このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

徳川邸運動場

 新橋アスレチック倶楽部より少し遅れて、東京三田の徳川達孝が野球に熱中しだしてヘラクロス倶楽部を組織した。三田の邸内に運動場を設けて新橋アスレチック倶楽部と対戦したといわれる。
 『日本野球史』にはヘラクロス倶楽部について以下のような記述がみられる。

 新橋と相前後して三田の徳川達孝伯(一ツ橋)が野球に親しみ出した。それは平岡氏が同藩出で英語を教えていた関係からである。その十余年前までは攘夷に狂奔し、外人は東夷西戎南蛮北狄と云っていたのであったが、時の流れは僅かにしてこの邸に最も新しい西洋の遊戯を持ち運んだのである。勿論達孝伯も時代に先駆せんとする考えはあったのであろう。広い庭園は忽ち築山を壊し泉水を埋め、小山の林を切って地は均された。広さ数千坪、見渡す一面の平地に若人の勇ましき姿は毎日見えた。伯を中心に鍋島直映侯、生田益丈、市川延次郎、早川政次、上野山増興、藤田卯之助、三田丈夫氏といった人々である。ここで作られたユニフォームは真っ赤のものと清々しいグリーンのものとで、いざ試合となると赤組と青組に分かれるので紅青相乱れて試合する様は将に一幅の画図であった。(p.11)

 三田の徳川邸とは現在の東京都港区三田2丁目の一画にあたり、慶應義塾大学のすぐ隣りである。明治42年測図の1:10000地形図「三田」には徳川邸の北東に「運動場」がみられるが、これがそれであろう。新橋とは3kmの距離である。交通機関が発達している現在で考えればそれほど遠くはない距離だが、まだ畑が広がっていた当時ならどういう感覚であったのであろうか。ちなみにこの地には現在、慶應義塾中等部が建っている。なお、わずか200m西には慶應義塾大学の三田綱球場がある。

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