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沖縄本島編
1997年3月7日(続き)
さて、那覇新港に着岸、上陸したのは朝8時半。那覇新港は那覇市のはずれに位置してるためまずはバスで市街地へ向かう。
ところが船が遅れたこともあって連絡バスは30分待ち。バス停で待っていると次々とタクシーの運ちゃんが客引きしてくる。人なつっこいと言うか商売熱心なのか・・・(^^;
ようやくやってきた古びたバスに乗って那覇市街地へ向かう。この日の宿は那覇軍港そばの「沖縄国際YH」である。
YHに着いたが、時間が早かったので荷物を預け自転車を借りるとまず首里城へ向かう。
だが・・・首里城は山の上。自転車で上るにはかなりきつい。それでも汗をかきながら何とか上る。
平成4年(1992年)に復元された首里城はほとんど新築然とした姿であった。那覇市内の観光地と言うこともあってひっきりなしに団体観光客が押し寄せ、守礼の門の前で写真撮影という光景である。
かくいう私も写真撮影・・・(^^;
お昼になったので一旦首里の丘をおりる。どこかで食事にしようかと見て回るが見当も付かない。
仕方ないので国際通りのマクドナルドで昼食。飲み物は飲み放題であった。その後YHに戻りチェックインをした後、早めに風呂に入り汗を流して部屋で休む。
その日の夕食は再び国際通りへ。夕方になるとさすがの沖縄も涼しく過ごしやすい。(といっても北海道の夏並。)A&Wというハンバーガーショップでハンバーガーの夕食。
その店で「ルートビア飲み放題」の文字を発見。早速ルートビア初体験。・・・・味はどう説明したらいいのやら。(^^;
とにかく刺激的な味ではあった。鼻につく感じはガラナジュースの比ではない。
YHに戻ると韓国のプロ野球チームの現代ユニコーンズの選手達が。春季キャンプである。どうやらYHそばの奥武山の競技場で練習していたようだ。春先の沖縄は日韓のプロ野球チームの春季キャンプ先である。
しかしYHにプロ野球選手とは・・・それだけ沖縄国際YHが立派だということだろうか。
1997年3月8日
この日も暑い。 テレビでは今日の那覇の最高気温24度。夏の北海道並である。
この日は南部をぐるっと一周の予定でレンタサイクルを借りる。
糸満方面からひめゆりの塔へ向かう。ここは沖縄戦の悲劇の地であるが、とにかくひっきりなしに観光客がバスで乗り付けては写真撮影である。これでは落ち着いてみることすら出来ない。
観覧もそこそこに摩文仁の丘に向かう。かつてそこでは国内唯一の地上戦が行われ20万人もの命が奪われた沖縄戦終焉の地であり、今は平和記念公園として整備されている。
沖縄戦の資料が展示された平和記念資料館では民間人をも巻き込んだ沖縄戦の悲劇を伝える資料があり、また、沖縄戦での全戦没者の名前を刻み込んだ「平和の礎」では沖縄戦で戦死した私の先祖の名前のところに献花をしたあと、摩文仁の断崖の上から遙か南に広がるどこまでも青い太平洋を眺めながら古を偲んた。かつて修羅の時がこの場所に流れたとは思えないような穏やかな時間の中で・・・・
(若造の私はその当時のことを直接知るわけではないが・・・・)
昼飯は東風平のコンビニで買ったもので済ませたが、ブリトーを買って温めてもらおうとしたところ、店のおばさんがレンジ内で破裂させる。(^^;;
帰りは与那原経由で帰ったのだが、晴天の空から突如雲が湧き出し、スコールの中に。やむを得ず途中で南風原の本屋に避難。
雨が小降りになったところを狙って那覇へ急ぐ。ところが・・・・那覇市内に入ると雨の降った気配すらない。それがわずか5−6kmの間である。
なんとはYHに戻って部屋に戻ると同宿人は東京と愛媛の大学生。同じ一人旅同士と言うこともあり意気投合。夕食は国際通りでソーキそば。夜は部屋でオリオンビール片手に夜遅くまで旅の話。
これもまた旅の楽しみ。毎日こうならまた違った旅になるだろう。
1997年3月9日
この日は日曜日。 この日は名護へ。広々としたR58を一路北へと向かう。
左:沖縄バスターミナル(旧沖繩縣營鐵道・與那原線・那覇駅跡地)
右:名護バスターミナル
名護ではまずオリオンビールの工場見学。しかし日曜と言うこともあって工場はお休み。見学コースも団体さんといっしょに見学。といってもわずか総勢4人。(私を入れて。)
試飲のビールは中瓶1本丸まま飲めてしかもおつまみ付き。いい待遇である。このとき本当に車ででこなくて良かったと思ったのである。(^^;
その後名護パイン園へ。とにかく試食のパインを食べるだけ。(爆)
しかしとにかく陽射しが強い。沖縄に来て3日目。すっかり腕や首筋が陽に焼けてひりひりしていた。
名護からの帰りは高速道経由のバスで戻る。
翌日は3月12出航の南大東島行きの船の予約開始日なので早めに床についた。
1997年3月10日
朝食もそこそこに朝8時、南大東島行きの船の予約をしに行く。しかし満員。結局キャンセル待ちに・・・・
結局その日は何もすることが無く国際通りや空港あたりをぶらついてお土産を買う。その後北海道から持ってきていた冬服などを小包で送る。
1997年3月11日
この日は那覇市内から場所を変え真栄田岬YHへ拠点を移す。
お土産や冬服などは全て札幌へ送り返したので少し荷が軽くなっている。
真栄田岬から見る海の色はまさにコバルトブルー。北海道の海とは大違いの色合いである。
浜辺を散歩して一日をのんびりと過ごした。
この日も大東島ゆきの船のキャンセル待ちは空きが出てない・・・
1997年3月12日
朝は曇っていたがすぐに晴れ上がる。気温は26度まで上がっていた。
この日は那覇に戻り南大東島ゆきの船のキャンセル待ちに費やす。
その間国際通りをぶらついたりして時間を潰す。牧志市場では昨晩真栄田YHで同じ宿だった女の子と再会。
市場で私が買ったのは「ボンド」・・・・既に靴の底が限界に来ていたので応急的に張り合わせて凌ぐためである。
市場で昼飯を取り、大東島行きの船が出る泊港へ向かう。
結局キャンセルはついに出ず南大東島行きをあきらめざるを得なくなった。
船では片道3630円だが、飛行機だと21710円。とても今回の旅の予算ではおっつかない。
(実際、今回の旅の全予算は20万円近くかかっている。そのうちの半分は交通費だが・・)
そこで急遽予定を変更。宿は引き払って既に泊まるところはない。予定が立たなければ野宿しかない。
・・・・幸いその日、石垣島行き、20時出航の有村産業の「フェリー飛龍」があることがわかった。
私はバスで那覇新港へ。幸い無事2等船室が取れる。乗船時間は18時30分であった。
以下続編 【先島諸島①】 へ続く。
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