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●〜* Kunyom chon Rot Ploen Khumae!

カンボジア鉄道応援会>その他>考証>ポル・ポトとカンボジア鉄道

Kunyom chon Rot Ploen Khumae! *〜●


 ▲2002年3月にS21跡地の博物館の展示品目から除外された「作品」の拡大図

 ポル・ポトは何故、イエン・サリを差し置いてカンボジア共産党の首領となることができたのだろうか? それはまずイエン・サリがドイツ・ナチスのゲッペルズのように演出を担当する方が実はずっと趣があることを知っていたことがあるだろう。当然、表に立たなければリスクも少なくなるので、彼は今でも実力者としてカンボジアで勢力をふるっている。しかしもう一つの理由を無視することはできない。それは賢いイエン・サリはちょっとセンシティブでエキセントリックなポル・ポトに決定的なところで適わなかったのだ。決定的なところの一つとして言えるのは中華人民共和国の毛沢東からの信頼だ。勿論、毛沢東はポル・ポトとは比べ者にならないほどに大物であるので、イエン・サリよりもポル・ポトの方が御しやすいと思ったのかも知れないが。ともかく二人の交際はどういうわけか強い絆で結ばれていた。どのくらい強いかといえばポル・ポトがカンボジアのほぼ全人民が飢えることよりも、毛沢東との約束を守って名高い「バッタムバン・ブランド」の米を中国に輸出し続けたくらいに、だ。

 ポル・ポトたち共産勢力が資本主義勢力に対して勝利を収めた直後も、中国はカンボジアへの鉄道のレールやディーゼル燃料などを、戦略単位で、しかも国際宅急便なみのスピードで送った。ポル・ポトはそれによってカンボジア鉄道の全線を復旧させることに成功して大変よろこんでいたようだが、果たしてそれは国家の再生に役立ったのだろうか? 単に「バッタムバン・ブランド」の米を中国に輸出する効率を上げただけだったのではないだろうか? バッタムバン〜シハヌークヴィル貨物特急は収穫の季節になるとバンバン走っていたようだが、それは結果としてカンボジア国民を飢えさせただけだった。皮肉なことに当時の鉄道の運行速度は2002年現在よりも数倍早かったと、カンボジア鉄道の職員は証言している。なお、その頃カンボジア鉄道の特に北線では蒸気機関車が大活躍していたとも、カンボジア鉄道の元SLドライバーは証言している。

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