このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


ソウルへの道・3


■8月18日
朝日の中、満員の乗客を乗せ列車は走っていた。 固い座席、一晩中こうこうと照らしていた蛍光灯の冷たい明かり。 目覚めたとき、窓の外は名古屋であった。 今日の予定は立っていなかった。釜山行きのフェリーのチケットは明日、19日のものだから それまでに下関に着いていればいい。
名古屋で降り、紀伊半島を回って大阪に出ようか。 それとも関西線でいこうか。伊勢に行くのもいいな。・・・・などと思いを巡らせてはいたが、 時間はまだ早朝0630時。いつもなら寝ている時間だ。 けだるい気分だった。 何となく動きたくなくなかった。 列車は名古屋についたものの、私はそのまま座席に座っていた。 依然いっぱいの客を乗せ、夏の青空の下、終着、大垣へと向かった。 大垣には、昔から、「大垣走り」といわれる毎朝の恒例行事がある。 私たちの乗った臨時列車は、先に大垣に着く。と、乗客たちは、我先にと出口に殺到し、 跨線橋を上り接続列車の待つホームへと向かっていった。 その数、およそ1000人。それほど大きくない大垣の駅のこと、すぐにホームは人の山となった。 さらに追い討ちをかけるように、東京からの快速「ムーンライトながら」が到着する。 その下車客も入り交じり大垣駅は、大きな荷物の旅人で大都市の駅のラッシュさながらとなった。 その客を乗せ、大垣からの網干行きの列車はホームを離れた。 関ヶ原を越え、米原へと着く。と、ここで、かなりの乗客が下車する。 西へ向かう接続の新快速へ乗るために。 米原駅の駅弁の立ち売りを横目で見ながらカロリーメイトで私は朝食とする。 米原駅は、昔日の汽車旅を思い起こさせるよい駅だったが近代化工事が進み、 その姿も消えつつあった。 最初の新快速が入ってきた。 半分ほどの乗客がそれに乗る。 私はそれを見送った。野球でいうなら「初球、外角高目の球」といったところか。 時間はたっぷりあった。 焦ることなど何も無い。 2本目の列車がやってきた。 今度はすいてはいたが車輌が古い。どうしようかと思案してると ほとんどの客はこれに乗った。 私は、またも見送る。 時間はまだたっぷりあった。いくら見送っても 三振にはならないからだ。 3本目の新快速が入ってきた。 程よくすいている。クーラーも効いている。 私はこれに手を出すことに決めた。 新快速は、近江路を120km/hのスピードで飛ばしてゆく。 私は、朝風呂に入りたかったので、京都で下車し、 駅前京都タワーの地下浴場で汗を流した。 ひとっ風呂浴び、気分が良くなった所で、 荷物を駅に預け、大阪へと向かう。 大阪に来たのは久しぶり(5ヶ月ぶり。前回は沖縄行きのフェリーに乗るため) だったので、キタにミナミにとぶらついた。 昼飯は阪神地下のイカ焼きスタンド。 やっぱりうまかった。 でも、他人が美味いものを食ってる話ほどくだらないものはないから 大阪での話は、ここまでにする。 夜になり、京都駅に戻った私は2130頃に出る博多行き臨時快速 「ムーンライト九州」に乗る列へとならんだ。 2番連続の夜行である。 ただ、座席は新幹線並みのリクライニングシートだが。 やはり、ここにもいた。コミケの袋を持ったコミケ帰りとわかる人が何人も。 早く並んだ甲斐があり、進行方向左側窓側のいい席が取れた。 さあ、ゆっくりと寝ようか、というときあいていた私の隣の席に 座っていいかという若い女性の声。 もちろん私は快諾。(別に下心は無いが。) 話を聞けは、宮崎の大学生のこと。 ひとしきり話した後、私は寝てしまった。

■8月19日
夜を徹して走った列車は、早暁0530時ごろ下関へ到着。下関到着。機関車付け替えのためしばし停車。私はここで下車。
下車しホームで顔を洗い、すっきりとはしたが、フェリーの出港時刻は1830時。 まだまだ時間があるので、博多まで往復して時間をつぶすことにした。 下関の郵便局でコミケで買った同人誌のたぐいを小包で札幌に送る。 6kgはあっただろうか。送った分、かなり荷物が軽くなった。 駅前のダイエーでカップ麺などいろいろなものを買い込み、 1400時頃下関国際フェリーターミナルに到着。 が、そこは、100人近くのガキの集団の中。 たまたまその日が、小学生の団体の日だったようだ。 最悪である。 国際航路だとタカをくくってたわけではないのだが・・・ まさか小学生の団体とは・・・。 気を取り直し乗船手続きを済ませ、1630時出国手続きとなった。 担ぎやのおばさんの荷物が異常に多かったのが印象的であった。 ようやく、出国手続きを済ませ船に乗り込んだ。 フェリーは、日本船籍の「フェリー関釜」。7000トン弱の古めかしい船だった。
「フェリー関釜」
二等船室の一角に陣取り落ち着いた所、ガキどもはいない。 どうやら生意気にも寝台室にいるらしい。 まあ、うるさいガキどもの隔離には成功したわけだが・・・・ 夕暮れ1830時、下関を離れ異国の地、釜山へ向け船は出た。 真っ暗な海。玄界灘の向こうには漁船の明かり。 デッキで夕食のカップ麺を一人わびしくすする私の耳には、 ラジオのイヤホン。 雑音交じりの中聞こえてきたのは、 その日ゲルゲに出ていたエヴァの赤木リツコ役・山口さんの声。 ・・・・・・・・・・「ぶざまね。」

ソウルへの道【4】 へ続く


大韓イメージ開発 へ戻る

出張記録 へ戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください