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大連の名称
第一節 ターリエン・ワンの称呼
ターリエン・ワンの称呼が始めて文献に現われたるは、一八六〇年測量のジョンワードの英国海図を以て嚆矢とする。この海図は清朝の道光年間(一八四〇年)の阿片戦争から、次いで広東に於ける英国国旗凌辱事件と共に、仏国宣教師の暗殺事件のために、文宗の咸豊年間(一八五七年)英仏連合艦隊が、北京を衝かんとして両国の艨艟相銜んで旅順口に入り、翌年の天津条約に依って時局の平定を見んとする際、条約批准の使節を襲撃したのでここに北支那事変を勃発した。そして北支那事変起こるや、英国は陸海四万の大軍を北支那に動かすに至った。
当時香港に在った英提督ホープは、商船サブリン号の船長ハンドをして遼東に艦隊の碇泊地と、陸軍の屯営地を索めしめたので、ハンドは付近の沿海岸一帯を測量したるが、土人の通称に依りて、湾澳一帯をターリエン・ワンと名づけ、艦船の碇泊せる港内をヴイクトリヤ・ベーと称し、陸兵は湾北の大孤山澳即ち英人のオデイン湾に上陸し、北支の風雲に待機すること月余にして艦船悉く太沽に進発し、連合軍は大挙して北京に迫った結果、遂に北京条約の締結となって北支那戦争は終局したが、当時遼東半島は、英軍の占領に帰し之を永久に把握すべく陸地を測量し、海図を作成し、各要所には記念的名称を命名したのである。
現在の大連港には英国女皇の名をとって「ヴイクトリアベー」と名づけ、旅順は女皇の女婿であったアーサー親王に因みてポート・アーサーと名づけ、普蘭店の如きも提督の名に依りて「アダムス・ベー」、金州の大和尚山は、バイブルの巨人の名を偲んで「マウント・サムソン」と名づけたのである。そして英軍の占領せる後、一八六〇年六、七月の頃、英国艦隊が大連湾に仮泊した際、コムマンダー・ジョンワードがアクチン号及びドウ号の諸士官の援助を得て、遼東半島一帯及渤海湾に亘り、詳密に測量して一の海図を作成し、それにターリエン・ワンと命名し、別にバンド・ベーと記し、大連港にはヴイクトリア・ベーと記されている。
従ってターリエン・ワンなる名称の文献に記載されたのは、このワード海図に始まると云うべきであるが、このターリエン・ワンの出所に関しては、北支那事変の際英国艦隊に通訳官として乗込みしロバート・スウキンホーの著せる北支那戦争実記に、セスイツト僧侶の古地図を鍵としなければ解釈に苦しむとあり、事実二百余年前に北京を中心として伝導に従事したる天主教徒の自ら作成したる唯一の略要地図に基きたるもので、支那人間にターリエンと称し、そのターリエンは塔ネ連であって転訛して塔連となり、現に撫順その他の土地にも塔連と名を附したる処もあり、財布の意義を持つものであるから古来ターリエン・ワンと唱えられていたから、天主教徒もその称呼を用いたるものと解せらるるのである、そしてターリエン・ワンが大連湾と記されたるは、ジョン・ワードの海図を支那側で飜刻したる奉天直隷山東沿海総図の内に「奉天大連湾進口」と題する分図に、大連湾と記してあるも飜刻年代が詳かならざるを以て、それが支那にて始めて大連湾と記したものと断定し難く、実際に支那の文献に現れたるは、光緒六年(一八八〇年)時の北洋大臣李鴻章が、軍事顧問独人ハンネッケンの意見を容れ、西太后に大連湾軍港の建設を奏議したる際に、大連湾なる文字を用いたるに始まる。しかして之らのターリエン・ワン及大連湾は、現在の大連市区に即したるものでなく、実に海面一帯を含んだ処の港湾の総称である。
第二節 支那の青泥窪
青泥窪<チンニーワ>なる名称は、唐の徳宗貞元辛己十七年(恒武天皇延略二十年、西紀八〇一年)当代の地理学者にして貞元の名宰相たる賈耿は、「道理記」を著わし遼東の海路を述べて、「登州東北海行、過大謝島亀欠島末島烏湖島三百里、北渡烏湖海、至馬石山東之都里領二百里、東傍海懦、過青泥浦」とあり、松井等博士はこの一条に見ゆる各地の位置を推定して、登州は今の山東省の北岸なる登州府、大謝島は今の登州府北の海中にある大竹島?、亀欠島は欽島、烏湖島は城隍島なるべく、この島と旅順の間なる海面は即ち烏湖海なり、烏湖島の北二百里なる都里鎮は今の旅順その西なる馬石山は今の老鉄山に比定せらるべし、そして青泥浦は今の大連の旧名青泥窪に酷似すれば、恐らくは今の大連あたりと思わると解説している。
又明の嘉靖五年(一五二六年)製作の支那古地図に、遼東半島突端に近く海中に「青泥」と記した島がある。更に遼東志に金州の城南四十里に青泥島のある旨が掲げられているが、この島は海中の島嶼につけられた名称のみでなく地上名称にも用いらるるから前記地図の島と関連するかは明かではない。併し遼東志の第二次刊本は嘉靖八年(一五二九年)にしてその間幾何年代を経過せず、嘉靖四十四年(一五六五年)の第三次刊本たる全遼志にも青泥島があることを記してあるから、青泥窪と同一地点でないにしても、この付近に青泥浦、青泥島が位置したことは想像せらるるのである。
そして実際に青泥窪なる名称を附したるは、ジョン・ワードの地図を飜刻したるものに、ヴイクトリア湾中の一部に青泥窪湾と記されてあり、又現在の大連市松山町に松山寺なる古刹があって、その境内に同治九年(一八七〇年)六月建てた重修碑文に、大清国盛京奉天府金州郡西旅安社青泥窪、於乾隆二十一年建立後於咸豊八年重修松山寺釈迦文仏、天仙聖母殿二処、此地諸峰磊々、群木森遠呑山光近連松色、千厳万壑不可勝状、当日廟貌落成、四方頂香礼而告虔者綿々不絶極一時之盛事矣とあり、重修碑建立の時にこの地を青泥窪と称したことが示されている。青泥窪は東西青泥窪の両部落に別れていた。
第三節 露治時代のダリーニイ
一八九三年(明治二十六年)三月露国はバヴロフ条約に依りて清国より、旅順口、大連湾及其付近一帯を租借するや、旅順を以て東方経略の策源地と定め、この地に海陸軍及民政諸官衙を集中して鋭意水陸の防御を図ると同時に黄海沿岸の一地点を卜して、欧亜連絡の一大商港を建設して満州経営の基礎を確立せんと企て、租借後直ちに海陸軍の将校及専門技術家に命じて沿海各地に於ける水陸の実勢を踏査せしめた。その結果遂に今日の大連を選定して此処に大規模の斬新なる商港と市街とを経営することとなったのである。そしてこの地にダーリニイと命名せられたのは、一八九九年八月十一日ニコライ皇帝が大蔵大臣に与えた大連自由港建設に関する勅令の中に「大連湾占領後該港は一切国民の商船に対し開放せられたる旨を解明したる帝国はここに進んで該港付近に一個の都市を建設し之に『ダリーニイ』の呼称を与えるを得策と思惟するものなり」とあるに依る。
ダリーニイなる露西亜語の意義は「遠隔の」と云う形容詞であるけれども、この命名は遠隔の港或いは遠隔の都市として用いられている。一般にダルニーと呼ばれ、青泥窪の漢字にダルニーと振仮名して用いられているも、それはダリーニイが、東西青泥窪及その他の部落を包容しているから誤って用いられたものに過ぎない、若し漢字にて表現するならば東省鉄路合同原文に達爾尼としてあるが正しきものと解せらるるものである。そして露国の命名したるダリーニイは、日本が占領して改称を令達する迄、一般に呼称され日露の初期大連に軍政機関が開設された際にもダルニー軍政署、ダルニー軍政委員などと称えられ、諸外国の地図にもダルニーと記載されていた。
第四節 日本の命名した大連
日本に依りて大連と呼ばれたるは、明治九年陸軍参謀局にて、ジョン・ワードの海図を飜刻出版した時、之を大聯湾と現しているのが始めてであって、その普遍的に大連湾なる称呼が日本人に知られたのは日清戦争の時であった、我が陸海軍の公式記録に、大連湾占領とか、大連湾に於ける連合艦隊などと記されてあり、勿論当時には現在の大連市が建設されずして、青泥窪なる一漁村に過ぎなかったから、大連湾内柳樹屯に対して大連上陸などと一般に唱えられた。そして三国干渉に依りて一旦占有したる遼東半島を還付するや、露国が旅順、大連を租借する迄は、大連なる名称は、寧ろ遼東半島の名に蔽われて再び称するものは甚だ少なかったようである。従って露国が大連湾内に一大商港を築き大都市ダリーニイを建設するに至ってから、在住の日本人もその多くは、浦塩斯徳<ウラジオストック>、ニコリスク、ハバロフカ方面から転任したるものなるを以て露名のダリーニイを称し、偶々大連湾に因みて、その新興都市を大連と称したものもあったが、それは極めて少数で日露戦役開始後に始めて大連の称呼が用いらるるに至った。
そして明治三十八年一月二十七日付遼東守備軍令達第三号で「明治三十八年二月十一日以後『青泥窪』を『大連と改称』すと公に発表されてよりここに、大連なる名称が確定したのである。この改称の因由に関して諸説紛々たるものがあり、牽強附会の解釈が加えられているが、時の遼東守備軍参謀長神尾光臣将が主となって、大連湾に因みて大連と改称したに基くは事実であって、大連の読み方が清音タイレンであるとか、濁音ダイレンであるとかの議論も生じたのであるが、その濁音が正当であることは、関東州庁に保管する明治三十七八年関東民政署記録に令達原文が現存し、それには確かに「大連<ダイレン>」に濁音の振仮名が施されてあるに徴し議論の余地はないのである。ただ其後大正三年八月発行の関東郡督法規提要に「青泥窪」を「大連<タイレン>」に改称すと記載されて濁音が除かれてあり、大正十年八月発行の関東庁編関東庁法規提要には「大連<ダイレン>」の濁音が示され、そして降って昭和二年七月発行の関東庁法規提要には、遼陽守備軍令達とあって「大連<ダイレン>」の濁音が附されてあるから、この大正十年版の濁音及び昭和二年版の遼陽とあるのは遼東、濁音は、何れも清音の誤植であると、牽強附会に解説するけれども、令達原文には現に厳然として「大連<ダイレン>」と濁音の振仮名があり、現行の昭和十年版関東庁法規提要にも「大連<ダイレン>」と濁音の振仮名が付けてあるから、この大連が清音か濁音かの疑問は一掃せられて大連はダイレンと呼ぶことの至当であることは今や言議を要しないのである。
若しそれ言語学とか地理学とか沿革的に研究するは、都市の現に命名されつつある称呼の範囲外であって、大連には関東州市制第二条に於て、市の廃置、名称及区域に関しては関東長官之を定むとあり、現制に依れば駐満全権大使が之を定むるものであるから、大連市の名称は大連<ダイレン>であることは法規に依るもので何ら疑義の生ずべき所以はないものである。
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