このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
学生野球はそれまで一高が全盛を誇っていたが、慶應義塾が台頭し始めた。塾出身の名取和作が経済学専攻のためにアメリカに行ったさい、すっかりと野球通になって帰ってきた。当時のアメリカはメジャーリーグの過渡期で、大学チームの旺盛時代であった。名取が明治35年に帰国すると、大学教授となるとともに野球部長になった。名取は学生に新しい戦法だけでなく、メジャーリーグやアメリカの学生生活を語り、学生もそれに感化された。そして一つの問題点としてグラウンドの整備があげられた。『日本野球史』にはそこから慶應義塾が新グラウンドを開設するまでの経緯が書かれてある。
それから最も強く印象されたのはアメリカやドイツの各大学が持つスタジアムの荘厳さである。大学の教室が智の殿堂であるならば、グラウンドは武の道場である。智育体育の併立がやがて完全なる一個の人格を築くということから、大学は啻に教室の美を飾るばかりでなく、運動場も共に広めねばならぬといったことが高唱された。
稲荷山の千余坪のグラウンドは余りに貧弱である。こうした狭いところではベースボールは上達出来ないということになって来た。選手も教授も口を開けば、『どうもグラウンドが狭いから』『あれはなんとかせねばいけない』と云われるようになった。体育会関係のものはこの好機とばかり運動する、宣伝に努める。新帰朝の神戸寅次郎、気賀勘重、川合貞一の各教授までがそれと同論である。たまたま開かれた慶應義塾評議員会は教場増設や実業学校の新設と共に運動場を拡張するか、新運動場を開拓するかを議論にした。そして満場一致で新運動場を設けることとなり、稲荷山のグラウンド跡へは教場を増設することになった。しかし当時の塾としてそれは容易ならぬ大業であった。福澤先生の恩賜金五万円を義塾へ寄附し、更に先生の没後基本金の募集をしてそれらを合わせて三十八万円に上ったが、諸経費に半分は消えて行き、尚義塾の経費は年々一万五六千円不足であったから、これを如何にして補填して行くかについて大問題となっている折であった。
慶應義塾では早速グラウンドを作ることとなり、苦しい予算からその費用を捻出されることに定まると共に新しい運動場の候補地を探したが、なかなか見つからない。というのはなるべく学校の隣接地という条件つきであったから−、そこへ現われたのが蜂須賀侯邸の庭園裏にある森であった。塾の方からそれが譲渡を頼むと、蜂須賀家でも心よく承諾した。そして二百年余り斧鉞を入れたことのないこの小丘は次第に樹が伐われ、土地を均されて明るくなってきた。ダイヤモンドは掘り返されてそこには土砂が半々に入れられ、運動場の周囲には柔道撃剣の道場も出来て、野球を中心に塾体育会は油然と結合してきた。そしてこの新グラウンドは若いプレーヤーの心を躍らせた。
ここに「陸の王者・慶應」の新グラウンドが誕生したわけである。慶應義塾から西へ400mほどいったところに所在した。三田の綱町にできたので三田綱町球場と呼ばれる。明治36年完成で、同年11月20日に初の早慶戦がこの野球場で行われた。試合は11対9でホームの慶應が接戦をものにした。これ以来、早慶戦は人気を博するのだが、白熱の余り両校の応援が衝突をおこし、早慶戦は一時中断されることになる。
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