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伸びゆく琉球(1)

 これは、一九四五年以来の米国統治下で、琉球諸島が達成した大進歩を語る連載(さい)記事の第一回です。次号からは経済的、政治的、社会的な進歩発展を、具体的に述べていくこととします。

★沖縄の発展をふり返る★

 沖縄は、ときには世界地図にも見当たらない西太平洋上の一小島だが、国際的な新興地域(いき)の開発競争では、一やく群をぬいてトップに立ちはじめた。

 沖縄本島と付近の島々から成る琉球列島は、シャンハイの東南七二〇キロ、東京とマニラのほぼ中間にあって、戦略上重要な地点を占(し)めており、ここ十数年の間に二〇世紀中期の時勢に追いついてきた。

 米国が琉球で統治を始めたのは一九四五年で、その後の一七年間に米国の最新技術と外部からの資金援(えん)助、それに近代感覚に目覚めた琉球人の勤勉努力が加わって、新しい社会が築き上げられた。戦禍(か)のあとには、琉球史上空前の数多くのりっぱなビル、舗装(ほそう)道路、公共施(し)設などが建設されたのである。


昨年(1962年)10月16日、民政府会議室でワシントンに送付する講和前補償(しょう)委報告書に
サインするキャラウエイ高等弁務官。となりが大田琉球政府主席。立っているのは左から平良立法院
議員、マキューン民政官、久貝良順法務局長、ジョン・キング米国土地裁(さい)判所首席代表。

 欧(おう)米で一〇〇年かかった工業化と近代都市化を、わずか一〇年あまりで達成した琉球人は、農工業、技術、都市などの面で、社会的にも政治的にも静かな革命を果たそうとしている。

 沖縄の進歩は、主として米国の国防支出と、沖縄の戦略地理的な位置のおかげであるが、物覚えがよく、友好(こう)協力的な琉球人が、地元産業と貿易を発展させていることは、大観光事業が有望なことと相まって、明るい将(しょう)来を約束(そく)するものである。

 いまの生活水準を、以前のどの時期と比べても、統計では、保健、教育、雇(こ)用、国民所得、輸送の面で著しく向上したことを示している。一九五五〜五九年の平均寿(じゅ)命は、戦前の一九三一〜三五年の平均寿命より二〇年も伸びている。これは食物、生活条件、および保健衛生施設がよくなったためである。


高等弁務官特別資金2100ドルで建設された恩納村、安富祖の簡(かん)易水道を
視察するキャラウエイ高等弁務官の一行。前列左から当山区長、伊芸立法院議員、
キャラウエイ高等弁務官、当山助役。

 七才から一五才までの児童の就職率(ママ)は、一九三五年の七九・二パーセントが一九五五年には九三パーセントにふえていおり、現在はほぼ一〇〇パーセントに達したと見られている。これにともなって教員もふえ、一九三五年には生徒四五人に教師ひとりだったのが、ことしは三四人にひとりとなっている。

 一九三五年には、沖縄で新聞を読む人の数が人口一〇〇〇人に対して一九人だったが、昨年度は一八三人と大きくふえている。

 技術教育の進歩は、二〇世紀中期の新開発地沖縄にバラ色の希望をあたえている。一九三五年には工業学校、職業補導学校などの在籍(せき)者は、人口一〇万人のうち二三・六名にすぎなかったが、一九六一年には九四九名にふえている。

 一九五〇年には、琉球最初の大学——琉球大学が創立された。今日では在学生は約二五〇〇名だが、一九五〇年にはわすか五六〇名であった。この大学は絶えず施設や学部、学習科目をふやしている。

 教育は日本の制度を手本としており、日本の流行歌やおどりも流行しているが、沖縄には固有の美しさを持った独特の方言と文化がある。最近、すぐれた学者たちによる方言の研究が復活し、沖縄の伝統的なおどりや歌に対する人気が再び高まってきた。このおどりや歌の起源(げん)は、むかし中国、朝鮮(せん)、東南アジア、メラニシア地方との接しょくが行行なわれていたころにさかのぼる。


待望の泊浄(じょう)水場の各庁工事が昨年工費29万8000ドルで着工された。
完成すれば那覇市の需要量1日1万8000トンを上回る1日2万1000トンを給水
できる。起工式には大田主席、長嶺立法院議長、西銘市長、シュルツ副民政官が
出席した。

 労働者たちは、戦前よりも若(わか)々しく、張りのある顔つきとなった。経済の発展にともなって、生産企(き)業は大がかりな生産方式を取り入れ、労働力集中から資本集中に移ってきている。一九四〇年の農・漁業労働者の数は、全労働人口の七六パーセントだったが、昨年は四六パーセントに落ち、今年はさらに減る見こみである。一方、管理、事務、販(はん)売の諸部門で実質的な増加が見られる。

 アメリカ政府機関に勤務したりアメリカ人に個人的にやとわれている約五万五〇〇〇人の沖縄人のうちには、アメリカ人から習い覚えた各種の技術を身につけた人たちがたくさんいる。その中には、新興産業に移ったり、自分で事業を始めた人が少なくない。現在八〇〇人をこえる沖縄人の技師や船員が、七つの海を行き来する外国船にやとわれている事実を見ても、最近の傾(けい)向がわかる。

 物価の基準を同じにして比べてみると、一九六二年の個人所得は一九三四〜三六年平均の二倍以上にふえている。

 一九三〇年代の総所得の半分近くは農業所得であったが、今日では農業所得は約一八パーセントにすぎず、商工業、サービス業が新しい所得源となっている。


日米琉の編集者、記者、情報将校は十月二十二日ハーバービュー・クラブで取材報道上の問題点や
その解決策を話し合った。写真向こう側左から、池宮城琉球新報編集局長、名渡山通訳、高等弁務官
情報補佐官ネルソン大佐(さ)、モンタ・L・オズボーン渉(しょう)外報道局長、上地沖縄タイムズ編集局長。

 一九三五年には約一〇〇台のトラック、バス、乗用車がハダカ土の道を走っていたものだがいまでは琉球人所有の自動車約二万台と一二五cc以下のオートバイ約一万台とがアメリカが建設または融(ゆう)資したコンクリートおよびアスファルトの舗装道路を走っている。また、自動車族は、琉球人でもアメリカ人でも、一ガロン二二〜二三セントという世界一安い価格で、ガソリンを手に入れている。

 琉球人所有の鋼(こう)鉄製の航洋船は、日本、アメリカ、オーストラリア、台湾(わん)、ビルマ、インドと行き来し、遠く六〇〇年も前に琉球の船乗りがさかんに東南アジア各地に出かけていたあの海外雄飛の歴史を思い起こさせる。また琉球の漁夫たちは、遠洋漁業用のディーゼル漁船に乗って、遠く赤道近海にまで出漁している。


昨年(1962年)4月沖縄婦連会館で開かれた第三回琉米婦人研修会に出席
した約一五〇名の琉米婦人代表たちは、教育、社会、家庭生活、保健、安全の
五分科会に分かれ、同研修会の中心議題「児童福祉(し)」について話し合った。

 ジェット時代の今日、那覇空軍基地にあるアメリカ空軍の施設は、米軍だけでなく、各国の民間航空会社でも使っているので、沖縄は、空路を利用する各国の旅客にとって、極東における空の旅の中心地となっている。この空軍基地のとなりには、琉球人が三〇万ドルの費用をかけて建設し、一九五八年に店開きをした空港ターミナルがある。このモダンなターミナルは旅客に最高の近代的サービスを提供している。

 一九六一年に海と空から琉球に出入りした旅客数は、全部で一四万九六〇〇余名であった。その三分の一は空路の客で、国籍は五〇以上におよんでいる。


糸満で行われた第三回小児マヒ予防注射では、合計一四四四人の児童が
注射を受けた。勇敢(かん)な男の子が歯をくいしばって注射を待っている。

 戦前、沖縄人がまる一年間に消費した電力量は、現在の消費量の二週間分にも足りなかった。戦前の年間平均消費量四五〇万キロワット時に比べて、今日では一カ月の消費量が一二〇〇万キロワット時に達している。

 高等弁務官府と琉球政府が発表した経済報告書には、選択(たく)経済指標を見ると「景気は上昇(しょう)を続けている」ことがわかると出ている。高賃金による収入の増加、潜(せん)在投資力の増大、および輸出入の増加が、現在の沖縄経済の特色となっている。

 また一九六二年初期の琉球人一世帯一か月の支出高は、借入金の返済を除いて約五三ドルで、一九六一年同期の四七ドルより一二パーセント多くなっている。

 一九六二年度初頭の実質通貨供給高は、前年同期より二一パーセント増の四七〇〇万ドル、未回収長期貸付金は二・四パーセント増、個人住宅建設資金貸付高は一二・七パーセント増、短期貸付高は二六・八パーセント増であった。


高等弁務官公衆衛生福祉部長ハイスミス中佐と琉球政府の金城厚生局長が、
厚生局薬品倉庫の冷蔵庫でコレラ・ワクチンを点検している。20ccビン5000本
の手持ちのほかにさらに1万1000本のワクチンが嘉手納飛行場に届いた。

 貿易部門では、一九六二年会計年度の輸出総額は、四三五〇万ドルで、一九六一年度の三五五〇万ドルに比べて二二・五パーセント増。同じく輸入総額は一億四二五〇万ドルから一億六一〇〇万ドルに増加した。主な輸入品は機械器具、建設資材、原料であった。

 一九六二年初めにおける琉球の金融機関の資産総額は、前年同期より三五〇〇万ドル増えて、一億九〇〇〇万ドルであった。

 政府諸機関ならびに経済界の有力者たちは、外国資本をもっと導入するとともに、最近ふえてきた大衆貯蓄(ちく)を地元産業にふり向けることに努力している。一九五八年の米ドルへの切りかえ以降、現在までに七〇件以上の外資——主として産業投資——の導入が認可されている。


国場川ぞいの埋(う)め立て地につくられた工業地帯。1961〜62
年度には、ここに近代式の製鉄所と2つのベニヤ工場が建てられた。

 今後も起こりうるこのような画期的な変化は再建と開発が新段(だん)階にはいったことを示している。これからの経済、文化、社会の進歩発展の土台が築かれたわけである。琉球列島がかがやかしい歴史を持っていることは事実だが、今日、琉球住民の前には偉(い)大な将来が開けていることを知るべきである。
 


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