このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
「今日一日休みだったろ? どうしてたん?」
会話の相手は僕の職場に住み込みで働いてもらっている20代前半の男性だ。
「あ、車で和歌山の方へ」
「へえ、和歌山。じゃあ、和歌の浦とか、和歌山城とか、みてきたん?」
「いえ、ただ行って帰っただけで、どちらかというと、車を止めて色々考えたりとか、そういうことをしていたんです」
「ほお!」
「いろんなことをアレコレ考えるのが好きなんですよ」
「そりゃあいい。今の若いモンは、というか、若くなくてもそうだけど、あまりにも考えなさ過ぎる。考えるのはいいことだ」
とまあ、そんなきっかけで、僕は「考えること」について考えはじめたのだった。
僕は時折、主に寝る前に布団の中でだが、色々なことを考える。
思考は同じ所を行ったり来たりすることもあるし、全く脈絡のない方向へ進むこともある。
そのまま眠りに吸い込まれることもあれば、明け方近くまで眠れずに思索が続くこともある。
いずれにしても、僕にとってこれはとても大切な行為なのだ。
考えるということは、事物の真理に近づくということだ。真理はひとつではない。人それぞれでいい。結論が出ることもあれば、出ないこともある。どちらでもいい。考えることそのものが重要だ。
真理に近づいたからといってどうということはないはずだ。ただ、近づこうとすることが大事なのだと思う。
世の中には、本当になにも考えてない人がいる。
何も考えていない人は、そこに人としての存在が感じられない。
もっとも、考えていない人というのは概してアクティブな生き方をしている。世間様に非難される覚えなど無いだろう。
それは、常に何かをしている人なのだ。
仕事に熱中していたり、遊びに夢中だったり、趣味に没頭したり。朝、起きて、夜、寝るまで、ずっと何かをしている。
余暇も十分に満喫している。
ちょっと時間が空いたら読書をしたりビデオを見たり。あるいは、スポーツをしたり。
もうボーっとしてる時間なんて全くないのだ。
おそらく、内側に何もないから、外からの刺激を常に受けていないと平穏ではいられないのだろう。
逆に考える人ほど、外から見たら「ボーっとしている時間が長い人」ということになるだろう。
もっとも、本当にボーっとしている人もいるが。
しかし、よく考えたからと言って、人間的に魅力的になれるとか、考えたことが日常に役にたつとか、そういうことは一切無い。
考える行為というのはただ考えるだけなのだ。
一種、無駄といえるかも知れない。
けれども、どうしても必要なことなのだ。
それは、自分を確立するために。
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