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一九三九年の概観

 本年も、上海地区には日支軍の衝突はなかった。平常状態への復帰は極めて緩慢であり、多くの困難を伴うとはいえ、上海は、再び、これらの諸困難を克服して前進する素晴らしい活力と能力を示している。

 一九三七年以来の日支事変(1)によって混乱に陥った実業界は、ヨーロッパにおける戦争の勃発(2)法幣(3)の下落によって、膨張している兆候すらみられる。種々の新しい大問題が、本年中に起こった。中部ヨーロッパよりの多数のユダヤ避難民の流入、下半期の西部越界地区(4)における警察問題、これらの問題に劣らず重要なのは、法幣価値の一層の下落——一時は三片半に下落——による影響である。

 蘇州クリーク北方地区(5)工部局(6)の完全なる統制下に復帰せしめる問題についての交渉は、本年度中には、何ら結論に達しなかったが、日本当局の協力によって、工部局に対し営業許可を願い出るものが増加している。通行証を所有しない中国人は虹口(7)及び楊樹浦(8)へ入ることが禁じられており、日本の歩哨は、依然として、通行証の検査を行なっている。貨物の移動制限は緩和された。

 クリークの南部では、工部局の各処とも平常業務の上に特別の業務が増えている。華人避難民の保護事業は、一九三八年末には七〇のキャンプ管理と五〇〇〇〇人の避難民保護を必要としたが、一九三九年末には約二八のキャンプ管理と約三三〇〇〇人の避難民保護を必要とした。一九三九年末には、キャンプ数を更に減少せしめて、より直接的な統制を行なわんとする方策がとられた。従前は住宅地と考えられていた西部越界地区における工場の設立は続いているが、一九三八年ほどではない。

 一九三九年の末、西部越界地区の最も重要な二、三の道路上及び最も重要な二、三の交差点に、上海特別市政府(9)華人巡補(10)及び交通巡補を派遣して職務を遂行せしめたため、重大問題が発生した。

 これらの諸道路は、工部局がこれを建設し、長い間、工部局警察が警察権を握っていたのである。工部局は西部地区の発展に巨額の資金を投じている。上海特別市政府の警察権の発動に対しては直ちに抗議が提出された。二、三の重大事件が発生し、双方の警察隊員に死者が出るに至った。工部局と上海特別市政府市長傅攸庵との間に交渉が開始され、十一月末までに、この重大問題に関して双方の提案の交換が行なわれた。しかしながら、年末までに何らの結論に達せず、双方の警察隊が問題の地区に相対峙しているという不満足な状態が続いている。

 本年も租界の食料及び燃料の供給、特に米及び石炭の供給を心配することが絶対必要であった。というのは、華人の主要食料品価格が夏場に急激に高騰したからである。フランス租界及び共同租界当局はこの急迫せる事態を救うために、布告を発して、最高価格を決定した。しかしながら、八月には物価は最高価格を上回り、最上米価格は一ピクル五〇元に高騰し、多くの商店は、商品仕入不能に陥り、店舗を閉鎖せざるを得なかった。また、非常に列質の米を混入するというような不正行為が一般的となった。

 二、三件の暴動が勃発し、一時は事態が非常に急迫した。しかし、漸次緩和され、八月末には米価が急速に下落し、一ピクル三〇元にまでなった。その後、産米地帯の豊作によって、米価は更に下落した。しかしながら、年末には物価は再び上昇し、十二月には、仏租界公董局(11)及び共同租界工部局は布告を発し、商品を故意に退蔵し、或は投機を目的にするものはフランス租界及び公共租界より退去を命ぜらるることあるべしと警告した。米商が二、三襲われ、米価は僅かに下落した。年末になっても、食料委員会はなお事態を見守りつつある。

 燃料委員会も、一年を通じて、石炭の動きを調査した。極東よりの石炭供給の不足のため、海外よりの石炭の輸入の必要に迫られ、従って、炭価も非常に高かった。電力会社及び瓦斯会社は、高い炭価のため、非常に不利な条件で営業を行なった。そして、工部局の許可を獲て、平常料金の他に特別料金を課して、支出の増加を補った。これらの問題及びその他の一般的に関心を持たれる諸問題は、本年報の各処別報告のところで、より詳細に触れられている。

ユダヤ人避難民

 一九三八年末、中部ヨーロッパよりのユダヤ人避難民が相当多数上海に上陸し始めた。しかし、流入者数が非常に多くなったのは一九三九年になってからである。

  これらの避難民の大多数は蘇州クリーク北部の租界地区に居を定め、或はそこのキャンプに落ちついた。各種の委員会及び機関が彼等を収容する仕事を計画し、工部局も援助を与えた。即ち、東部地区の二、三の工部局の建物を彼等に貸し与えた。

 事態がより重大化してくると共に、工部局は領事団(12)に謀り、ヨーロッパの避難民のこれ以上の上海への流入を阻止すべくあらゆる手段を講じた。各国領事は、その旨を体して、本国政府に建議して、上海の不利な状況を強調し、これ以上の避難民が上海へやってきても、生計を営むことは事実上不可能である旨を伝えた。このような領事の建議にも拘わらず、避難民の流入数は極めて多く、四月には六〇〇〇人を突破した。

 避難民の到着に伴って生ずる病院問題を取り扱う委員会が作られた。五月に避難民のうちに猩紅熱が発生したが、入院の手配がなされ、熱病は大事に至らなかった。工部局は建物を貸し与えて、病院問題解決の一助とした。

 六月には避難移民総数は一〇〇〇〇人に増加した。八月には、日本当局は一時ヨーロッパの避難民のこれ以上の流入を防止したい旨の意思表示をなした。当時上海の避難民数は一五〇〇〇人に達していた。矢張り八月に、工部局はヨーロッパよりの避難民がこれ以上租界に入ることを禁ずることとし、この決定を領事団及び船会社に通告した。

 九月、日本当局と協議の結果、一般的入界禁止の例外を許す規則を発布した。これは蘇州クリークの南部地区にのみ適用されるものである。約三〇〇の許可証がこの規則によって発行された。

洪水

 十一月工部局は蘇州クリーク南部の租界地区の各方面に発生した大洪水の原因に関して長文の説明書を発行した。河川の増水による洪水と豪雨による洪水とは別々に説明されている。

 前者に関しては、排水口に閉鎖扉を設備し、バンド(13)に沿って堤防を築き、排水口を閉鎖している間の普通の排水のためには古い下水用ポンプを据え付けていた。この方法は完全に成功した。十四年間にわたる潮流を研究した結果、一九三八年及び一九三九年は平年に比して高かったことが分かった。恐らく河川の水柵を封じた結果であろう。八月二十九日、三十日にわたって、河水は浸水地域よりもほとんど四フィート高くなり、夜半フランス・バンドを越えて浸水した。しかし、午前八時までには排水された。

 豪雨による洪水の程度と継続期間は、一九三七年八月以来、河川及びクリークの浚渫が中止されているため、上海市の各部が沈降しつつあるため、西部越界地区が急激に無統制に工業的に発展しつつあるため、アヴェニュー・ジョッフル路(14)を境として公共租界の排水口が不完全であることのため、悪化しつつある。

 公共事業委員会の工部局に対する報告は、相当程度の改善を行なうには約八〇〇、〇〇〇元を要し、現在、巨額の資本支出を必要とするような計画を遂行することは賢明ではないが、この種の工部局事業として合理的と考えらるる範囲内で、一九四〇年には出来る限りのことがなられなければならぬと述べている。豪雨がおそるべきほど強烈に且つ長く降らない限り、洪水による不便は著しく改善されるだろうと考えられている。

バンド碼頭の使用

 一九三八年緊急手段として実行されたバンド碼頭(15)使用計画は、一九三九年にも引き続いて行なわれている。しかし、虹口及び楊樹浦碼頭の使用は未だ実現されていない。

 バンド碼頭は十二分に使用されていて、租界の食料供給の分配を容易ならしめ、工部局の大きな収入源になっている。夜中の荷物運搬に伴う噪音についてバンド居住者から抗議があったので、年末には、一九四〇年一月一日以降午後十時より午前五時までの荷物の積卸を禁止した。しかし、特別緊急の場合で特別の許可を獲たるものはこの限りではない。

 昨年の年報で述べたように、バンド碼頭の使用は緊急手段で租界の為を思って行なわれたものであるから、平常状態に復帰(16)したならば、荷物の積卸しは従前使用された碼頭で行なわれることになる筈である。

「安全第一」週間

 大衆の関心を交通整理ということに向けさせるために、六月に「安全第一」週間を催したが、非常に成功であった。特別の委員会が作られて、交通整理運動の周到なプランを作った。工部局はこれに対して援助を与え、工部局関係各処も十二分に協力した。工部局は、また、街頭寄付金募集額だけを引き受けたが、五〇〇〇元を超過しなかった。

 この運動は新聞広告、新聞記事、ポスター等を利用し、また、公共事業会社、運輸会社、自家用車所有者、ハイヤー経営者、自転車店、人力車の親方も完全に之に協力した。徒歩者、学童、自転車乗り、人力車夫、一輪車手押車夫、手車夫はみんなこの運動に包含された。新聞の他に、掲示板、旗、放送も利用され、映画も非常に役立った。

 六月十八日から六月二十四日の間の「安全第一」週間では、先週と比較して、事故は二二%減少した。そして、六月中の事故数及び負傷者数は、一九三八年六月から一九三九年六月までの最低レコードであった。

薬局の許可

 工部局は、さきに、魔薬、毒薬の取締、薬局の営業許可制度を放棄したのであるが、再びこの制度を採用すべきか否かを考慮したが、結局、営業許可による取締は現在は実行不可能であるという結論に達した。その理由は、政治状態が混乱しており、且つ、財政状態が逼迫している今日、合理的な取締方策を実施するに必要な費用を賄うことが困難であるためである。

 この問題が考慮されていた時、華人薬業者及び華人西洋薬製造者団体の代表の建議があって、彼等は既に中国の法律その他政府の規則を遵守しており、裁判所の判決に服従しているのであるから、工部局がこれ以上取締をやることは余計なことであると述べた。

 この問題は大上海地区(17)全体を包含しており、従って、真に有効な取締を行うには関係各行政当局の協力を必要とすると考えられた。現在の上海及びその近郊の異常な状態が存続する限り、有効な協力は望まれない。有効な取締を妨げている別の重要な原因は、現在の状態では、魔薬、毒薬の上海及びその近郊への輸入を取締ることが困難であるということである。

 これらの事態に鑑み、工部局は、現在のところ取締方策を実施しても成功する見込のないこと、及び将来その取締をやるかどうかを考慮することは、もっと平常状態に復帰してからのことであると結論した。

月謝

 年末、工部局は、学校経営に要する支出の非常な増大のため、工部局経営の学校の月謝を上げねばならなかった。学務処の数字によれば、一九三八年と比較して一九四〇年には、外人学校の支出、収入がそれぞれ四三・七%及び一三%増加し、華人学校のそれは一九四〇年春学期から一五%引き上げることとした。月謝の引上げによる収入の増加は、一年で、約一〇〇、〇〇〇元になる筈である。

入園料

 工部局に対する報告によれば、ジェスフィールド公園の入場者は一九三八年以来二倍以上となり、その結果公園は非常に損傷されたとのことである。一日の入園者数四〇〇〇〇人に及び、非常に混み合うために窃盗者の発見が困難となり、樹木等の損傷が増加した。

 臨時入園料二十仙は変わらないが、各園共通のシーズン・チケットは三元に、ジェスフィールド公園以外の各園のシーズン・チケットは一元に値上げされた。各園共通のシーズン・チケットは一九三九年六月一日より値上げされ、同時に園内の取締を強化し、入園者が自発的に公園の規則を守るような教化運動が行なわれた。工部局の要求によって膠州公園への交通が改善された。その楽園により多くの入園者が惹かんがためである。

家賃

 家賃の著しい値上がりに関して、七月、八月、新聞は相当これを書き立てた。これは、主として、法幣の価値下落のためである。ポンドないしアメリカ・ドルで家賃の支払いを要求する家主に対しては抗議がなされた。

 旅華英僑公会(18)がこの問題を取り上げて工部局へ訴えてきたが、工部局は租界内の家賃を規制する権限のない旨を通達した。その後、総商会は家賃調整委員会を作って、紛争の調停を企てた。フランス租界当局及び工部局はこの方針に賛成の意見を述べておいた。

統計

 生計費、労働賃金、時間——一九三九年より工場監督部の発起により、中国統計協会に補助金を与えて、華人生計費、労働賃金、労働時間の統計を蒐集せしめている。従って、生計費の著しい変動の時機に、指数をミュニシバル・カセットに掲載できるのである。工業家及び商業団体は相当これを利用し、棒給、賃金を急激に上昇しつつある生計費に適応せしめる必要を感じるようになったのである。

 工部局では、また、外人生計費の調査に乗り出し、総指数及び主要国別指数を獲ようとした。この調査は、一ヶ月の収入一〇〇〇元以下の夫婦(扶養者のあるもの、及びないもの)にして、借家に居住する世帯の一年間の家族支出の記録をとることから始められた。年末までは、安定せる家族は規則正しく記録を続けている。この記録は質的に極めて優れたものがあるから、もし想像通りこの記録が一年を通じて継続されたならば、非常に確実な統計的結果が獲られるものと予想される。

労働争議の調停

 工場監督部は労働争議解決の調停に乗出し、相当の成績を挙げた。これは、労働者の賃金の損失、企業家の利益の損失、租界の購買力の損失を防止せんとする目的を以て、争議の初期解決を企画する重要機能であるといえる。

児童保護

 一九三八年十二月、工部局は児童保護股(19)という小さい係を設けた。その職能の一つは家庭に使用されている「妹仔」(20)ないし「婢女」の監督及び近親のない児童の世話である。しかしながら、なおこの他に幾多の児童及び若者で他人の世話になり、搾取されているものがある。街頭の多くの若い乞食は「乞食の親方」におさえられており、若い徒弟は、往々にして、完全に親方の言いなりになっており、紡績工場の少女は仲介人にしばられていて、仲介人が数年間も賃金をとっていることがある。また、少女が借金の抵当に醜業を強いられることもある。

 児童保護股の仕事は、先ず、注意を要する明瞭な事件の調整を援助することから定められた。例えば、街頭の迷子、棄児、被誘拐者、被搾取者等の警察事故、小規模工場の被傭人の如き、目的は「妹仔」を取り扱おうとする前に、本股の存在を租界の住民に知らしめ、理解せしめることにあるのである。

ミュニシパル・ガゼット

 納税者年次大会で問題となったミュニシパル・ガゼット(21)の印刷、配給問題は、財務委員会の特別小委員会に委託されたが、八月、小委員会の報告が出来上がった。小委員会の結論は、ミュニシパル・ガゼットの英文版、華文版の現在の印刷、配給組織は変更の必要なしというのであった。工部局はこの決定を採用した。

 一九三九年末、工部局は、租界の事項の報道をすこしも減じることにならぬという確信を以て、一九四〇年より週刊を月刊に改めた。

イギリス兵の記念碑

 一九三八年の年報においても言及した如く、一八六二—一八六五年の太平天国乱(22)で戦死ないし病死したイギリス兵の遺骨を南道のイギリス兵墓地から虹橋路墓地へ移す準備は完了し、工部局は新墓地に彼等を偲ぶに相応しい記念碑を建立した。イギリス海軍、陸軍、領事館員、工部局代表出席の下に記念碑の除幕式が挙行された。

難民救済資金

 自発的娯楽捐(23)は本年も徴収され、三五六、八四一・三三元の収入があった。この他に、昨年よりの繰越金五三、六四七・三四元及び米勘定の差引五三、八六四・四一元が加算されると、総計四四六、三五三・〇八元となり、これが種々の難民救済事業に使用し得る額である。

 上海外僑慈善団体連合委員会(24)は自発的娯楽捐の二〇%を下付願いたいと申し込んだので、娯楽捐から慈善事業に対する工部局各処の支出と緊急予備金を差引いた額を、華人側代表たる上海難民救済協会と、外人側代表たる上海外僑慈善団体連合委員会に八〇%と二〇%の割合で割り当てた。最初の十一ヶ月間の使用額は三八〇、八九六・七九元に上った。

寄柩所

 寄柩所(25)の問題は一九三九年の初めには相当紛争を巻き起こした。

 大西路、惇信路、安和寺路の住宅地にかかる建物を建築したいという許可願が相当多かったが、工部局はこれを拒絶した。以前に作られた安置所は拡張を禁止され、ある場所の如き許可なくして拡張したものは撤回を云い渡された。工部局は木履の棺柩の安置所は西部越界地区のみに制限し、結果は成功している。

人力車賃貸料

 一九三九年初、工部局は特別委員会を任命し、人力車所有者組合の公認営業人力車賃貸料値上げ願を調査せしめた。あらゆる関係事項を考慮に容れ、工部局は、委員会の勧告に従って、その値上げ願を却下した。この問題は年末に再び問題となった。

花まつり香市

 一九三八年と同様、工部局は花まつり市を静安寺附近で挙行することを禁止した。理由は、市の開かれる時の混乱する時に群衆が集まることを防ぐためにあった。この市は仏陀の生誕を祝福するために毎年開かれているものであるが、本年は、従って、ジェスフィールド路外れの個人の庭内で催された。

長期服務褒章

 工部局は、義勇団(26)及び警務処特務隊員の例に倣って、消防隊志願後備隊員に対し長期服務褒章を発給することを許可した。警察隊の場合と同様、二〇年間完全に勤続した消防隊の消防士及び消防夫に授与された。

領事裁判所

 年初、アメリカ総領事C・E・ガウス氏(所長)、イギリス総領事H・フィリップス氏及び日本総領事三浦義秋氏が一九三九年領事裁判所(27)裁判官に選ばれた。

 九月及び十一月に、規定違反によって免職された警察官前刑事が訴訟をおこした。裁判所は、免職処罰——この場合原告は退職金を得ることができない——を変更ないし軽減せしめるため、工部局対し再考慮を促した。工部局は裁判所の趣旨に添ってこの訴訟事件を解決した。

 もう一件は、義勇団ロシア人隊(28)の前隊員が十一月、十二月に職務遂行中の事故による損害賠償を要求した。年末までには判決は下されていない。

フェッセンデン氏の退職

 一九三九年六月三十日、工部局事務総長(29)フェッセンデン氏が工部局を退いた。フェッセンデン氏に対する慰労金は納税者大会(30)で支払われた。その記録は本年報の別のところに掲載されている。

フィリップス氏の任命

 数年間フェッセンデン氏の下に事務次長兼総務局長として働いてきたG・ゴッドフレー・フィリップス氏は、一九三九年七月一日、参事会によって、フェッセンデン氏の後を継いで、事務総長に任命された。

J・T・フォード氏の引退

 財務処々長J・T・フォード氏は、一九三九年六月十二日工部局をやめた。彼の勤労に対する退職金は納税者大会の際に支払われた。本年報の別のところに述べられている。

 財務処副処長J・W・モルチャ氏が、一九三九年六月十三日財務処々長に任命された。
 

ヤジ研注:

(1)日支事変 1937年7月の蘆溝橋事件以降の日中戦争。当時日本は宣戦布告をしていないので「戦争ではなくて事変」だとして、「支那事変」「日華事変」とも言う。上海でも翌月、日本軍の海軍陸戦隊が中国軍を攻撃して、11月までに租界以外の地域を占領。38年には南京に傀儡政権の「中華民国維新政府」を設立し、40年に汪兆銘政権を成立させた。
  大上海新地図(1937年)  黒い部分が戦闘により全焼、斜線の部分は半焼の被害地区

(2)ヨーロッパにおける戦争の勃発 1939年にナチス・ドイツのポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦のこと。

(3)法幣 当時の中国の法定通貨。中国では各地の地方政府や軍閥、銀行や両替商、商工会議所、商店などが紙幣を発行し、さらに外資系銀行や外国の通貨も加わって貨幣が混乱していたが、1935年に国民党政府は中央、中国、交通、中国農民銀行の発行した紙幣を法定通貨と定め、貨幣を統一した。しかしその後も北部では満州国の法定通貨だった満州中央銀行券や朝鮮銀行発行の日本円、南部では香港ドルや台湾銀行発行の日本円、内陸部の解放区では共産党発行の「辺幣」が流通し、日本軍占領地域では軍票が出回った。上海でも「中華民国維新政府」が38年に華興商業銀行を設立し、独自通貨を発行した。

(4)西部越界地区 共同租界の範囲を越えた西側で、西郊空港まで約10kmの「滬西」と呼ばれた地区。工部局が道路や水道などを建設し、沿道の住民から地代や水道代を徴収するとともに、警官を派遣して実効支配を行なっていた。共同租界やフランス租界は過去何度も範囲拡大を繰り返したが、先に道路を建設して実効支配の既成事実を作ってから、中国側に租界の拡張を認めさせる方法を採っていた。工部局は西部越界地区を共同租界へ編入することを狙っていたが、1925年の「五・三〇運動」で上海市民の中国ナショナリズムが高揚したため断念。「上海特別市政府の警察権の発動」とは、つまり日本軍が傀儡政権を使って「滬西」への支配を及ぼそうとした事件で、結局この地区は40年に汪兆銘政権が滬西特別警察局を設立して、工部局による支配は失われた。詳しくは 『延長道路地区』 を参照のこと

(5)蘇州クリーク北方地区 共同租界の中央を流れる蘇州河の北側地区。上海一帯で中国軍を攻撃した日本軍が37年末に占拠し、工部局の支配は事実上及ばなくなっていた。本文中にもあるように、ヨーロッパからのユダヤ人避難民が主に蘇州河北部に収容されたことは、興味深い。

(6)工部局 共同租界の行政機関。いわば「共同租界の市役所」のようなもの。

(7)虹口 共同租界の北部から「閘北」と呼ばれた租界外の範囲にかけて広がっていた日本人街。もともと「日本租界」と勝手に命名していたが、当時は日本軍が占拠し、工部局の支配から離れていた。

(8)楊樹浦 公共租界の東部一帯で、日系紡績工場が多かった地区。虹口とともに当時は日本軍が占拠していた。

(9)上海特別市政府 共同租界、フランス租界以外の区域を統治する中国側の上海市役所。37年末に日本軍が占領し、1938年に南京で「中華民国維新政府」が、40年に汪兆銘政権が成立すると上海市もその管轄下に置かれた。つまりここで言う「上海特別市政府」とは、日本軍と密接な関係にあった存在。

(10)巡補 警察官のこと。「華人巡補」は中国人警官。

(11)公董局 フランス租界の行政機関。いわば「フランス租界の市役所」のようなもの。

(12)領事団 上海に駐在する列強各国の総領事で構成。共同租界をめぐる中国政府との外交折衝を行うとともに、工部局を監督し、納税人年会(後述)を召集した。しかし共同租界はもともとイギリス租界だったこともあり、もっぱらイギリス総領事の意向が反映されていた。

(13)バンド 中国語で「外灘」。黄浦江沿いの地帯で、重要施設が立ち並ぶ上海の顔。

(14)ジョッフル路 中国名は「霞飛路」。フランス租界の中心街で、現在の准海中路。

(15)碼頭 より日本語風にいえば埠頭のこと。当時問題になっていたのは、港湾地帯である楊樹浦の埠頭が日本軍に占拠されて使えなくなり、中心街であるバンドの埠頭で荷揚げ作業を行うようにしたら、周辺の住民から騒音の苦情が来たということ。

(16)平常状態に復帰 日中戦争が解決して、日本軍が占拠している蘇州河北側の共同租界が再び工部局の完全な統治下に戻るということ。しかし結果的には共同租界は二度と「平常状態」には戻らなかった。41年12月の太平洋戦争勃発で、日本軍は共同租界全体に進駐し、43年8月には「日華親善の証し」として租界は中国側(汪兆銘政権)に返還され、消滅した。

(17)大上海地区 工部局が統治する共同租界、公董局が統治するフランス租界、上海特別市政府が統治する華界(租界以外の地区)を全部合わせたオール上海。例えば魔薬(麻薬)に関して、共同租界だけが取り締まりを強化しても、フランス租界で堂々と販売されていたら効果がないわけで、こういった課題は3つの行政機関が共同で対処すべし・・・というわけ。

(18)旅華英僑公会 より日本語風にすれば「中国在住イギリス人協会」。

(19)児童保護股 ・・・股とは中国の行政機関における下級部署の名称。もっと日本式にいえば「児童保護課」。

(20)妹仔 英語では「Mui Tsai」。もとは広東語で「女の子」の意味だが、実際には家庭などで住み込みで働く少女のこと。貧しい家から人身売買で売られたケースが多かった。

(21)ミュニシパル・ガゼット 市政公報。つまり「工部局からのお知らせ」。

(22)太平天国乱 「太平天国の乱」。1850年にキリスト教の影響を受けた新興宗教「拝上帝会」の教祖・洪秀全が「清朝打倒」の反乱を起こし、長江以南の広大な地域を占拠。南京を「天京」と改称して主都とし、太平天国を作った。しかし内部分裂や清朝の反撃で1864年に滅亡。列強諸国は当初、中立の立場を採っていたが、1860年に太平天国軍が上海を攻撃したために交戦。清朝にてこ入れする見返りに権益の拡大を実現した。中国共産党は太平天国の乱を「農民による戦争」だとして絶賛しているので、「イギリス兵の記念碑」はとっくに撤去されてるだろうが、その前に日本軍がブチ壊したかも知れないね。

(23)自発的娯楽捐 もっと日本語風にすれば「臨時娯楽税」。戦争により難民が大量流入したので、その対策費の財源として娯楽施設から臨時に徴収した特別税。

(24)上海外僑慈善団体連合委員会 「外僑」とは外国人居留民のこと。今風に言えば、上海在住外国人のNPO組織連合委員会。

(25)寄柩所 棺ごと遺体を一時安置するための中国の伝統的な施設。遠隔地から上海へ出稼ぎに来た者が死んだ場合、遺体をとりあえずここに安置しておき、故郷に送り返して埋葬するのだが、その間に「化け物として生き返ってしまった」という設定なのが、日本でも十数年前に映画で流行った「キョンシー」

(26)義勇団 共同租界の民兵組織。租界には列強各国の軍隊が駐屯していたが、工部局も独自の軍隊を持っていた。志願制で構成員は多国籍。中国語では「万国商団」で、もともと租界の外国商社が共同で傭った傭兵部隊という経緯をよく表している。

27)領事裁判所 共同租界内での外国人に関する裁判を担当。中国人に対する裁判権は条約で中国側が設置した裁判所が担当することになっていたが、1911年の辛亥革命のドサクサで工部局は中国側の裁判所を接収し、完全に司法権を掌握した。しかし中国のナショナリズムの昂揚に伴って、27年に中国人に関する裁判権を中国側へ返還。国民党政権は30年4月に中国側の裁判所として「上海特区第一地方法院」を設置した。

(28)義勇団ロシア人隊 義勇団には特にロシア人傭兵だけで構成される部隊があった。メンバーはロシア革命後、共産党の支配を嫌って亡命してきたいわゆる「白系ロシア人」で、上海ではフランス租界にもロシア人傭兵部隊があった。また工部局警察にはインド人警官、フランス租界警察には安南人(ベトナム人)警官が多かった。ちなみに現在、香港のレストランで定食を頼むと必ずといっていいほど「羅宋湯(ボルシチ)」が出てくるが、これはもともと白系ロシア人が上海で売り出し、戦後共産党支配を嫌った上海のレストランが香港に移って広まったもの。

(29)事務総長 工部局のトップ。いわば「共同租界の市長」みたいなもの。

(30)納税人大会 工部局の議決機関。共同租界に居住する外国人納税者が出席。年1回の納税人年会のほか必要に応じて特別会を開催。執行部である参事会のメンバーや、事務総長を選出し、予算・決算を承認する。
 
 

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