このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

稲荷山

 慶應に野球部ができたのは明治16年であるが、正式に大学チームを組織したのは明治26年である。当初のグラウンドは稲荷山に所在した。稲荷山は現在の港区三田2丁目15番にあたり、慶應義塾大学が建っているところである。『日本野球史』はこの稲荷山のグラウンドの概要について以下のように記している。

 その頃の慶応グラウンドは今の三田山上にある図書館のところで俗に稲荷山といった。長方形の土地で外野の後ろは崖になっていたから、強い球を逸するとコロコロところがってよく崖下に落ちて見えなくなるようなこともあったが、何しろ品海を見渡してボールを追ってゆく気持ちは何とも言えない。ダイヤモンドの形はトランプのダイヤのような菱形であった。投手と捕手の距離は投手と二塁と同じだが、一塁と三塁の間が馬鹿に狭く、本塁と二塁の間が非常に長かった。で本塁から二塁へ投げることはなかなか難しかった。その代わり一塁から三塁、三塁から一塁へ投げることは非常に楽で、投手から一塁や三塁へ投げるにはあまりに近すぎるくらいであった。

 『野球場大事典』のp.33には明治30年頃の「慶応の稲荷山時代」といった写真が掲載されている。確かに一塁線と三塁線の角度がいびつで、だいたい75度くらいか。
 現在このようなグラウンドが存在したらどうなるだろう。まずフェアゾーンが狭くなるのでファールが増える。またフェアゾーンに打っても、ゴロなら一塁送球も楽なのでアウトになりやすい。だいいちダイヤモンドが狭いので、野手の守備範囲が狭くなる。事実、写真では野手の間隔が狭い。盗塁については本塁と二塁の間が長いのでやりやすそうだが、投手と一塁の間が非常に短いのでリードはとれないだろう。しかしこれが本当のグラウンドだと信じていた人はなにかかわいそうである。いやむしろ幸せだったかも。

参考文献
沢柳政義(1990):『野球場大事典』大空社.

明治時代の野球場に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください