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駒場の農学校や工部大学から、一高へと学生野球の中心は移った。一高に野球部が創立したのは明治21年(1888年)で、学校の正式名称は第一高等中学校であった。明治27年(1894年)に第一高等学校と改称された。明治22年(1889年)に一ツ橋から本郷に移転したが、その本郷台に広さ六千坪のグラウンドを作った。まさに現在の東京大学球場が建っている一帯である。
『日本野球史』に当時の一高グラウンドの様子が描かれている。
当時の一高グラウンド、幾百戦士の涙と血を注いだ思い出多き向ケ丘はその自治寮史に、
『向陵の地たる当時に於いては未だ荊棘茫々たる野にして素よりグラウンドと称すべきなく単に時計台の前庭に平坦の地ありしのみ、新グラウンド成りしと雖も凹凸徒に多くして練習用としては完璧と云うべからず、唯広闊の地を利してノックにつとめ昼夜後常に二十余名の群集球を追うのみ』
とある如く、草蓬々と生え、根津の方は崖になっていて、球が左野の方へコロコロころがるとすぐその崖へ落ちて行方がわからなくなる。本郷台には点々として数えるほどしか家がないから、そのグラウンドに立つと如何にも広々とした感じがした。一高生はその中で毎日練習する。先輩が来て激励したりノックを打ったりする。彼等は溜池を破らんという気概に燃えていた。
なおこの一高対溜池クラブは32対6で一高が大勝した。また明治野球史に残る大事件、インブリー事件がここでおきている。一高対明治学院の試合中、明治学院の講師であったインブリーが一高校庭の低い竹の垣根をまたいで入ってきて、それに怒った一高の生徒によりバットで殴られた。これがインブリー事件の概要である。当時の対戦状況は一高が劣勢にたたされており、相手チームの外国人講師の無礼な行いに対して憤ったのであろう。この事件は国際問題まで発展しそうな雲行きであった。
『野球場大事典』のp.32に「明治時代の一高グラウンドにおける練習風景」という写真がある。竹と網でつくられたバックネット越しに、6人のバンカラ風学生が練習風景を見ている。捕手は中腰に構えている。打撃練習なのであろうか、バッテリーから一塁側に5mほど離れたところで、監督らしき人物が腕組みをして練習を見守っている。レフト側のグラウンド外に3軒家がみられる。森に囲まれているが、そこが根津神社なのであろうか。
参考文献
沢柳政義(1990):『野球場大事典』大空社.
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