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「何でまだこんなに冷たいんだ?」
玄関のドアを開けた瞬間だった。この風は、空気は本当に4月の半ば過ぎなのだろうか?

「どうかしましたか?」
廊下から秋子さんの声が聞こえた。
「いえ、なんでもありません。名雪を頼みます。行ってきます」
もう朝の8時5分になろうかというところだった。
いつものように朝食を取って珍しく新聞を読んでいたら、もう出る時間だった。



序章「春のかぜ」


「ええ。祐一さん、行ってらっしゃい」
秋子さんの笑顔に見送られて、今日も学校へ向かう。
玄関を出ると、朝の日差しが眩しい。
この季節には、さすがに制服の上にコートもマフラーもいらないし、見かけることもない。
しかし、俺が前に住んでいた土地と比べれば、4月だというにはまだ寒いと思う。
時折吹くこの風の冷たさを、土地柄で片づけていいのだろうか。
少し通学路を歩けば、軒先に桜のつぼみを目にすることができる。
ニュースの映像で南での桜の開花を何度か見ているが、この街ではゴールデンウィーク中にやっと咲くんじゃないのか?

「花見をやるとして・・・ゴールデンウィーク中がやっと見頃といったところかな」
この北の街で、目でもやっと春を感じられるようになってきた。
4月も半ば過ぎ。つくづくこの国は南北に長いと実感できる。
そして、澄んだ空気と明るい日差しの中を俺は一人で歩いていた。
いつも一緒に出かける奴が今日に限っていないのは新鮮なようで、なんだか手持ち無沙汰な気もする。

「相沢君、おはよう。珍しいわね、今日は一人?」
「ん、香里か。おはよう」
しばらく一人で歩いていて、周りにも同じ学校の生徒の姿が見え始めてきた頃だ。
クラスメイトの美坂香里が後ろから笑顔で俺の肩を軽く叩いて来た。
転校して来てから3ヶ月しかいなかったクラスでの、数少ない友人だ。
名雪の親友だけあって、思いのほか簡単に打ち解けることができた。
そして幸か不幸か、三年に進級した際のクラス替えでも同じクラスになった。

「『香里か・・・』とはご挨拶ね。名雪は寝坊?」
「そう思うか?」
「違うの? そうね、他にあるとしたら部活の朝練かしら」
「実はだな・・・」
「お姉ちゃん・・・置いていくなんてひどい」
答えようかと思った矢先に、聴きなれた声が聞こえた。
緑色の制服のリボン。香里の赤のリボンが3年生なのに対して、緑は2年生。
1年下の香里の妹。美坂栞が俺たちの後ろからパタパタと、速くはないが走ってきた。
少し息を切らせている様子からして、案外家を出た時間は違うのかも知れない。
香里に置いて行かれた・・・朝の貴重な時間を考えると、香里の気持ちもよくわかる。
普段は俺も寝坊助さんな従兄妹の世話で大変だからな。

「よう! 栞、おはよう。香里に置いて行かれたのか」
「おはようございます、祐一さん。そうなんですよ・・・お姉ちゃん、ひどいと思いませんか?」
「のんびりしている栞が悪いのよ」
「う〜ん」と、俺は考え込んでみせる。
「実はだ。香里の気持ちは、もの凄くよく分かるぞ」
「ほらね」
「・・・そんなこと言う人、嫌いです」と、プイと顔を背ける栞。
いつもの表情で・・・でも、どこか笑っているような香里。
やはりどこの家も、寝坊助さんの世話は大変なんだよ。
栞が怒っていないのを見て、香里はこっちを向いた。
「きっと、どこの家も同じなのよ」
「そんなことを言うお姉ちゃん、嫌いです・・・」
どうやら香里も同じような事を考えていたようだ。
まぁ、栞は名雪ほど手がかかるとは思えないのだが。

そろそろ遠目に校舎もが見えてきた。
人が増えてきた所為か、それともしばらく歩いた所為か、少し温かく感じる。
まぁ、このくらい温かく感じられないと、俺としては4月とは思えない。
もっとも、風はまだ冷たいと感じてしまうのだが。

「・・・そう言えば祐一さん。今日は名雪さんと一緒じゃないんですか?」
「俺と名雪はセットメニューなのか? ・・・確か4月限定のおまけとして」
「我が校名物の、水瀬と相沢の激走登校を観戦できるチケットが」
「もれなく北川が付いてきた・・・ようだ」
「北川君、おはよう」
「オッス! 栞ちゃんもおはよう」
「北川さん、おはようございます」
「なんなんだ、その名物とやらは?」と、俺は聞く。
「おまけとはなんだ? おまけとは」と、北川も返す。
「プラスティック製で踏んだら潰れる、飽きればポイのおまけさ」
「・・・相沢」
突如会話に乱入してきたのは、北川潤。こいつもクラスメイトだ。
どうやら俺が転校する前から名雪や香里と仲が良かったらしい。
クラスメイトになってからは、俺を含めた4人組がどうもパターンとなってしまった。
まぁ良く言えば、この学校にも随分と早く馴染めたもんだ。

「お前、俺のこと嫌ってるのか?」
「少なくとも愛してはいないぞ」
「・・・ありがとよ」
はっはっは。誤解を招きかねない会話だ・・・。
まぁ、北川いじめはいつものことだ。それこそ恒例行事というものだろう。
そうやって4人で・・・俺と北川が香里と栞を囲むように歩く。
周りにも同じようなグループを見ることができる。
たった1人で歩いているよりはずっといいもんだと思う。

「結局のところ、名雪はどうしたの? 怪我でもしたの?」
「そうです。私もそれを聞きたかったんですよ」
「何? 水瀬が怪我?」
3人とも俺の顔を見る。
「いきなり本題に戻ったな・・・名雪は風邪だ。たいしたことは無い」
「わっ、それは大変です。確かここに風邪薬が・・・」
ゴソゴソと、栞の制服のポケットから薬袋らしきものが・・・6、7、8。
一体何の薬なんだ?
それにガーゼやら包帯やらと、まるで救急箱のようだぞ。

「へぇ、栞ちゃん。いつも薬とか持っているんだ」
「相変わらずね」
「えっと・・・備えあれば憂いなし。ですよ」
「しかし、名雪はここにいないぞ」
「あっ」栞は口に手を当てた。
「大丈夫だ、栞。昼までは秋子さんがついているし、今日明日と大人しく寝ていれば治るだろう。幸い明日は日曜日だ」
俺は栞の頭を軽くポンポンと叩いた。
少し照れたような笑顔で栞は俺を見上げた。
香里はそれを微笑ましそうに見ている。
校門沿いの桜の木も蕾をつけていた。そろそろ開くのだろうか?
今みたいな笑顔は、桜の咲いた木の下で見てみたかったな。
ゴールデンウィークも近いし、花見をするなら皆で集まってもいいかも知れない。
その頃までには、いくらなんでも名雪の風邪は治っているだろう。

「この風邪薬、とっても良く効くんですよ。放課後に名雪さんに届けたいんですが・・・」
「別に無理しなくてもいいぞ。大体俺が受け取って、名雪に飲ませればいい話じゃないか」
「でも今日は土曜で授業は半日ですし、祐一さんと名雪さんの家に行ってみたいです。ねぇ、お姉ちゃん!」
「そうね。・・・様子を見に行ってもいいかも知れないわね」
「俺も行ってみるかな?」
「なぜそうなる! 風邪がうつっても知らないぞ」
校舎の玄関をくぐり、皆自分の下駄箱へと向かう。
少々大袈裟に感じるが、こんな時心配してくれる友人が名雪にいることが羨ましかった。
俺が寝込んだらどうなるだろう?
北川は・・・俺のことを笑うだろうか?
薄暗い玄関で靴を上履きに履き替えながら、そんなことを考えていた。

「名雪のことだから、睡眠に問題はないでしょう。相沢くん、今日秋子さんの仕事は? お昼までとか言ってたわね。
秋子さんがいれば食事は問題ないでしょう。・・・例外もあったけど」
上履きに履き替えて再び合流して、4人で廊下を歩く。
「それだよ。秋子さんは今日、昼から仕事に出てしまうので帰りが遅くなる。
昼飯は大丈夫だが、俺が名雪の分の晩飯を作らなきゃいけないとは」
「お昼からだったの。・・・相沢君がお粥を作るとなると、駅前のパン屋並に怪しくなりそうね」
「駅前のパン屋って、あの賞味期限をマジックで消してあるという店か?」
「そうよ」
「さすが香里さん良い線をいっている。俺の作るお粥は賞味期限内だが、製法が怪しいぞ。そもそも作り方なんて知らない」
「相沢・・・胸を張って言うことか?」
「名雪の風邪は当分長引きそうね」
「お前は自炊をしたことないのか?」
「そうだなぁ・・・普通に米を炊こうとしてお粥らしき物になったことがあったぞ」と、わざと遠い目をして言ってみる。
「もういい。よく判った」
北川に呆れられてしまった。初めての自炊なんて、そんなものだろうと思うのだが・・・。
「なんだか心配になってきたわ」
「それじゃぁ祐一さん。今日の放課後、お家に行きますね。いいよね?お姉ちゃん」
「まぁ、相沢君次第ね」
「良いんじゃないか、相沢」
「しまった。今日は部活があったんだ」
「帰宅部ね」と、冷静な香里さん。
「仰せの通りです」
どうやら俺が断っても訪ねてきそうだ。
「それじゃあ祐一さん、また後でです」
「ああ、頑張ってこいよ」
「はい!」とは、どこか嬉しそうな栞だ。
3年と2年では階が違う。ここで栞と別れ、俺たちは教室へと向かう。
まぁ、香里と栞が俺の代わりに晩飯の用意をしてくれるなら・・・迷惑かも知れないが、俺が作るより安全だろう。
何よりも危険を冒す心配が無くなる訳だ。
段取りを考えた上で、頼んでみるか?

「それじゃあ相沢君。一度家に帰ってから、行っても大丈夫かしら?」
ぐはっ! さすが香里さん・・・もうそこまで考えておられましたか。

「任せた。でも、俺一人でどんなお粥ができるか試すのも面白そうなんだが」
「相沢君が食べるなら、問題はないと思うわよ」
「わかりました」
教室に向かう廊下を歩いている時だったが、どうにも香里さんには敵わない。
横で北川が笑ってやがる。怪しいお粥は北川行きだな。
隠し味は・・・あのジャムだ。
我ながら恐ろしいことを考えるもんだ。
その笑い顔がどうなるか、楽しみだよ北川君。

「ところで、相沢君一人だと全然遅刻の心配がないのね」
「本当に水瀬は朝が弱いんだな」
教室のドアを開け、クラスメイトと挨拶を交わしつつ席へ向かう。
確かに今日は一切走ることなく教室にたどり着いた。
自分達の席につき、鞄を置いて話を続けるだけの余裕もある。
窓辺の俺の席に3人が集まって話を続ける。

「その物言いだと、いつも全力疾走の様に聞こえるな」
「確かに3年になってから回数は減っているが・・・それでも、今日ほど早くないだろ」
「名雪は陸上部だから走っても大丈夫らしいけど。相沢君は大変よね」
「口惜しいがあいつは息一つ切らしてないからな。さすが部長さんだよ」
「水瀬は教室に入ってもケロッとしているよな。それにひきかえ相沢は・・・」
「どうせ俺は運動不足だよ」
言われたように、俺は朝の登校ダッシュ以外は体育の運動しかしていない。
それ以前に、陸上部の人間と比べないで欲しいぞ。
勝てる訳が無いんだから・・・。

「それで、今日のことなんだけれども」
「ああ。香里と栞に任せるよ。俺がなんだかんだ言ってもしょうがないだろ」
「そんなことは無いわよ」
「俺も行ってみるかなぁ〜?」
香里に任せておけば問題は無いと思うんだが、その怪しい笑みはなんだ? 北川君。
まぁいいさ。対北川用決戦兵器は台所の戸棚に配備されている。
既に俺の命令待ちだ。

「相沢君は、真っ直ぐ家に帰るの?」
「授業が終われば何もないからな。そのつもりだ」
「じゃぁ、3時か4時に行けると思うんだけど。いいかしら?」
「了承」と、1秒で返してみた。
「わかったわ。それじゃあ・・・」と、香里が言いかけたところで担任が教室に入ってきた。
「席につけ。ホームルームを始めるぞ」
「まぁ、気が向いたらでいいぞ」
「そうね。そうさせてもらうわ」と、香里は自分の席に戻った。
「さて。俺はどうするかな?」
「とっとと席に戻れ」
「つれないなぁ・・・」ブツクサと言いながら、北川も席に戻って行った。
やれやれ。一体どうしてこんな展開になったんだ?
まぁ上手く行けば、今晩の晩飯は俺が作らなくてもよくなる訳だから、とりあえずは良しとしておこう。
さて、名雪の奴はちゃんと寝ているんだろうか?
それとも・・・そのまま寝ているのだろうか?
どっちにしても、起きてはいないか・・・そんなことを考えながら、窓の外をぼんやりと見ていた。
校庭の桜は通学路で見かけた桜同様につぼみをつけ、庭には青々と草が生えていた。
外で感じた風はまだ冷たかったが、ここから見る風景は春そのものだ。
もっとも1ヶ月以上遅い春ではあるが・・・。
そしてホームルームも終り、1時間目の授業の教師が代わりに入って来た。

「やれやれ、授業か」
机の中から教科書・ノートを取り出し、授業を受けている格好は整った。
3年になってからは、それなりに授業はちゃんと受けるようにもなった。
でも窓越しの温かい日差しを受けていたら、いつしか俺は深いまどろみに入っていた。

そして、そのまま授業は俺を無視して進んで行った。
そんな春の日差しの教室で、俺は懐かしい夢を見ていた。
10年くらい昔なんだろうか?
幼い自分を見ているようだ。
あの日も冷たい風が吹いていたような気がした・・・。
名雪と俺と、2人だけの時間で・・・。



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