このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

赤坂溜池

 初期の学生野球をリードした工部大学のグラウンドは赤坂溜池にあった。ここは広々とした芝生で、工部大学だけが使うのはもったいないということで、溜池倶楽部というクラブチームが組織された。私は東京の地理に詳しくないが、この地は千代田区永田町から港区赤坂の一帯だと思われる。この溜池は慶長11年に大名の浅野幸長が造成した人口湖で、江戸城の外堀と江戸南部の上水源を兼ねており、ひょうたん湖とも呼ばれた。明治8〜9年頃から水を落として干潟とし、広野となった。同15年には堰堤を壊して陸化が進み、同21年に同地に溜池町が成立した。溜池倶楽部が出来たのは明治18年なので、ちょうど陸化が進んで地盤が固くなってきたときにここを用いたのであろう。
 『日本野球史』には当時のこのグラウンドの状況について以下のように書かれている。

 工部大学のグラウンドは赤坂溜池にあった。現在の溝になっているところから、三会堂の裏の京橋、芝区への送水の鉄管のあるところまで広々とした芝生であった。春などはその芝生の中にいろいろの若草がもえ出で、土筆等がニョキニョキと出ているのが何とも知れず人の心をそそった。鬱蒼たる山王の森を控え、近くにはその頃からボツボツ出来かけた旗亭に時には絃歌が湧いて、ものうい夕暮れには若い者の心を躍らせた。そのグラウンドがとても広くて、工部大学で使っただけでは勿体ないというので、誰云うとなく自然に集まって来た十数名の若人があった。そしてそれが自ずから溜池倶楽部という純粋の倶楽部チームを作って東都の一角に華々しい名乗りを上げた。

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