。当時はセ・リーグよりもフランチャイズ制が整っていたパ・リーグでは、西日本鉄道が福岡郊外の春日原球場と香椎球場を持っている関係で、クリッパーの主催試合でもあまり用いられることはなかった。
 親会社の都合上別れることになった両チームであったが、1951年1月末に合併し、新たに西鉄ライオンズが誕生した。所属はパ・リーグである。そのライオンズの本拠地・平和台球場は、当初はかなりボロかったらしい。西鉄ライオンズOB・豊田泰光氏は以下のように述べている。

 あのボロ球場には参ったよ。後楽園球場なんかを知ってるもんだからびっくりしたね。あれなら水戸の県営球場のほうがマシですよ(笑)。正直、えらい所へ来てしまったなあと後悔しました。トイレがベンチの中にあって、暑い日はアンモニアの臭いがひどいもんだ。試合中に眠たくなったらトイレに入って、アンモニアのツーンという刺激で眼を醒ましたもんですよ(笑)。(森山,p.65)

 この他、ベンチの後ろに通風孔があり、そこから女性のスカートの中が見えて大喜びしたとか。またスタンドが低かったようで、グラウンドから野球場外の民家の屋根が見えたほであったとか。元球団マネージャーの藤本哲男さんによれば、打撃練習のファウルボールがスタンドを越えて球場外に飛び出すので、アルバイトの学生を使って堀に落ちているボールを拾いあげたとか。一塁側スタンドの後方は福岡城の堀なのである。
 1953年8月29日の対大映スターズ戦で記録的なホームランが飛び出した。6回2アウト無走者。大映はエース・林義一投手。打席に立つのは怪童・中西太選手。センターオーバーと思われた当たりが、そのままのびてスコアボードの上を越える場外ホームラン。推定162m。平和台球場のスコアボードの上には、通過したと思われるところに、ボールをかたどった記念標識が立てられた。
 平和台球場が全面改修されたのは1958年のことである。改修といっても野球場全体を造り直すほどの大工事であった。前出の豊田選手は、野球場に風呂とロッカーができたことが嬉しかったとか。

 西鉄ライオンズについて概略すると、1954年にリーグ初優勝、1956年からは日本シリーズ3連覇をなしとげるが、昭和40年代には低迷を続けることになる。一時はライオンズ再建のために「九州ライオンズ」という構想まででてきたこともあった1)。しかし1972年10月27日、西日本鉄道は中村長芳氏に球団を譲渡することになる。中村氏は当時ロッテオリオンズのオーナーでもあった。中村オーナーをバックアップする資本元は株式会社太平洋クラブ2)で、球団名は太平洋クラブライオンズ。ただし会社名は福岡野球株式会社で、1978年までの6年間球団運営を続けた。なお1976年10月にクラウンライターをスポンサーとし、クラウンライターライオンズが誕生する。
 ライオンズを引き継いだ福岡野球であったが、球団は中村オーナーの個人会社のようだったといわれるほどなので、評判は芳しくなかったようだ。また福岡市も非協力的で、球場使用料が条例改正によって西鉄時代の6倍もとられたという。1978年にライオンズの監督に就任した根本陸夫氏は、「球団と福岡という地域社会が分離しているのが不思議だった」(森山,p.244)という。
 経営が悪化しながらもなんとか続いていた福岡野球株式会社であったが、1978年10月、ついに球団を国土計画の堤義明氏に売却し、あわせてフランチャイズも福岡県から埼玉県に移されることになった。これによって四半世紀にわたる福岡のライオンズは、所沢に移ることになってしまった。

 ライオンズが去った1978年から、ホークスが来た1988年まで、福岡にとってはプロ野球チーム不在の「空白の10年」となってしまうわけであるが、その頃の状況についてはあまり知られていない。実は1978年12月に平和台野球株式会社という興業会社が誕生したのである。福岡市、九州電力、西日本新聞社がリーダーシップをとり、地元企業22社が協力した。ホークスが来るまでの10年間、約300試合を行っていたのだという(森山,p.236)。福岡におけるプロ野球チームの誘致については 福岡ドーム ホークスゾーン を参照してください。

 福岡にプロ野球チームが再び現れることになるのはそれから約10年後。1988年にダイエーが南海ホークスを譲り受けた際に、福岡をフランチャイズにすると発表。福岡ダイエーホークスが誕生し、福岡ドームが開設される前年の1992年まで平和台球場を本拠地とした。
 ホークス買収を知っていたのか、福岡市は1987年に十数億円の予算を組んで平和台球場を大改造している。外野席の改修工事を行っていたところ、その下から古代の迎賓施設である鴻臚館の跡地が発掘された。しかし実際には1958年の改修時にすでに分かっていたが、公表すると野球場が使えなくなるのであえて発表しなかったのだとか(森山,p.81)。

 平和台球場での最終公式戦は1992年10月1日。福岡ダイエーホークス×近鉄バファローズ。若田部健一投手と野茂英雄投手の投げ合いで、広永益隆選手の値千金の本塁打で1−0でホークスが勝利した。
1997年11月24日に「さよなら平和台球場」のイベントが行われ、48年の歴史に幕を下ろした。
 『わが青春の平和台』では平和台球場の思い出として、平和台球場に携わった選手および関係者が何人か述べている。そのなかで平和台球場がなくなることについての感想を2つ書き出したい。

稲尾和久選手
 僕は平和台球場で生まれ育ったから。ちょっと大げさに言うと、僕にとって平和台球場は母親のようなもの。平和台球場のファンは父親。西鉄ライオンズが助産婦さんかな。だから平和台球場がなくなるというのは母親を亡くすような気持ちですよ。(p.80)

豊田泰光選手
 うん、俺は賛成だ。何年か前に桑原・福岡市長に会った時、どう思うかって尋ねたらので、鴻臚館の文化遺産の価値を考えれば、平和台球場の取り壊しも止むなしと思う、と答えましたよ。(p.64)


 平和台球場を母親とたとえている稲尾選手に対し、取り壊しも止むなしとする豊田選手は非情な感じがする。しかし氏最後のOB戦で「この地に昔、平和台球場があったということ、そして西鉄ライオンズという強力なチームがあったということを子々孫々まで伝えてほしい」と涙ながらに満員の観衆を呼びかけた(森山,p.iii)。
 現在、外野スタンド後方には鴻臚館跡展示館が建っており、跡地は歴史公園として整備される。その一方で、OBが中心となって平和台球場の跡地に何らかの記念碑を残そうという運動も出てきている。これは嬉しい限りだ。戦前の中等学校野球の全国大会が行われた豊中球場、鳴尾球場、山本球場にはなんらかの記念碑が設けられている。しかしプロ野球の本拠地球場にはそれらしき記念碑はみられない。私はこのことについて常々残念に思っていた。古代の外交施設も歴史的遺産だが、平和台球場も昭和という時代を反映した立派な歴史的遺産だと思う。平和台球場の跡地に記念碑が建てられることを
ぜひとも望む。


1) 「九州ライオンズ」構想については以下の通りである。
 「私鉄運賃値上げを論議する公聴会に出席のため、上京中の吉本弘次西鉄社長は七日夜、」宿舎の東京・パレスホテルで「西鉄ライオンズ再建のため、九州に本社のある企業の協力を求め、九州ライオンズといった形でチームをもりたてたい」との構想を明らかにした。
 これは吉本社長が先月中ごろ、橋本運輸相に会った際、同相がライオンズはただ福岡や西鉄のものでなく、たとえば新日鉄や九州電力など九州に本社のある企業の応援を求めてもりたててはどうか、とすすめたところ、吉本社長もかねてその方向で考えていたとして意見が一致したという。
 吉本社長によると、いまのフランチャイズ制が続くかぎり、九州に基礎をもたなくてはならない。そのためには、九州の有力企業に協力を求め、共同出資してもらうか、経費の一部を負担してもらうことが考えられる。いずれにせよ、ライオンズを手放す気持はなく、今シーズン終了後オーナーと話合って具体的な方法を検討したい、といっている。」(朝日新聞、1970年7月8日)
2) 当時の株式会社太平洋クラブの概要は以下の通りである。
 「東京都港区三田一ノ一○、昭和四十六年五月設立、資本金五億円、会長藤井丙午(新日鉄副社長)社長小宮山勇、副社長小宮山義孝。太平洋圏にレジャー施設を建設、運営することを目的とし、グアム島にゴルフコース、テニスコート、ロッジ、遊歩道、韓国慶州に海洋レジャー施設を建設中のほか、アラスカ、アメリカ太平洋岸、ハワイ、シンガポールのレジャー施設との提携を計画している。」(朝日新聞、1972年10月28日)
 なお株式会社太平洋クラブは現存し、全国にゴルフコースを開いている。しかし九州にはゴルフコースはない。

参考文献
森山真二(1998):『わが青春の平和台』海鳥社,270p.

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