このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
生前宮崎康平と親交のあった高尾 稔氏による伝記。「『夢を喰う男ー宮崎康 平伝』がほとんど宮崎氏を知らずに、しかも面白可笑しく書いており、宮崎康平 が余りにもかわいそうだ」ということで執筆されものである。 宮崎康平が小学生の時から宮崎組社長、島鉄重役時代、作家、農民の時代 と他界して宮崎康平碑が島原城址に立てられるまでを追っている。 本書によれば、宮崎氏は「作家」ではなく、「農民」と自負していたようだ。旅先 でもその地の土をなめてまで地質を調べ、作物の話を農民にじっくり聞くほど熱 心だったようだ。 それより、自分の農地で無農薬野菜の栽培を研究させて見たり、バナナを育 てたり、葡萄の生産を島原半島に普及させたりと、熱心な農業者だったようだ。 本書にはまた、戦後直後の島鉄の面白いエピソードが描かれている。昭和22 年頃の正月元旦に、後の宮崎康平の弟子となった植木 孟氏(島鉄初代社長 の兄弟の孫にあたる)が、諫早発島原湊(現南島原)の列車に車掌として乗務 したときのことである。停車駅各駅の駅長が、乗務員にお椀酒で「お神酒だ御 屠蘇だ」といって酒を勧め、乗務員はそれを飲み干しながら島原湊まで乗務し た。 ところが、島原湊までついたのは良いが、その先加津佐まで乗務するのが居 ないので、植木氏らがそのまま加津佐まで行くことになった。全線で駅員配置 駅が24駅、その全ての駅で酒を注がれながら進んだので、終点につく頃には、 機関士、助士、車掌ともに酔いつぶれ、機関車の蒸気があがらなくなってしま い、列車は途中で止まってしまった、ということがあったそうだ(翌2日に植木氏 は宮崎氏に激怒されている)。 ※当然のことながら、今日の島鉄ではそんな風習はありませんので、ご安心く ださい。 いづれにしろ、本書は宮崎氏と一緒に韓国取材旅行に出かけるほど、宮崎氏 と親交のあった著者が描いているので、最も忠実な伝記といえるだろう。
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