このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

柏木グラウンド

 明治大学は明治14年の明治法律学校がその始まりで、明治36年に改称された。野球部が正式に発足されたのは明治43年11月だとされているが、大和球士は『真説日本野球史《明治篇》』で、学長がグラウンドに選手を召集したのが同年7月20日のことなので、この日をもって「野球部誕生」と解しても間違いではないと指摘している。以下にその内容と、開設当初の明治大学球場の様子を書き記す。

 学長が、野球部を公認し、グラウンド敷地も学校側が購入し、選手よ集まれ!となったのだから、実際の野球部創立記念日は、七月二十日に制定してもよいではあるまいか。
 召集された選手諸君、嬉々としてグラウンドへ到着したところ、
「あれ、大根畑じゃないか」
 無理もない、鉄条網に囲まれた広々とした大根畑が見渡す限り広がっていた。選手たちは、グラウンドへ集合せよ、との指令に接したから、てっきり、三田綱町球場や、戸塚球場を想像していたのに当てがはずれた。
学校側は、グラウンドを広場と解釈したから、大根畑であろうとも、グラウンドなり。困ったのは選手たちだったが、野球部初代監督に就任した佐竹官二の提唱により、
「我々の手で、我々のグラウンドを作ろう」
 大根を抜き、草を刈り、ローラーをかけて、地面をならす作業が連日続けられた。
 畑だから、地面が軟弱で、踏むと、靴が地中に埋まる。ローラーを引くといっても、大きなローラーではなく、手押しローラーだから、はかばかしく作業が進まない。やむなく、陸軍軍人に頼み、
「ウチのグラウンドで演習して下さい」
 軍隊も、広場を提供されて喜び、一個中隊ぐらいの人数で、分列行進や、戦闘訓練などをくり返したから、予想以上に早く、グラウンドの地面が固まった。兵隊走って地かたまる、というところだ。立派なグラウンドが八月一杯で出来あがった。実働日数は、七月二十日から数えて四十日間であった。
 大グラウンドには、すべて大きい施設を作ろう、佐竹監督の方針で、
 一、幅十間、高さ四間の大バックネット
 二、収容人員六百人の大観覧席を作った。
 グラウンド開きには、慶応を招き、試合を挙行した。

 グラウンドは開設されたものの、それは大根畑にすぎず、大根を抜いたり、軍隊を呼んで「整地」してもらうなどさまざまな努力をしている。そしてその努力の甲斐あって、立派な野球場ができあがった。
 このグラウンドは柏木にあったので『真説日本野球史《明治篇》』では柏木グラウンドと呼ばれている。柏木とは新宿区の西部の地名で、現行では西新宿6〜8丁目の一部と北新宿1〜4丁目の全部にあたる。ただ明治大学球場といえば杉並区永福の明治大学の付近にあった野球場で、しかも完成年月が1910年(明治43年)11月と明治大学野球部の発足と同じである。よくわからないが、今の永福の地がかつて柏木と呼ばれていたのか、それとも本当に新宿区の柏木にグラウンドがあったのか、そのどちらかであろう。調べる必要があるかな。

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