| 相模原市 | | | 町田市 |
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相原氏(粟飯原氏/藍原氏) |
町田街道を境川に沿って津久井郡城山町方向に進みます。
城山町が近くなった地点にあるバス停『開都』で左折、境川を渡った右手に相原八幡宮があります。
『相原起番地之碑』は、相原八幡宮の境内入り口付近に!
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| | | | 相原八幡宮 | | 相原一番地の碑
| 八王子市横山に根をおろした横山氏。
平安末期、横山時重が粟飯原一を名乗り、この地に住みついたとのこと。
相原も横山党の地だったのですね。
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| | | | 殿丸城(藍原孝遠の居館) | | 藍原二郎の居館 |
上の2枚の画像は、八王子片倉から町田市相原町を抜けるかつての
鎌倉街道
上で撮影しました。
国道16号線も通る御殿峠は、藍原氏の館があったから『御殿峠』と呼ばれるようになったとか。
しかし、実は場所がよく分からなくて、見当をつけて撮ったものです。
町田市の市役所で聞いたことろ、藍原氏の居館跡がこの地にあったかどうかは
よく分からないとのことでした。 |
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小山氏 |
境川を挟んで北側が町田市小山町、南側が相模原市宮下本町。
ここはかつて、横山党の小山有高が住み着いた所で、現在の町田市小山ヶ丘に居館がありました。
小山氏も他の横山党と同じく、和田合戦で滅亡しました。
居館があった場所は、福生寺の裏の尾根付近だということが、調査の結果、はっきりしたそうです。
今は、宅地造成されて、何も残っていません。
それにしてもこんな高いところ。水は境川から運んでいたのでしょうか。
相模原市小山は飛び地になっています。
かつては相模原市宮下本町も宮下も広大な小山氏の所領だったと思われます。
| | | | ブルーの部分が町田市小山町
白い部分が相模原市宮下本町
[町田市配布町田市全図より] |
| | 京王線多摩境駅近く福生寺の北側の尾根に
小山有高の居城、小山城があったという。
今は宅地造成されて一部原野が残っています。 |
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小山田荘の地名の由来(推測) |
町田市と相模原にまたがる『小山』という地名の接して、『小山田』があります。
私は、『小山田』は、『小山氏』の田があったところから、この名前がついたのではないかと思います。
しかし、小山田緑地は高台にあるので、普通なら水が豊富な境川の流域に田を開くと思われます。
ということで、小山田緑地に行ってみたところ、意外なほど水が豊富なところでした。
平安時代には、どうだったか?
でも、きっと『小山』と『小山田』が隣合っているのは、偶然ではないと思いました。
平安時代から鎌倉時代に、ここに住み着いた御家人が『小山田有重』を名乗ったということだと推測しています。
『小山有高』『小山田有重』という領主の名前の類似も、偶然とは思えません。
境川流域からは、少し離れていますが、ここにアップロードしておきます。
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| | | | 土地を削って運動場が作ってありました。 | | 自然林が残っています。
| | | | 水の豊富な小山田緑地 |
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矢部氏(野部氏) |
| | 矢部氏居館土塁跡は、
横浜線矢部駅北口から真っ直ぐ境川方向に進んで
右側、上矢部5丁目−1にあります。
左の地図では、下から上にバス道を歩きます。
(この地図は上が北北東です。)
左の地図の説明:
上の白い部分
御嶽神社
上矢部5-1の緑の線
薬師堂 | :
:
:
: | 町田市常盤町
矢部氏居館裏鬼門
矢部氏居館土塁跡
矢部氏居館鬼門 |
| [相模原市配布さがみはらマップより
矢部良兼は横山党の一族で1213年5月
和田合戦に参加して、他の横山党の武士と共に
討ち死にしたそうです。 |
| | | | | | 薬師堂(05/10/9撮影)
矢部氏居館鬼門跡
| | 矢部氏居館土塁跡(上矢部5丁目1) | | | | 水汲み街道(05/10/9撮影)
| | 御嶽神社(06/ 1/15撮影)上矢部2-23-1
矢部氏居館裏鬼門跡
| 矢部駅北口を境川に向かってあるいていくと、『薬師堂』というバス停があります。
薬師堂は、バス道より1本右側にあります。思ったより大きな建物でした。
ここは、矢部義兼の館の鬼門にあたる場所だそうです。
この薬師堂の前の道は、矢部新田を開拓した人たちが水を汲みに行った、
『水汲み街道』と呼ばれていました。現在は『上矢部街道』とも呼ばれています。
この水汲み街道を境川の方向へ下り、左に回る感じで進むと
かつて矢部氏居館裏鬼門にあたる右手に御嶽神社があります。御嶽神社の裏は、もう境川です。
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| | | | 板碑の鞘堂(05/10/9撮影)
実物はかなり小さいお堂です。
| | 板碑(05/10/9撮影)
| 相模原市重要文化財である『板碑』は、矢部駅北口から境川に向かう道の左側、
道から少し離れたところにあります。
矢部義兼は、横山一族だった藍原孝遠の三男で野部三郎と言いました。
和田合戦で亡くなったことを悼み、没後90年たった乾元二年(1303)に
遺族等によって建てられたのが、この板碑だと伝承されているそうです。
板碑は、今は鞘堂の中。鍵がかっています。
阿弥陀如来像が、かすかに見えますね。 |
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