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中央本線立場川旧橋梁のはなし





 リンク先のRail&Bikeにて 中央本線立場川橋梁に関する記事 が提供されている。筆者はあまり考えず、


 1)国鉄は、最初から現在線のところに線路を敷くつもりだったと思われます。地形図上に残された旧線の振り方がかなり不自然だからです。

 2)ところが、現在線にはそれなりに主要な道路も並行しています。旧線と同じように築堤構築すると、道路は段丘崖を巻いており、付替工事が大袈裟になりネガティブ。鉄道橋の構造で何とかするならば、当時の技術からすれば旧餘部のようなトレッスル構造などを採らなければならず、相当高価なしろものになります。

 3)なのでやむなく山側に振ったと推測されます。現在の地形図から読み取ると、R600以下の急カーブが三連発で、幹線系としてはいやな区間ですね。

 4)昭和50年代の付替とは、国鉄の財政悪化が深刻化するなか、状況がよほど厳しかった証左です。PC橋を安価に架橋できるようになった、コスト面での進歩も寄与したと思われます。




 とコメントしたところ、H.Kuma様からは、


 気になったので国土変遷アーカイブの空中写真を少し見てみました。
 写真名 CCB7610-C12-1 に新ルートが開通する 4年程前の付近の様子が写っています。

   国土変遷アーカイブ

 200dpiの表示にすると既に橋梁部で工事が進んでいるらしく見えますね。
 直下の並行道路はこの時点で見えないので、これより後に建設されたようです。
 旧線の振り方は確かに不自然ですが、新ルートで築堤が道路に支障する心配は無かったんじゃないでしょうかね。




 とのコメントをいただいた。空中写真を見ればまさしくそのとおりで、「あちゃー」と天を仰いだ。考えなしで迂闊なことを書いてはいけないと痛感した。

 いい加減なまま終わらせるのも口惜しい話なので、相応に調べたうえで記事にまとめてみた次第。まともな文献を基礎にすると、面白い断面が見えてくる。以下、一読を加えていただければ幸甚。

中央本線立場川橋梁
中央本線立場川旧橋梁の近景写真(出典: 歴史的鋼橋集覧






■中央本線

 中央本線は私鉄由来での幹線鉄道で、明治22(1989)年の甲武鉄道による新宿−立川間開業に始まっている。甲武鉄道は最終的に御茶ノ水−八王子間を開業させたうえで、明治39(1906)年に国有化された。

 八王子以西の区間には急峻な山地や高低差に富む段丘地が多かったせいか、甲武鉄道は関与せず、当初から官設鉄道による鉄道建設が進められた。小仏トンネルを鑿ち、八王子−上野原間が開業したのは20世紀初年の明治34(1901)年。以後、西へ西へと順次延伸を繰り返していく。

 富士見まで開業したのは明治37(1904)年末。時あたかも日露戦争真っ最中、沙河会戦を辛勝し、旅順要塞戦において二〇三高地を陥とした直後の時期にあたる。一方で大戦を遂行し、一方で鉄道建設を進めていたのだから、当時の日本は国を挙げて忙殺されていたはずである。

 この富士見開業に伴い、旧立場川橋梁は営業線に架かる鉄橋の一つとなった。ちなみに、立場川橋梁の製作が竣工したのは開業前年の明治36(1903)年である。





■英国式から米国式へ

 明治期の鉄道橋、なかんずく長スパンのトラス橋は、英国式の設計に依っていた。この英国式設計は米国出身ワデル(Waddell) 技師の厳しい批判を受けたようだ。さらに明治後半期、幹線系路線の新設や東海道線の複線化が始まるにあたり、機関車も大型化されたため、英国式設計のままでは 「強度的にも、建築限界の点からも不足することが明らか」 となった。

 これにより、官設鉄道では標準桁として、米国式設計に依るクーパー型トラス桁が導入され、更に派生した米国式設計トラス桁が実用に供されることとなった。この米国式設計の特色は斜材と弦材にピン結合(ヒンジ)を用いることでモーメントを緩和する点にあり、長大スパン橋梁に適合する構造形式と考えられた。

 中央本線立場川橋梁とは、 200ft単線上路プラットトラス(ボルチモアトラス)に区分される派生系であり、同種のものが日本各地に存在する。トラス橋を横から見ると三角形の組み合わせから成り、このうちボルチモアトラスは圧縮力のかかりやすい三角形を細分化(分格ともいう)したものである。

中央本線立場川橋梁
中央本線立場川旧橋梁一般図(出典: 歴史的鋼橋集覧


 標準桁とうたわれた以上、どの橋梁もほとんど同一設計だったようだ。少なくとも参考文献(02)が著された平成元(1989)年当時現存した 5箇所 5連はサイズがまったく同一で、スパン62,408mm、桁高 8,534mmとなっている。

 スパン62,408mm(200ft) とは長い橋梁だが、設計を標準化したためか同時期に同規模の橋梁が大量に建設されている。単線曲弦プラットトラスのうちシュウェードラータイプは30箇所 102連(のち転用 9箇所18連)、同トランケートタイプは 5箇所 7連、複線曲弦プラットトラスは 1箇所 5連、 200ft単線上路プラットトラスは立場川橋梁を含む16箇所18連(のち転用 3箇所 3連)、実に計52箇所 132連(転用12箇所21連)という仲間の多さだ。なかには今日もなお現役として活用されているものもあるから、これら橋梁の設計の優秀さがよく理解できる。

 これより長い橋梁も同時期に建設されているものの、数はきわめて少ない。 300ft単線曲弦プラットトラス(スパン93,345mm)は 5箇所 5連にとどまったうえに、200ftと300ftの中間タイプが存在しない。つまり 200ft級トラスは当時の汎用技術にして、かつ事実上の最長級スパンといえた。





■立場川橋梁

 立場川橋梁を建設するにあたり、どのように線形が按じられたのだろうか。謎、とまではいえぬとしても、なかなか興味深い対象である。

中央本線立場川橋梁
中央本線立場川橋梁付近の地形図(出典: 歴史的鋼橋集覧


 新旧橋梁の地形図を読む限り、前後の線形とより素直につながることから、当初計画は新橋梁(現在線)そのものと推測できる。ここで、新旧橋梁が拠って立つ地形を比べると、地盤高が約20mほど異なる。立場川は急流であり、より下流に位置する新橋梁地盤高の方が約20m低い。

 即ち、現在線の位置に橋梁を建設しようとすると、急峻な地形で比高が20mも高くなることから、より長いスパンの橋梁が必要となる。旧橋梁と同じく右岸側を築堤で処理したとしても、築堤にも法面勾配があるから、側径間(立場川橋梁ではガーダー橋部分に相当)のスパンが延びてしまうのだ。橋脚高を抑えるためにも、スパン長大化は必至である。

 そして、僅かな時間差ながら、当時はまだ 300ftトラスの設計が完成していなかった。同じ中央本線の第一・第五木曽川橋梁向け 300ftトラスが竣工したのは立場川橋梁の 4年後で、長大スパントラスの設計確立にも同様の時間差があったと考えなければなるまい。

 富士見開業の時期には 300ftトラスの設計が間に合わず、やむなく線形を上流側に振り、まさしく標準設計の 200ftトラスを採用したのではあるまいか。仮に後年の開業だったとしても、 300ftトラス完成後に数多くの 200ftトラスが供用されている事実を鑑みれば、コスト判断が介在した可能性も指摘できる。

 結果として選択結果は前述のとおりで、立場川橋梁には 200ft単線上路プラットトラス(ボルチモアトラス)が供され、高原に偉観を呈することとなった。





■トラス設計も日本独自規格へ

 長大橋梁の標準となった米国式トラス橋は合理的な設計思想に依っており、スレンダーな外観が特色の一つである。しかし、長所は短所の裏返しでもある。合理性を極めた細身の部材は、華奢な構造でもあった。参考文献(02)には、

「格間が長いため、下弦材と斜材はいやがうえにも細く見えた」
「剛性が小さいうえ、死荷重に対して活荷重が大きいので、列車が通ると振動し易かった。そのため、ピンの摩耗、ピン穴の拡大により、トラス格間が過大に変形し易く、……経年40〜50年の頃から斜材の折損、床組の損傷などの変状が起こり始め、当時ピントラス対策に注ぎ込まれた労力は相当なものであった」

 という記述が見られる。スマートな美女がひ弱な一方、頑健な猛女が病気も故障もなく活躍するようなものか、米国式設計は四半世紀も経ずに旧式化した。大正期に入ると橋梁設計に日本独自の視点が追求されるようになり、総リベット結合(今日ではボルトないし溶接結合)のワーレントラスという、今日でも馴染み深い構造へと収束していった。





■高原の風を受け赤錆深く

 すぐれて合理的な設計に依る米国式トラス橋も、製作後半世紀を経ると前述したような老朽劣化が進んでくる。 200ft単線上路プラットトラス16箇所18連の仲間は、昭和40年代に入ると続々と架替・線路付替の対象となっていった。

 中央線に存在した 6箇所 6連では、昭和41(1966)年に四方津−梁川間の呼戸沢橋梁が架替、初狩−笹子間の第四笹子川橋梁が線路付替となった。昭和43(1968)年には大月−初狩間の第二桂川橋梁も架替されている。

 以後続々と架替・線路付替が進み、今日でも現役として供用されているのは、磐越西線 一ノ戸川橋梁蟹沢橋梁 と秩父鉄道 浦山川橋梁安谷川橋梁 (いずれも磐越西線阿賀野川 当麻橋梁の転用)の 4箇所 4連のみとなっている。

 否、「のみ」と形容しては過小評価か。ほぼ一世紀を経たというのに、製作18連のうち 4連が現役、 1連が原姿を残しているというのは、驚異的な存続率と評価すべきであろう。

中央本線立場川橋梁
今日の中央本線立場川旧橋梁(出典:リンク先 Rail&Bike「廃鉄橋に夏が来る」


 立場川橋梁の線路付替は昭和55(1980)年と、用途廃止されたもののなかでは最も時期が遅い。そして、国鉄の経営悪化が年毎に悪化の度を深め、分割民営化へと動き出す転換点にも当たっている。そんな時期でも敢えて線路付替せざるをえなかったとは、旧橋梁の老朽劣化はよほど進んでいたのであろう。また、より安価でより長スパンを飛べるPC橋が実用化されていたという要素も効いたと思われる。

 立場川橋梁は、ある意味では幸運な時に廃止されたのかもしれない。国鉄は撤去費用を吝嗇し、どういう理由か富士見町が旧橋梁及び前後のトンネル区間を含む用途廃止された付替線路の譲渡を受けている。その結果として、立場川旧橋梁は用途廃止されながらも姿をとどめるという極めて稀有な事例となった。現状は保存というよりむしろ放置に等しく、近い将来すら決して楽観できないものの、とにかく残っているだけでも貴重な存在である。

 残念ながら筆者はこの地を訪れたことがない。H.Kuma様の爽やかな記事を読みこの一文を起こしてみたが、やはり現地で高原の清清しい風に触れつつ、ボルチモアトラスの偉観を仰ぎたいものだ。





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参考文献

  HP 『歴史的鋼橋集覧』 (土木学会図書館)より
(01) 「登録番号T6-005 立場(たてば)川橋梁」

  第 9回日本土木史研究発表論文集より
(02) 「明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状(第5報)——米国系トラス桁その2」 (小西純一・西野保行・淵上龍雄)

  HP 『Rail&Bike』 (H.Kuma様)より
(03) 「廃鉄橋に夏が来る」





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