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児童保護股—「妹仔の保護者」(Protector of Mui Tsai)一九三七年二月、『妹仔(Mui Tsai)の保護者』(1)として、「婢女」即ち「妹仔」の問題を調査すべき責任を負わされた工場監督部主任の報告は、一九三八年十二月十六日工部局の採択するところとなった。
「奴隷問題委員会」(Slavery Committee)に提供するため、上海各国領事団(2)首席(The Senior-Cousul)から国際連盟秘書長に提出された同報告は、「婢女」即ち「妹仔」——近親の許を離れ、他人の拘束下に引渡され家事に従事する支那の少女——は、他人の手に引渡され家事に従事する少女の一つの型に過ぎないことを明示した。養女(adopted daughters)、童養女/息(3)(daughters-in-law-in-raising)及び阿媽(4)として働く多くの少女は、他人の世話に引渡され、家事に従事する別の型を代表するものであった。
しかし、同報告は更に進んで、近親の許を離れて他人の拘束下に引渡されたこれらの少女は、しばしば家事以外の仕事を強制されており、或るものは一定期間人質に出され私娼の生活を強制され、又或るものは一定期間仲介人の手に引渡されて紡績工場に入れられ、彼等の報酬を横取りされていると報告している。
「妹仔」ないし「婢女」と家事以外の仕事を強制されている少女との相違はただ次の点にある。即ち、「妹仔」として引渡される場合は、しばしば彼女が結婚するまで主婦の監督に服するのが慣習であるのに対し、私娼にされたり労働契約によって働く少女は、年頃になってから引渡される。私娼の場合、仲介人に対する契約期間は三年若しくはそれ以上である。労働契約によって働く少女の場合、その期間は普通三年以内であるが、その転譲期間は完全に仲介人の拘束に縛られているのである。
同報告は主として引渡された少女を問題としているが、その他少年もしばしば幼少にして他人の拘束下に引渡され、工場で「徒弟」(5)として働かされている事例をも指摘している。
上海の小規模工場に関する限り、これら少年労働力によって、かなり大きい部分の仕事が行なわれていることは事実である。これらの少年は長時間労働を強制され、工場内に住み込み、雇主から給食されているが、それは最低級の待遇であって、全然賃銀の支給を受けていないこともしばしばである。彼等の食事があまりにもひどい為に、しばしば栄養不良に陥っているものがある。
年季奉公の期限は一定していない。仮に両親があっても何らの連絡はなく、実際上の必要から完全に雇主の拘束に縛られ、所謂「引渡されて」いる。香港政庁の労工科主任で、一九三九年華人事務司司長代理をやっていたH・B・ハッター氏は、「香港の労働と労働条件」(一九三九年出版)なる書に、「少年の徒弟制度は少女の『婢女』と同様である」と述べて、この見解を確認している。
即ち、上海には現在幾千人の少年が人手に渡って、他人の思うままに働かされ、往々にして酷使されている事は明らかである。
かように錯綜した問題に直面して、単に引渡された少女即ち「婢女」という一つの型のみを採り上げて工部局に提示せんとする案は、片手落ちの感があったので、次の如く具申した。
児童保護股を設置しなければならぬ。「『妹仔』の保護者」(Protector of Mui Tsai)なる名称は、「児童保護股主任」(Chief of the Child Protectors)に変更しなければならぬ。
工部局はあらゆる方法を用いて人手に渡った児童に関する報告を集めなければならぬ。
児童保護の分野で活動している支那及び外国の諸団体と密接に協力しなければならぬ。支那事変によって、無数の児童が孤児となって路頭に迷った。そして、彼等は、既に人手にさらわれて酷使されているか、又はその危険にさらされている。一九三八年、三九年中に、工部局警察が児童保護股に引渡した多くの事件は、次に述べる様な典型的な事例を幾度繰り返した事だろう。「両親は戦争で死んだ、児童は近隣のものに伴われて行かれ何某かに売られた」と。又、他の事例は、二年以上も路頭で物乞いをして生活している少年少女について述べている。子供達は、多くの難民収容所があったにも拘わらず、悪どい「親方」の命令に従って、彼に「保護を受けている代償として」、毎日何がしかを支払うために物乞いをしているのであった。
従って、行政手段を講ずるべきや否やの問題は、人手に渡された児童や年頃の娘若しくは渡される危険のある児童や娘に関する問題を十分考察し、そして、親を失った寄る辺のない児童は、人手に渡るか若しくは他人の束縛下に酷使される危険があると言う事実を認識することが先決問題であった。
問題は「妹仔」即ち一群の児童に対して当局が保護を与え得るかどうかというのではなくて、現実に既に酷使されており、又は、その危険がある無数の児童が、如何にして保護され得るかと云う点にある。驚くべき重大な問題である。
市民との関係
家事に携わっている少女の問題についてこれ以上考慮する前に、保護股の仕事の意味を信頼してもらう為には市民の理解が必要であること勿論である。各国人を会員にもつ「上海組合教会」は同股の趣旨に賛同して、老練な一社会事業家の奉仕を工部局に申し出た。彼の俸給と費用とは教会で支弁し、主任の指揮に従って協力させるという条件であった。工部局はこの申し出を喜んで受けた。
事業の行政的計画
以上の如き事業は、全てを一時に実行し得ないことは明らかである。虐待児童は次の如き群に分類出来よう。
1 家事に従事するもの——「妹仔」即ち「婢女」、養女、童養女/息、阿媽。
2 乞食、親を失ったもの、家のないもの、棄てられたもの、誘拐されたもの等々。彼等のうちには警察の厄介になるものもある。
3 「享楽的」職業に従事するもの、「嚮導女」(6)、ダンサー(彼女らのうちには仲介人の拘束を受けているものもある)、娼妓等。
4 工場で働くもの、労働契約で縛られ紡績工場で働く少女及び小規模工場で賃銀も支給されず働かされている所謂徒弟(芸徒)と称せられている少年。一九三九年年初、児童保護股主任は、工部局事務総長に提出した覚書の中に、上記四群の中、第一群を除けば、他はすべてその内情を明らかにし得る旨を指摘した。即ち、会社に傭われている子供は工場に行けばわかるし、乞食や家のない子は路上に見出され、ダンサーはホールに行けばはっきりしている。しかし、家事に従事している第一群は、連絡ができず調査が困難である。
「妹仔」ないし「婢女」やこれと類似のその他の家事に携わっているものを強制的に届出させることができない以上、この問題を処理する場合、工部局としては自発的報告を待たねばならぬだろう。保護股としては、酷使されている児童で最初に保護を必要としていると思われるところに保護の手を差し伸べること、そして、これによって、まず第一に市民に対して保護股の存在を認識させ、この仕事に対する関心を植え付けることが賢明であろう。
従って、この報告の中で第一に強調した点は、人手に渡った子供を「妹仔」とは別な観点から見たことである。「妹仔」問題は、もっと強力な組織が出来たとき、始めて真剣に取り組むべき問題である。
警察事件
次に一九三九年に於ける保護股の仕事は、主として、同股が計画している仕事のうちで実際にやり得ると思われる仕事、及び同股の拡充を助けると思われる仕事の準備に終わった。同股は警察の厄介になったあらゆる事件、即ち上記第二群に属する乞食、親をなくしたもの、家なきもの、誘拐されたもの、棄てられたものに関するすべての事件を取り扱った。
同股が出来るまでは、環境の犠牲になった子供は警察に連れて行かれて裁判所の「処分」を受けた。裁判所は、従来の慣例によって、その子供を、二つの機関の中の一つに入れる以外は途がなかった。当局は子供のその後の生活については何ら関心をもたなかった。
一九三九年一月から、事務総長の同意と警視総監の協力とによって、年若き犠牲者の取扱を従来のより形式的法律的な手続きに代えて、社会的な手続きによることとした。一般的に云っても、市民に何の縁もなく路頭に放り出された子供がどういう風になるかと云ふことを考える時、子供の処置には、法律の防衛的な機能よりも、純粋な行政処分の方がより望ましいものであろう。そして、上海では、当分の間は、特に裁判所の事務が輻輳している(7)ために、事件の思いやりある取扱の機会を与える行政手段を用いる方が賢明と思われたのであろう。
成人に対する刑事事件の証人ではない限り、環境の犠牲となっているこれらの子供は、もはや裁判所に連れて行かれることはない。犠牲となっている子供を裁判所に連れて来る必要がある時は、保護股の代表者が出席して、工部局の顧問弁護士を通じて、子供に最も適当な解決策を忠告するのである。
今では、すべての警察署は保護股で設備してある「収容所」(Receiving Home)に、少年、少女を別々に収容する。そして、毎朝、本股の華籍(8)の婦人社会事業家が、各「収容所」を訪ねて色々と試問して適当な解説策を講じてやる。職を求めて上海にやって来たがうまく行かなかった年頃の娘を、ただ、機械的に「収容所」に収容して一般社会の負担を増やすようなことは今では、なくなった。出来れば彼女には職業を探してやり、又親類があればその住所を知らしてやる。又、右の施設に収容する場合は、子供はまずその健康状態を調べられ、出来れば、そして又必要があれば、予め入院させて治療も受けさせる。法定の結婚年齢に達し適当な男との結婚を承諾してくれないために主婦の下を去った「妹仔」には、結婚のために色々と援助してやる。主婦は女中に対して全権を持っているという考え方は否定された。
一年の成果を見ると、形式的な法一点張りの処置よりも、社会的な解決策の方が遥かに効果的であった。付録一は、取扱った七百三十件及び、それぞれの解決策を分類して一表にまとめたものである。
子供の乞食
日常の警察事件の処置の外に、六才から十四才までの子供乞食を街頭より収容するために特別の努力が払われた。事変以来、彼等の一部には設備まで供給して保護と教育にあらゆる努力を払ってきた保護股は、子供の乞食の世話に乗り出した。
そこで八月、本股は、二箇所の警察署に依頼して、彼等に適当な道を講じてやるために、街頭で物乞いをしたり、又は自動車を「物色」している子供を逮捕して本股に引渡してもらった。それは百二十六人に達したが、彼等の多くは、戦争で孤児となったものであった。徐々にではあっても、かような乞食の多くが、本股の手を通ることが望ましい。
今まで調べた多くの事例のうちには、しばしば親戚か友達が田舎に居ることがわかるものがあって、非常に元気付けられている。これらの乞食は、彼等によりよい生活の機会を与えるように努力してやらなければ、犯罪者となる危険が多分にあるのである。
児童保護施設
事変の結果、多くの難民児童を収容する必要から、いくつかの「臨時収容所」若しくはより恒久的な施設が設けられた。更に上海児童専門病院(Spesialized childrens Hospital in Shanghai)は目下設立中であり、児童臨時病院は事変中設立された。両親が肺病を患っている子供を収容する最初の特別病院が設立され、そこでは、肺病の子供の外に成人も療養の機会を持ち得るのである。未だ簡単なものであっても、これらの施設や治療によって、上海が以前より幾分かはよりよくなったことは事実である。これらは真に社会的な意義を持つものであり、特に、子供に対するより大きな責任の意義を示すものとして注目に値する。
保護股が子供を寄託した機関の中、工部局が補助しているものは次の如くである。
一般経費により支出した一九三九年の補助金
済良所及び難民児童収容所(the Door of Hope and Childrens, Refugee)・・・・・・五〇〇〇元
婦孺救済会(The Association for the Relief of Women and Children)・・・・・・一五〇〇〇元
慈幼協会(The National Child Welfare Association)更に右の施設に収容する前に子供の治療に当った。左の病院にも補助金が給与された。即ち、
仁済医院(Lerter Chinese Hospital)
赤十字病院(Red Cross Hospital)
同仁医院(St. Lukes Hospital)
広慈医院(Mercy Hospital)応急費より——婦孺救済会は、応急費より直接五〇〇〇元の追加補助を受けた。同会及び協会は、上海難民救済協会(The Shanghai Refugee Relief Association)から一人当たり適当な額の給与を受けた。そして、右協会の基金に、工部局は一九三九年九月までに、十万元の援助をしてきている。
収容後の子供の福利
保護股から寄記された子供については、一九三九年一月からおのおのの機関からの月々の報告を求めた。社会事業家もまた、これら諸機関と密接な連携を保ち、収容された子供に関する事例をあくまで追求した。かくてそれ以外に救済の道のない子供に対しては、各機関の中に於ても、更に出でては一般社会に於ても、絶えず彼等に対する関心が深まった。かように常に登極から保護を受けると云うことはかつてないことであった。
ある場合には、悪い奴がないこともなかった。警察で、街や、望ましくない環境から子供を連れて来て、適当な方策を講じてやり、最も適当な設備に収容してやっても、逃亡を企てたとの報告をうけたことも一再でなかった。
更には収容者を有用に訓練する為に必要な諸施設の便宜が未だ不充分であるために、数年間、公の費用によって訓練を受けた多くの青年が一定年齢に達し出所しなくてはならなくなった時でも、社会で彼等に適当な場所を見つけることは不可能であった。三四七人の幼女を収容しているある収容所では、四才から七才までが大部分であったが、二〇七人は無学文盲であった。
実生活への適合——出所
以前、補助金を受けている収容所に収容されていて、そこから就職した幾人かの少年の事例が研究されている。それらの子供がこれから入る環境については、真面目に調査されていない場合が多く、雇傭条件についても雇主と何らの了解がないことが明らかとなった。収容所のボーイの口利きで、彼の友達の小工場に入ったものも幾人かあった。大部分は、出世の見込みもなく、期間も定めずに「徒弟」として、粗末な食事と住居を供される以外、別に給料も支給されずに小規模繊維工場で働いていた。ある工場主は率直に子供は収容所から「買って来たのだ」とうそぶいていた。
収容所が正確に住所によって記録しておいた四十五件のうち十五件、即ち三分の一は新しい職場から逃亡した。そのうち幾人かは、彼等がかつて仏租界当局によって収容されていた乞食小屋の方へ乞食となって舞い戻っていた。かくして同じことが繰り返されていた。始め工部局警察からある収容所に入れられ、それから、そこを出て不適当な職場に入ると、そこを逃げ出し再び街頭に生活することとなる。
以上の研究で明らかなことは、何かよりよい就職の方法及びその後の監督が必要なことである。これらの若い子供に特殊な性格を求めようとしても望めない。しかし、彼等の就職に就いては、工部局の社会事業係員が、就職に関係のあるすべての人々と協議の上で、雇傭条件を定める確定契約に署名を得た場合にのみ、彼等を職場につけてやるように世話することが望ましいと思う。かくして子供はまた、十分当局に親しみを持つようになるであろうが、子供に対しては、自分は何ら寄辺のない主人の命のままに動かねばならぬ淋しい浮浪者ではない、と云うことをよく含み込ませねばならぬ。
従って、童工雇傭契約(Young Workers Employment Contract)に準拠する場合、四通の写しに署名するようになった。即ち、一は児童保護股、一は収容所、他の二は雇主及びその当の少年がおのおの持つのである。その契約は雇主と少年に責任を負わせるものであって、若し契約の条件が充たされない場合は、当事者の一方から訴え出れるように、保護股の名称と場所が記載されている。
童工の福利
収容所から就職した童工ばかりでなく、既に就職している童工に就いても、保護股は関心を持っている。
童工が雇傭される場合、常に適用されるべく予定されている「童工雇傭契約」の適用に就いて、試験的な試みが企てられた。最初の努力は小型電球工場でなされている。そこでは多くの童工が電球を作り、フィラメントを付ける精密な作業をしている。戦後上海にはこれらの小工場が三十三もあり、十八才以下の少年工が千五百人も働いている。経営者側にとっては、それは食住(これは保護股の認定するところであるが)の外に協定賃銀を支払うべき明確な責任を負わされたことを意味するものであり、同時にまた、商売がうまく行かない場合でも、その子供に適当な生活の道がなければ、彼を引き続いて傭っていく責任を負わせることを目的とするものである。一方子供の方も次第に当局が彼等の福祉に関心を持っていることを知る様になる。労働時間も決定されている。
この試験的な企ては、その趣旨を雇主と協議して了承させさえすれば、他の工業部門にもおし拡められるだろう。勿論幾千の少年労働者が働いているが、これによって有効な方法が見出されるであろう。
包工制度
「婢女」即ち「妹仔」に関する工部局への最初の報告が指摘しているように、無数の年頃の少女が請負人(9)の束縛の下で「引渡され」て、彼女らが紡績工場で稼ぐ所得をすべて請負人に搾られている。
かような生活は年少な娘にとっては決して容易なものではない。それは単に、昼夜を分たず、普通十一時間半から十二時間の労働を強いられると云うばかりでなく、あまり苛酷すぎて請負人が少女工を虐待したかどによって工部局警察から訴えられるほどに酷使されている点に鑑みても、それは明らかである。
例えば二つの病院から栄養不良と肺病にかかっている旨の診察を受けた娘が、その健康状態では不休の作業にはこれ以上耐え得ない為に逃げて出し自宅に帰ろうと企てた。彼女の請負人はこれを追いかけ、碼頭で追い着き、無理矢理に引き戻そうとしたが彼女はこれを拒み、ゴタゴタしている時に事件が警察に持ち出された。その結果、件の男は中国刑法第二編第百二十八条によって、「一九三八年十月から一九三九年七月迄に至る間しばしば某紡績工場に於て、利益を得んが為に、朱梅英(訳音)(10)なるものを虐待した」と言うかどにより処罰せられた。
或る大規模工場に於て、三つの型の女工、即ち(1)通勤の女工で自由に工場に出入りするもの、(2)会社の寄宿舎に住んでいるもの、(3)請負人の拘束下にあるもの、の何れが会社にとって比較的有益であるかを研究することは興味あることであることが分かった。保護股では三つの型の女工の能率を研究するよう会社に勧告した。
注意を喚起した会社側では、請負人の数及び各請負人が抱え養っている女工の数を二つながら制限した。また請負人の抱えているそれらの女工には、よい食事を比較的やすく賄える工場の食堂で食事を給与し、それを請負人が負担するよう主張する等の方法によって、既にかなり活動の余地を制限して来た。総支配人は、「自由」女工の場合は規則正しく出勤する様に責任を持ってくれるものがなくて困るが、請負制度は女工を熱のない怠惰なものにしてしまうと云う意味でよくないと認めると申し出ている。また、この工場の請負人も、包工制度の生命が大して永くないことを認めると云っている。
本股としては、工場の経営者側の利益からしても終極には、包工制度は消滅するだろうとの見解を採っている。
少年審判所
一九三六年五月九日、司法院(The Minisktry of the Judicial Administration of the Government of China)は、江蘇高等法院第二分院長及び検察長(The President and Chief Procuvator of the Kiangsu High Court, The Second Branch)に一書を呈した。その中には起訴された少年犯罪事件の取扱に関する十五ヶ条の規定が付加されていた。少年犯罪事件の取扱に就いて政府から要求されていた特別の手続きは、事務輻輳のためもあって上海では実施されていなかった。
一九三九年二月、児童保護股主任は、事務総長の同意を得て、少年に対して、特別の手続きをとることが、警察の立場から可能なりや否やに就いて警視総監の意向を訊ねた。彼の返答は我々の意を強くするようなものであったが、なお、研究した上でとのことであった。工部局顧問弁護士は警察当局が欲するならば望むところだと同意した。
裁判所長は非常な関心を以てこの提案を受け入れ、特別手続が採用できるように裁判所の事務を整理する必要がある旨を述べた。警視総監の最終決定は、少年犯罪に対する特別手続の採用に就いては原則的に同意を表したが、しかし次の如く付け加えた。即ち、「この計画は全く実際的と思われるが、これが実施は、裁判所や警察がもっと平常な形で活動出来る時期迄待ってもらいたいと云うのが警察部の上級職員一同の異口同音の意見であった」
かくして、この手続の採用はもっと適当な時期を待つこととなったが、警務処及び工部局顧問弁護士は、保護係に対して少年犯罪のすべての事件に関する詳細な資料を供給して来た。これらを一表にまとめて見た結果、少年犯罪者に関する問題の範囲及び本質について、より完全な理解が可能となった。
二十才以下の少年犯罪は平均して一ヶ月に三百八十三件であって、このうち二百六十七件は中国刑法の警察犯処罰法(Penalties of Police Offices)に基き罰せられており、他の百六十件は工部局の附則(11)(The Municipal By Laws)によって処罰されている。
職員
一九三九年中、二人の優秀な華人婦人の社会事業家が保護股職員に任命され、常勤三名となった。第四人目の社会事業家は組合教会(Toe Community Church)から奉仕活動を申し出たものである。
職員の仕事の分担
本報告の初めのところで述べたような三分野の仕事を開拓するために、仕事の分担を次の如くした。
一、捨てられ、誘拐され、虐待され、又は搾取されている少年少女で警察の厄介になったものの事件を取扱うもの。
二、ダンサー及び私娼を研究し、これらの問題を取扱うもの。
三、少年乞食及び少年犯罪事件を取扱うもの。
四、年少労働者を監督する為に、保護施設を改善すべしとなす見地に立って、彼らの状態を研究するもの。
しかし、これらの分野に於いては、僅かに調査の一歩を踏み出したに過ぎなかった。本報告でも説明したように、最初、国際連盟によって「妹仔」の問題が採り上げられたが、保護股は先ず他の方面に着眼し、その後に「妹仔」の研究を行う予定である。附録一
一九三九年度児童保護股の取扱った事件の分析
一、事件総数 七三〇
内訳 新事件 六七七
再調事件 五三二、新事件の分析
(イ)分類
(1)迷子 一五五
(2)乞食 一二六
内訳 乞食 九一
自動車番乞食 二七
乞食の母に伴われている幼児 八
(3)誘拐されたもの 八一
(4)私娼 七六
(5)妹仔 六一
(6)無宿者 六〇
(7)棄てられたもの 四七
(8)虐待sれたるもの 三七
(9)窃盗 一一
(10)強奪 六
(11)ダンサー 六
(12)脱走者 三
(13)精神錯乱 三
(14)阿片吸引者 二
(15)インチキな機関から脱走せるもの 二
(16)請負労働に服するもの 一
合計 六七七(ロ)年齢
0—5才 八一
6—10才 一五六
11—15才 二四八
16—20才 一六〇
20以上 三二
合計 六七七(ハ)性別
未婚男子 二二五
未婚女子 四二一
既婚女子 三一
合計 六七七(ニ)寄託
(1)十三ヶ所の警察署より 六二三
(2)その他 個人から 三〇
病院から 一五
機関から 九
合計 六七七(ホ)救済
収容 四六六
親戚及び両親の許へ 一六七
養家へ 五
脱走・死亡その他 一五
未救済 一一
処置未了 一三
合計 六七七
ヤジ研注:
(1)『妹仔(Mui Tsai)の保護者』 妹仔(Mui Tsai)とはもともと広東語で、住み込みで家事手伝いをさせるために売られてきた少女のこと。「妹仔の保護者」というのは直訳風だが、そういう少女たちを保護するための公的機関の名称で、イギリス統治下の香港では「保良局」という機関が設置されている。上海の共同租界でも妹仔を保護する機関を作ろうとしたが、国連への報告書で「妹仔のみならず、乞食や見習工をさせられてる少年の保護も必要」ということになって、結局「児童保護股」という機関を設置したというのが、この章のあらすじ。
(2)上海各国領事団 上海に駐在する列強各国の総領事で構成。共同租界をめぐる中国政府との外交折衝を行うとともに、工部局を監督し、納税人年会を召集した。しかし共同租界はもともとイギリス租界だったこともあり、もっぱらイギリス総領事の意向が反映されていた。
(3)童養女/息 最後の字は「女ヘンに息」。息子が生まれた家が少女を買って来て子守りをさせ、息子が大きくなったらそのまま嫁にしてしまうという中国古来の習慣。戦後、共産党政権になると「女性解放」ということで、こういう風習は禁止。1985年に『トンヤンシー 夫は六歳』という中国映画が作られて日本でも上映された。
(4)阿媽 住み込みのお手伝いさんのこと。これももともと広東語で「アマ」と言う。かつては農村の貧しい少女が阿媽として売られたが、現在の香港ではほとんどがフィリピン人アマ。日本人駐在員の間では「アマさん」と呼ばれている。一方で北京語では阿姨(アイ)で、北京や上海などの日本人駐在員の間では「アイさん」と呼ばれている。タイの日本人駐在員はお手伝いさんを「アヤさん」と呼んでいるが、これはひょっとして潮州語から来たタイ語?
(5)徒弟 住み込みの見習工
(6)嚮導女 エスコート・ガール。現在の香港では「伴遊女郎」、中国本土では「三陪小姐」。
(7)裁判所の事務が輻輳している 共同租界ではもともと外国人がらみの犯罪は治外法権により領事裁判所が担当し、中国人に対する裁判権は条約で中国側が設置した裁判所が担当することになっていた。しかし、1911年の辛亥革命のドサクサで工部局は中国側の裁判所を接収し、完全に司法権を掌握した。その後中国のナショナリズムの昂揚に伴って、27年に中国人に関する裁判権を中国側へ返還したので、租界内は外国人による裁判所と中国の裁判所の双方が管轄するようになった。この時期は日本軍が租界の周囲を占領し、中国側の裁判所も傀儡政権の裁判所となったので、日本軍の後押しを受けた中国側の裁判所が租界への司法権限を拡大しようとしてゴタゴタしていたらしい。
(8)華籍 この場合は、中国人のこと
(9)請負人 手配師のこと。工場から女工確保を請け負って少女を集めて働かせ、日頃の働き振りも監督し、給料をピンはねしていた。日本でも明治時代の「女工哀史」の時代には同じようなシステムだった。
(10)訳音 原文の『工部局年報』は英語なので、中国人の名前はローマ字で書かれていたが、満鉄調査部が日本語に訳したとき「たぶんこういう漢字だろう」と適当に充てたということ。香港の裁判関係の書類は今でも英語中心なので、香港の新聞を見ていると裁判関係の記事では被告や原告の名前が「訳音」になっていることがしばしば。
(11)工部局附則 共同租界が独自に制定した条例。租界では中国の法律と工部局附則の両方が適用された。
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