このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

戸塚球場

 明治34年に東京専門学校が昇格して早稲田大学となり、翌35年に野球部が組織され、同年に戸塚に野球場が完成した。しかし野球部は早稲田大学に改称されてから公認されたわけでなく、それ以前の東京専門学校時代に体育部のベースボール部として公認されていた。ベースボール部が活発に活躍し始めるのは明治34年からである。しかし当時はまだ戸塚球場が開設されておらず、極めて貧相なグラウンドで練習をしなければならなかった。『真説日本野球史≪明治篇≫』は当時のグラウンドの状況を、早稲田大学野球部発行『早稲田大学野球部五十年史』を交えてこう記している。

 校舎はレンガ造ではあったが、一見貧弱な講堂と、汚れて狭苦しい教場とが僅かに三棟ばかり並んでいたにすぎない。かかる状態であるから運動に関する設備などは勿論完備している筈がない。ただ一つ、亜鉛屋根の柔剣道場があるばかり。
 運動場は、早稲田中学体操場という棒杭の立てられた所属不明のものが、ちょうど、後年の理工科教室の辺りに、水稲荷と地続きになって存在していた……こんな有様だから誰一人この運動場でボールを遊ぶ者はなかったのである。
(中略)
 運動場の広さは、今の戸塚球場の約四分の一ぐらいのもので、草ぼうぼうの大デコボコ、右翼の方は甚だしい傾斜を示し、ゴロを逃すと転々としてなかなか止まらない。そのうえ、周囲は民家の宅地内の竹薮や、密生した灌木の垣根であったから、球がその中にとびこんだら最後、試合を休戦して両軍総がかりの捜索にとりかかる。しかも簡単に見付からない。近接の民家からは、他人の屋敷内に、そう無暗に侵入されては迷惑であると、学校当局に抗議を申込む。さては垣根の上に、専門学校の生徒入るべからず
などの高札を立てられた。
 こんな苦労をするうえに、グラウンドがまた〝早稲田中学体操場〟の棒杭が立ててある、いわば借用グラウンドとあっては、技術の進歩もおぼつかなく、体操場の所有者である早中の生徒と試合をすると、十何点の差をつけられるという弱さであった。

 早稲田大学は今でこそ大学野球の雄であるが、部創設当初のグラウンドはたいへんみすぼらしかったことがうかがえる。対校試合をするにしても「早稲田中学校運動場」の棒杭を立っているところではやれないので、新しいグラウンドを造ることになった。グラウンド完成以前の夏に野球部は宇都宮まで長期練習に出かけた。そして帰ってきたら新グラウンドができかけていた。『真説日本野球史≪明治篇≫』はこの状況を次のように記述している。

 帰校してみると、新グラウンドの埋立てが大分はかどっていた。水田を埋めてグラウンドを作ろうとしたのであった。この球場が戸塚球場(現在は安部球場)である。
 しかし、この球場はなかなか完成せず、一応形が整ってからも、途中に起伏があって、試合には適せず、切り崩し作業に可成りの歳月を要し、やっと試合をやれるように平らなグラウンドになったのは、三十七年も秋に入ってからのことであった。

 戸塚球場が開設されたころから、学生野球では一高にかわり早慶両校が台頭しはじめてきた。これに伴い、慶應の三田、早稲田の戸塚の両球場が頻繁に使用され、アメリカ野球チームが来日したときもこの2球場が主に用いられるほど、東京における代表的な野球場であった。
 1925年には7,000人収容の観覧席を設備し、1933年には照明塔を設置してわが国初のナイターが行われた。
1936年にプロ野球が開幕した際、東京で初めて用いられた野球場もこの戸塚球場である。ここでは9試合が行われたが、プロ野球公式戦が行われたのはこれが最初で最後であった。
 1949年に早稲田大学の野球部長を務めた安部磯雄が亡くなると、同氏の功績が称えられ戸塚球場から安部球場へと名称を変更した。
 安部球場は1987年11月22日、全早慶戦を最後に閉鎖された。現在の早稲田大学グラウンドは東京都保谷市東伏見にある。安部球場の跡地には現在、早稲田大学総合学術センターが建てられている。しかし早稲田大学との境の道が「グランド坂」と呼ばれるなど、現在でも名残りがみられる。また総合学術情報センター入口に、安部磯雄と飛田穂洲の胸象が並べられており、この地に野球場があったことを留めている。

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