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わが国最初の野球場は新橋アスレチック倶楽部が設けた保健場だといわれている。新橋アスレチック倶楽部は明治11年に平岡熈が新橋鉄道局に就任したときに組織され、わが国初の野球チームとされている。もともと平岡熈は鉄道習得のためにアメリカ留学したが、そこで本場の野球の知識を得て、帰国の際に競技方法を細かく教えていた。保健場の所在地は新橋駅構内という説や、品川八つ山下という説があり、はっきりしない。
『日本野球史』には新橋アスレチック倶楽部について以下のような記述がみられる。
平岡熈氏が明治十一年新橋鉄道局に就任するに及んで新橋駅内にチームを組織した。参加したのは寺澤、佐々木、千葉、橋本といった技師駅員、それに外人技師等も加わり熱心にやり出した。その名もアスレチック倶楽部といって駅近くにグラウンドを設け、これを保健場と唱えて従業が終わるとここ来て練習を行った。用具は平岡氏がアメリカから持ち帰ったグラブが二つあまりにボール、バットであったので、鉄道局では汽車の腰掛けの羅沙屑やその中に入っている糸屑を引き出したり、窓のところにあるゴムを外してボールの心にしたりしてボールを作り、バットは鉄道工場で作り出した。その頃の試合は朝十時から始めて夕暮れまでかかるくらいで、点数も五十八対三十七とか、時には百何点対九十何点ということもあった。一インニングにバッターに立つことも数回で、『オイ、俺はこれで三度だよ』と云うと、『俺はもうすぐ四度目さ』と云ったものである。
試合の前夜はまた大したものだった。何しろ和製のボールは作れたがすぐに破れる。バットで五六度も打てば球はゆがんで今のゴム球のようになってしまうのであるから、試合前にはみんなが揃ってボール作りをやる。それがはげしい時には午前二時、午前三時までかかるという調子で、ボールが出来上がってから一眠りする。すぐグラウンドへ出て試合の用意に取りかかる。それから終日かかる試合が行われるのだからとてもたまらない。でも各選手は喜んでボールを作り、喜んで一日を遊んだものである。(pp.8〜9)
ボールもバットもグローブも充分ではない時代において、自らがボールを徹夜作業で準備するなど、文字通りの手造りの野球であったといえよう。しかし鉄道員が汽車の窓にあるゴムを外してボールを作ったりしていいものなのだろうか。保健場については詳しい記述は記載されていないが、「駅近くにグラウンドを設け、これを保健場と唱えて」とあるところから判断すると、新橋駅構内にグラウンドが設けられたものと判断できる。
当時はグラウンドとして適切なものが少なかったのであろうか、保健場では東京の多くのチームが試合を行っている。最初の対校試合とされる立教大学×工部大学の試合も保健場で行われている。
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