このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



宮崎康平のこと


島原鉄道の歴史を語るにあたり、宮崎康平氏を抜きに語ることが出来ない。

島鉄の重役であり、作家であり、詩人であり、歴史家であり、そして農業人でもあった宮崎康平
氏にスポットライトを当ててみたい。

■宮崎康平関連の書籍

>>> 盲人重役








■宮崎康平の生い立ち

1917年長崎県島原市生まれ。


本名は一彰。昭和15年早稲田大学文学部卒業。学生時代、森繁久弥らと学生演劇をやり、卒
業後は東宝に入社して三好十郎に師事。兄の死により、帰郷して家業の土建業に従う。

戦後、病没の父に代わって島原鉄道に入り、その近代化に努めたが、極度の過労から眼底網
膜炎が悪化してついに失明。このとき妻出奔。
置き去りにされた乳呑み児を抱えてオロロンオロロンと
作詞作曲したのが絶唱『島原の子守唄』。

だが、この失明は、かえって彼に闘志と活力を与えた。
以後、事業に、地域の開発に、
そして邪馬台国の探求にと、常人以上の精力的活動がはじまる。

かくて、島原鉄道には快速のディーゼルカーが走り、バス路線は伸び、
島原半島には乳牛が草を食み、たわわなバナナが南国の陽に映えた。
新しい妻和子さんを眼とし、杖とし、ペンとして、
記紀、倭人伝を500回も精読し、日本各地の遺跡を探り、
遂にこの『まぼろしの邪馬台国』がなった。

それから十余年、古代史全般への深い考察から
『我が邪馬台国と古代史研究』(全5巻)を構想するに至った。

そのプロローグとして本書が改訂された。
氏の古代史および邪馬台国研究への情熱はますます燃えさかっている。


※昭和55年1月発行 『新版 まぼろしの邪馬台国』(講談社刊行)より引用。


※上記書籍発行後、宮崎康平氏は昭和55年3月に亡くなっているため、
『我が邪馬台国と古代史研究』は未刊で終わっている。




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