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今は近寄りがたき線路跡〜〜日本セメント東松山専用鉄道(0/3)
一本の電話が、私の記憶を呼び覚ました。
「こちらY田ですが」
おや、と思う。仕事でお世話になることが多い方だが、急ぎの案件を抱えているわけでもないのに、わざわざ休日に電話してくるとは。
「これはこれは、Y田様、いったいどうしました」
「実はね、おれは今、関越の高坂SAを過ぎたところなんだけど」
「はあ」
どうも、ゴルフに行く車中から電話をかけてきた様子である。
「高坂SAの先に、架線柱が立っている橋が架かっているでしょ。どうも架線は架かっていないようだけどさ、あれなんの橋かな。いつもここを通るたびに気になってね。君なら知ってると思って電話したんだ」
私は、この橋梁の来歴を簡単に説明した。通称は東武東上線高本貨物支線、正式名称は高坂構外側線(日本セメント東松山専用鉄道)。沿線の鉱物資源を運び出すための貨物線で、その相手先は専ら高麗川の日本セメント工場。廃止は昭和59(1984)年のこと、架道橋はその後も撤去されず、関越道の上に架かったまま、往時の姿を遺している。
「ああ、ありがとう」
電話の向こうの口調が、いささか不機嫌になった。調子に乗って、詳しく説明しすぎたかもしれない。
「それにしても、君、博識だねえ」
感心しているようで、明らかに皮肉である。
「どういたしまして」
こういう時には、軽く受け流すしかあるまい。
その後の応答は、実はまったく覚えていない。ここを初めて訪れた時の記憶が、突如としてよみがえったからだ。おそらく私は、機械的に相槌を打ちつつ電話を切ったのだろう。
昭和56(1981)年の初夏、高校に入学して初めての遠足は高坂でのオリエンテーリングだった。丘を越えて小径を下る私たちのチームは、林の中の踏切でその貨物線に出会った。貨物列車の運行本数は、当時既に極小化していた。まして貨物線区間においては、保守の手が充分に入っておらず、見た目にもずいぶんと廃れた趣があった。
レールの光は鈍かった。枕木には大きなひびが入り、すっかり朽ちていた。道床の砕石はあらかた失われていた。犬釘は、簡単に手で抜けた。
「線路を歩いてみようよ」
私の提案に、皆が不承不承従った。思えば無茶をした。零落したとはいえ、いちおうは営業線である。見通しのきかない区間のこと、列車に轢かれる危険もあった。結果として列車がこなかったのは、ただの僥倖にすぎなかった。
もっとも、目的はオリエンテーリングである。ポストを探さなければ先に進めない。私たちは貨物線から離れ、普通の道に戻った。
先に進んだ私たちは、再び線路に出会った。高本の直前の踏切だった。鉱山は赤茶けた擂鉢のような趣で、重機の音がこだましていた。その擂鉢の底に、貨物線の終点はあった。機回線が1本あるのみの、単簡な終点だった。
曇りがちな天気のうえ、陽は傾きかけていた。黄昏の暗がりのなかに、貨物列車が1本待機していた。機関車の姿は見えなかった。青みを帯びた灰白色の緩急車は、暮れかけた重い空に溶けそうだった。
重機の音だけが威張っていた。貨物列車の音はなにもなかった。存在感は薄く、どこかはかなげで、ただその姿のみがあった。
オリエンテーリングで、私たちのチームは最下位だった。線路を歩くなど寄道もしたし、さらには道に迷ったりもした。チームの皆はその結果に不満を抱いたが、それをはっきりと表に出す者はいなかった。私はただひとり、「あの貨物線」に出会えたことに満足していた。
貨物列車は衰亡への道をたどっていたが、それに対する私の認識は鈍かった。だから、あの貨物線が廃止されたと聞いた時には、驚きが伴った。東武鉄道ではさらに貨物列車を全廃する計画と知り、信じられない思いだった。大量輸送は鉄道の最大の特徴ではないか、鉱石輸送をトラックで代替などできるものか、と。
その後、交通を専門に研究するようになって、当時の不思議が解けてきた。鉄道貨物は典型的な装置産業である。装置をつくるのに必要な初期投資が莫大である以上、それ相応の収益を得なければならない。その一方で、鉱石輸送は価格転嫁力が低く、コスト相当の運賃を設定しがたい。
鉄道は、間違いなく大量輸送の交通機関である。しかし、経済という尺度においては、交通機関としての特徴など深い意味を持たない。より安価な輸送手段をこそ、荷主は選択する。環境にやさしく効率がよいとはいっても、コストが高くつけば、交通機関としては選択されない。理想や題目だけでは、世の中動かないし、動けない。
「東武鉄道百年史」によると、東武鉄道は昭和49(1974)年時点で貨物輸送に見切りをつけていた。国鉄貨物は衰勢にあったとはいえ、まだ自助努力の余地ありと頑張っていた時期だから、決断のすばやさは際立っている。
なぜ貨物輸送を全廃する方針を採ったのか。需要が減少傾向にあり、輸送コストが高くなった点が効いたという。高くなったコストは、鉄道会社と荷主のいずれが負うにせよ、それをより多く負う側の利益が圧縮されてしまう。鉄道会社も荷主も、それぞれにコスト抑制を目指した結果が、貨物列車の廃止であった。
誰もが善意に基づいて選択した結果だけに、なおのことむなしさが伴う。部分最適化を極めても全体最適化にはつながらない典型、とまとめるのは簡単だが、その先の解決策を見出せない限り言葉遊びにすぎないだろう。
たとえ解決は難しくとも、解決するための方策を考えなければなるまい。社会にとって有益な事業が、会社や個々人にとっても有益であるように。
「あの貨物線」は廃止から16年を経た今でも往時の痕跡を明瞭に保っている。とはいえ、関越道架道橋以西の区間で線路跡に近づくのは難しい。とにかく接点が少ない。葛袋及び高本以外には公道と交わる箇所がなく、しかも沿線は草木が深い。線路跡に達するためには、相当な難行苦行を強いられるだろう。
また、立入禁止箇所も多い。関越道架道橋の前後は塞がれているらしいし、その東詰は建設機材置場となっている。葛袋も駅跡は現役の鉱山だし、高本は今ではゴルフ場である。すっかり近寄りがたい線路跡となった「あの貨物線」、その現況を伝えたい。
私の記事と並行して、「あの貨物線」に関する「Rail & Bike」の記事を2つ紹介しておく。その当時と、現在の様子とを比較して、時の流れを感じて頂ければと思う。
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「東武沿線廃線めぐりその1・秩父鉱業線(東武東上線/高坂)」(柏熊様)
執筆備忘録
初訪問 :昭和56(1981)年初夏
再訪問 :平成10(1988)年夏
再再訪問 :平成12(2000)年夏
写真撮影 :平成12(2000)年夏
本稿の執筆:平成12(2000)年夏
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