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雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ……
僕はこの詩のすごさに、いつも圧倒される
この詩に書かれている人間像は、ともすれば極端な偽善者である。僕のもっとも嫌いなタイプの人間だ。
しかし初めてこの詩を読まされたとき、それは確か教科書に載っていたのであるが、なんとすごいことを考え、目指す人間がいるものだと驚嘆したのだった。
勝手な解釈を述べる。
ここに偽善的な要素を全く感じないのは、血の叫びだからだと思う。
自分は何故ここにいるのか、何のためにここにいるのか、ただ生きているだけなのか。
自分の存在価値とか、存在意義とかに疑問を感じ、それらを確立するために自分はどうあるべきなのか。
苦しんで苦しんで苦しみ抜いて出した結論がこれなのではないか?
わざわざ苦しみ抜いて、そして多くのひとに影響を与え、いまも語り継がれる詩。しかしそんな苦しみは実は全く序の口であったのだろうと思う。
詩は、ひとつの理想を書き出したにすぎない。次になすべき事は、この通りに行動することである。
詩を確立し、次にその通りに行動する。この気も遠くなるような理想を考えたとき、僕はとてもかなわないなあ、と思うのだ。
もっともこの詩の通りに行動できたかどうかはまた別問題である。
どれだけ苦しんで生み出した詩かは知らないけれど、いったん完成されてしまうと、ここは安住の地になる。
「いまは出来ないけれど、ほら、僕にはこんなに立派な理想がある。」
あえてそう意識したかどうかは知らないけれど、もし理想への実践に行き詰まったとき、この詩まで後戻りして、理想の姿を思い浮かべるだけで、そこには安息があったように思う。
「いまは出来ないけれど、僕にはこんな理想があるから」
よい逃げ場になることは間違いない。
それでもすごいと思うのは、普通の人はこんな事考えないからだ。考えあとしても、「そういう人にわたしはなりたい」なんて思わない。最初から出来ないと、否定してしまう。
もちろん僕もその普通の人の一人である。普通以下かも知れない。
だって、雨ニモ負ケル、風ニモ負ケル、オマケニマブシイ太陽ノ陽射シニモ負ケル
しんどいことはイヤ、苦しむのもイヤ。
自分の許容範囲の中で喜怒哀楽があれば充分。
許容範囲を超えることは受け入れたくない。
好きなことには許容範囲は若干広いけれど、そうでないことにはとても狭い。
だからこの詩のような人間にはとてもなれないし、目指す資格もない。
楽しいことは好き。でも、極端に楽しくなくていい。
少しでいい、いつもゼロよりも楽しい方に傾いていたい。
「何でも自分の思い通りにならないと気が済まない」というタイプのひとがいるけれど、僕の場合は、「思い通りになる範囲しか最初から望もうとしていない」わけだ。
最初から諦めているのではなく、望みがないわけでもない。届かないところにまで、思いがゆかない。それだけのことだ。
それなら全ての望みが叶うのか、というとそうではないけれど、かなり叶う。叶わないと感じたとき、自然と方向転換していたことにあとで気づく事もある。
そんなわけで「雨ニモ」にはいつも圧倒されるけれど、だからといってそうなりたいとかとは思わない。
ただ、ひとつだけ。
最後に、この詩には、本当にすごいことが書いてある。
「決シテ怒ラズ、イツモ静カニ笑ッテイル」
このことだけは、僕の目標だ。
ひとのために出はなく、自分のために。
例えば怒るというようなマイナスベクトルを持つ感情を発散させたとき、瞬間的には気持ちが晴れるかも知れないけれど、そのあとろくな事がないのを知っているからだ。
怒ったあとは、そのことに対する自己嫌悪がいつまでも残ったり、発散しきれなかったときはムカムカといつまでも感情が後に引く。
僕の場合、怒鳴り散らしてあーすっきりした、と割り切れない。
相手の気持ちを思うと余計落ち込む。傷つけたんじゃないかとか、こちらは一時的な感情をぶつけただけだが、相手はいつまでも悩ませることになるんじゃないかとか。
これが仕事関係などになると、あとでフォローに回るのも一苦労だ。
それに、怒っている人の姿とは、情けなく滑稽でありしかも、ふと気が付くとその人を軽蔑してさへしまうことがある。
僕は雨にも負けるし風にも負ける。負けてもそんなに困らない社会になっているし、人間の生命力が低下していることも実感している。
だからそれはそれでいいと思っている。(それではよくないと思っているひとはそれはそれでいい。それも僕は認めている)
いつも静かに笑っていれば、なにもトラブルは起こらない。もし自分が傷つくことがあったとしても、相手を傷つけることは極端に経るだろうと思う。
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