このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 
友情の水路

 奥武(おう)島の人々とアメリカ海軍のある飛行中隊の隊員たちとが、あたたかい友情で結ばれているという事実がわかったのは、アメリカ陸軍のドレッシャーのがっしりした刃(は)先が、この小さな島の漁民のために、漁船の通る水路をほり始めたときのことです。

 それは、那覇の米海軍第四哨戒(しょうかい)中隊の三〇〇名の隊員およびその家族たちと、奥武島に住む一、一〇〇名の地元民という二つのちがった社会集団の間に花開いた友情で、おたがいに休日をともにし、教養を分かち合い、楽しみも悲しみも分け合って、親類どうしのような親密(みつ)さを、ますます深めています。その友情は、島民が奥武島の入口の橋に掲(かか)げた立て札(ふだ)に「第四哨戒中隊の兄弟姉妹」と書かれているほどです。


米海軍第四哨戒中隊のとり持ちでやってきた米陸軍の工兵隊員が、当時の奥武区長
大城幸昌氏(左)と玉城村村長川崎永昌氏に、水路をつくる作業の説明をしている。

 話は一九六〇年の九月にさかのぼります。第四中隊の隊員たちは、アイゼンハワー前大統領の「民間親善計画」の呼(よ)びかけに応じてこの奥武島を訪(おとず)れたとき、ここに漁船の通れる水路がないので満足な漁業もできないことが島の漁師たちの悩みの種だという話を聞き、なんとか助けてやりたいものだと思ったのです。

 隊員たちは、その後もたびたび島をたずねて島民たちと仲(なか)よしになり、その年のくれには島の子そもたちのためにクリスマス・パーティを開きました。さらに一九六一年のはじめには、第四中隊は島の住民たちを援(えん)助して、五〇〇人近い島の子どもたちのために、ブランコ、シーソー、メリー・ゴーランド・ラウンドなどのある運動場をつくり、これに対して、地元の人たちは海岸パーティや、ピクニックやショーなどをもよおして、海軍側の人々をもてなしました。

 その二か月後には、村長につれられた奥武島民の一団が、第四中隊の本部に招かれて飛行機を見せてもらったり、中隊の任務についての説明を聞いたりしました。六月には、そのお返しとしてアメリカ側が海神祭りのお祝いに招かれ、島民たちの勇壮なハリュウ船競争には米海軍の水兵たちも加わりました。

 たくましいアメリカの水兵たちは島の婦人たちと競争をしたのですが、水兵とはいっても空を飛ぶ水兵だったので、船のあつかいはうまくいかず、婦人たちの船が決勝点にはいってからも、ずっと後ろのほうで水びたしになった船をもてあましていました。


第四中隊員は村の老人たちに記念品をおくって社会につくした功績をたたえた。
写真は安次富ウタ(八三才)さんをケーキでもてなすG・R・バーネット海軍中佐。

 島に必要な水路をつくるにはどうしたらよいかを相談していた第四中隊の士官たちは、まもなくその計画書を高等弁務官の手元に提出して許可を求めました。その結果、一九六一年六月、米陸軍の工兵隊が湾(わん)に水路をほり始めることになったのです。それで、第四中隊と島民たちとの友情の話が知れわたり、それ以来、両者はますます固い友情で結ばれ、いくつかの美談も生まれています。

 たとえば、昨年もいくつかの大型台風が沖縄をおそいましたが、奥武島がそのうちの一つのお見舞(ま)いを受けてひどくやられたとき、中隊では島へ中隊の医療班(りょうはん)を急行させるとともに、隊員たちは、島民のこわれた家や家財の修理を一生けん命で手伝いました。

 しかし、なかでも子供たちの記おくに残るのは、もっと楽しいつどいのことでした。奥武島の人口の半ばちかくは子供でしめられていますから、中隊の基地と奥武島の両方で、子供のためのパーティがたびたび開かれています。島の子供たちは、大部分が中隊本部のなかを見学してまわりました。パイロットの準備室から通信小隊へ行き、さらに大型飛行機に乗り込んで、送受信器で友だちと話し合い、そこから引き返してケーキとソーダ・ポップ(せんをあけるとポンと音のするソーダ水)をごちそうになったものでした。

 水兵たちはマンガ映画(えいが)やアメリカに関する映画を島へ持っていって、子供たちに見せるほか、毎年この島で琉球・アメリカ合同の子供のクリスマス・パーティをもよおしています。サンタクロースは海軍のヘリコプターに乗ってやって来ますが、大きなふくろには子供たちへのおくりものがいっぱいです。中隊の人たちはアメリカ式のクリスマスのミュージカル・ショーを上演し、日がくれてから日本語のクリスマス映画を上映します。

 休日やお祭りは事実老人にも人気があります。琉球の休日にも、アメリカの休日にも、必ずといっていいほどこの両者は集まります。たとえば、昨年の秋、八月十五夜の日に海軍の人たちとその家族は、奥武島へ出かけていって、島の老人たちに敬意を表わしました。島民は沖縄にふるくから伝わる音楽とおどりを、海軍は第二十九陸軍音楽隊の特別演奏(そう)を行ないました。島の老人たちには、社会の向上につくした労をねぎらって、ささやかな記念品がおくられました。

 スポーツの行事は島民たちにも水兵たちにも人気があります。週末には、よく両方が合同チームをつくって、バレー・ボールやボート・レースをやり、あとで飲食や長い雑談をします。

 三年近くの間、奥武島の人々と第四戦隊の水兵たちは、ほんとうに人を愛し、いっしょにいることを楽しみ、教養も、心配も、楽しみも分け合うことによって、友情を育てて来たのです。


八月十五夜の祭日には、海軍側が第二九陸軍軍楽隊を島に招いた。奥武島の住民たちも
むかしから伝わる郷土の音楽やおどりで第四中隊の隊員やその家族たちをもてなした。
第四中隊と島民たちは、琉米どちらの祝祭日にも、きまったように集まってなにかの行事を行っている。
 


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