このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

二重橋前の広場

 二重橋とは皇居の内堀(二重橋濠)にかかる橋で、皇居正門と皇居外苑を結んでいる。手前の皇居正門石橋(一の橋)と、奥の皇居正門鉄橋(二の橋・月見橋)の2つがあり、二重橋は俗称である。一般に石橋を二重橋と呼んでいる。この橋の前に野球場を建設しようという進言があった。ヘラクロス倶楽部の重鎮であった鍋島直映が、御幼少の大正天皇を通して、皇居前の広場に野球場を建設しようと奏上した。『日本野球史』ではこの事情について以下のように書かれてある。

 農学校は工部大学を破り当時の団主である新橋クラブに接戦して群星の中に一際強く光っていた。従ってその熱度も烈しく鍋島侯の如き教場に於いてもアメリカから来た野球の本を耽読していたり、ノートに策戦や人員の配置を書いていたり、遂には練習に疲れた身体を机にもたれて居眠ってしまったことすらある。これはそれから後のことであるが、侯の野球熱は昂じて大正天皇の御幼時、ある時を計って『殿下、野球を遊ばしませんか』と御奨めした。と『そんなに面白いか』と仰せられたので、『それはとても大変です。第一身体が良くなり気分が快活になりますから』と縷々野球の効能を説いた後、『殿下出来るなら宮城前の広場に一大野球場を御作りになるよう陛下に御伝奏願いたい』と奏上した。今でも度々噂に上る二重橋前の広場である。しかしこれはその頃に於いては全く突拍子もないことである。がその時大正天皇は明治天皇に御話しされることを御引き受けになり、一度は御伝奏遊ばれたが、陛下は未だ野球を御存じでなかったらしい。『西洋の球投げを宮城前でやるのか』と仰有ったまま御笑い遊ばれたそうである。

結局、野球場は作られなかったが、広場としては開放されたものと思われる。

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