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●〜* Kunyom chon Rot Ploen Khumae!

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Kunyom chon Rot Ploen Khumae! *〜●


 ▲もっとも激しく内戦で破壊された路線の中で二番目に修復された山岳路線を走る混成列車

 カンボジア共産党といえばやはり、その象徴はポル・ポトだろう。しかし「ポル・ポト」が歴史の舞台に現れたのは、多くの歴史小説の中で書かれているほど古くはない。「ポル・ポト」という「名前」が初めて歴史の舞台に登場したのは1976年にカンボジア共産党が行った国民選挙である。カンボジア共産党は選挙の後でこんなアナウンスを行った。

「ゴム農園で働いていた労働者ポル・ポト氏が首領に選出された」

ここで多くの人々は首を傾げた。それは「ポル・ポト」は誰のことだろう? ということだ。それまでカンボジア共産党と敵対していた米国情報機関のCIAや、シハヌーク元王もそうだったらしい。それまでのカンボジア共産党の大物はイエン・サリなどの人物であろうと思いこんでいたからだ。

 そしてその後、もっと驚いたのは「ポル・ポト」の家族だった。それは新しい首領が死に別れたと思いこんでいた「サロット・サル」だったからだ。実はシハヌーク元王も「サロット・サル」とは一応面識があった。革命が成立する前にシハヌーク元王がカンボジアの解放区へ赴いたときにの記念写真にも「サロット・サル=ポル・ポト」は写っている。ただし、端の方に目立たない形で。「サロット・サル」を知る有識者も驚いたことだろう。何故なら「サロット・サル」はシハヌーク元王が行った弾圧で殺害され、土に埋められてしまった悲劇の革命家として記憶していたからだ。実際、「サロット・サル」はカンボジアでの身の危険を感じて、カンボジア・ヴィエトナムの密林の中に姿を隠していたのだ。

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