このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

鉄条網で囲まれたアフリカの中のヨーロッパ

セウタ

スペイン領

 
1415年 ポルトガルが占領
1580年 スペインがポルトガルを併合
1668年 ポルトガル独立条約でスペインのセウタ領有が確定
1912年 フランスとスペインがモロッコを分割。セウタ周辺のモロッコ北部はスペイン保護領になる
1956年 モロッコが独立。しかしセウタはスペイン領の飛び地として残留

20世紀前半のモロッコの地図  黄色はスペイン領、赤はタンジール国際管理地域
セウタの地図  (ポーランド語)
セウタの衛星写真  (google maps)

 

ジブラルダル海峡を挟んだモロッコの北岸にスペイン領の小さな飛び地の町が2つある。1つはセウタ、もう1つはメリリャ。そのうちセウタは面積19平方kmで、人口は約7万5000人。スペイン本土とフェリーで結ばれ、北アフリカの玄関口として、また関税が安いショッピングの町として世界中から観光客を集めている(※)。

※セウタとメリリャはスペインがEC(ヨーロッパ共同体)に加盟した1986年までは関税がかからない自由貿易港だった。現在では関税が安い特別地域に指定されている。
セウタは地中海の出口を制する要衝だから、対岸のジブラルタルとともに古代フェニキア人に始まって、ローマ人、ビサンティン帝国、ベルベル人、アラブ人などが砦と港を築いて支配してきた。大航海時代に世界の海を制覇したポルトガルも、その手始めに占領したのはセウタだった。

14世紀末のポルトガルはカスティラ(後のスペイン)との戦争や民衆の反乱などで混乱が続いていた。こういう時は対外侵略を行って、国内の不満を外に向けさせようとするのは古今東西を問わず為政者の常套手段。そこで当時イベリア半島の南端に残っていたイスラム教徒のグラナダ王国を攻めようとしたが、カスティラが猛反発したため断念。目標を海向こうのモロッコに定め、1415年にセウタを攻撃した。

セウタ攻略は思いのほか簡単に成功し、味をしめたポルトガルはエンリケ航海王子の指揮のもと、タンジール、マサガン(現エル・ジャディダ)、サフィン(現サフィ)、サンタ・クルス・ド・カポ・デ・ケ(現アガディル)などモロッコの沿岸を次々と占領していった。ポルトガルがモロッコ征服に熱中したのは砂糖キビを入手することと、サハラ砂漠の南に大きな金脈があると信じていたから。しかし16世紀半ばになるとポルトガルの関心はアジアやアフリカ、ブラジルへ移り、手が回らなくなったモロッコはセウタなど数ヵ所の拠点を残して放棄されていった。

そして1580年、全盛期にあったポルトガルは突然スペインに併合されてしまう。ポルトガル最後の王となったセバスチャン王はわずか3歳で即位し、14歳になった1568年から親政を行った。幼い王は世界各地に伸びていた商船隊と要塞のネットワークを維持し発展させることよりも、再びモロッコを征服してキリスト教を北アフリカへ拡大する夢に没頭した。そして78年、モロッコ宮廷の内紛に介入して出兵したが、ポルトガル軍は壊滅的な敗北を喫してセバスチャン王はあえなく戦死してしまう。王の後継者には何人かの候補者が挙がったが、2年後にポルトガル王家の血筋を引くスペイン国王のフェリペ2世がポルトガル国王を兼任することになった。モロッコ出兵で軍の精鋭が壊滅したうえに多額の財政損失を蒙ったポルトガルは、スペインの軍事力と経済援助に頼らざるを得なくなったためだった。

やがてポルトガルではスペインの支配に対する反発が高まり、1640年にジョアン4世がポルトガル国王への即位を発表して独立を宣言する。ポルトガル本国と各植民地はジョアン4世の即位を支持したが、セウタはポルトガルの独立に反対してスペイン王室への忠誠を表明した。こうして68年にスペインがポルトガルの独立を承認して条約が結ばれた際、旧ポルトガル植民地のうちセウタだけがスペインに引き継がれることになった。

さて20世紀に入ってフランスがモロッコを植民地化すると、スペインもこれに乗じて支配地を拡大。国際管理都市となった タンジール を除くモロッコ北岸を北部保護領、スペイン領サハラに隣接した部分を南部保護領として確保し、モロッコ中部の大西洋岸のイフニも領有した。

そして、1956年にモロッコがフランスから独立するとスペインも北部保護領を返還し、58年には南部保護領を、69年にはイフニを返還したが、セウタとメリリャについては「歴史的にスペイン固有の領土だ」としてモロッコの返還要求を拒否し続けている。確かに現在のモロッコ王国に続くアラウィー朝が成立したのは17世紀半ばで、それ以前からセウタはスペインが領有しているのだが・・・。

しかしスペインにとってセウタやメリリャの維持は重荷でもある。たいした産業がない小さな飛び地では労働者の4割近くが政府関連で働き、人口の1割に相当するスペイン軍の駐留が経済を支え、さらにスペイン政府から多額の補助金が支給されている。2つの町の豊かさは、スペイン政府からの支出によって成り立っているのだ。

また1990年代になるとアフリカ各地からモロッコ経由でセウタに密入国しようとする者が激増し、その数は96年から99年にかけて年間30万人にも及んだ。EUが誕生しシュンゲン条約によってヨーロッパ各国の移動が自由化されると、スペインの一角であるセウタに潜り込めばフランスでもドイツでも働けるだろう・・・というのがアフリカ人たちの狙いだ。

大量の密入国者にセウタはネをあげて、2000年3月にはEUからの補助で、 中立地帯 を挟んだモロッコとの国境線8kmに高さ3・1mの二重の鉄条網が完成した(※)。夜中でも何者かが近づけばセンサーが体温を感知して警報を鳴らすという仕組み。しかし陸上での警戒が厳しくなってもボートに乗ったり、泳いでセウタにやって来る密航者が増えるだけのこと。

※モロッコ政府は鉄条網建設に「わが国の領土(セウタのこと)を勝手に分断するものだ」と抗議したが、それはあくまで建前。セウタから流れ込む密輸が減って本音では喜んでいる。
捕まえた密入国者も、モロッコ人ならすぐモロッコへ強制送還すれば済むが、アフリカの遠い国からだと送還費用がかさむし、なかにはスペインと国交がない国もあって、送還しようにも送還できず、長期間の拘留で待遇が悪いと人権団体からは批判を受けるはめに。

水は高いところから低いところへ、人は貧しいところから豊かなところへ流れるのは当たり前のこと。香港やマカオでも同じような現象で深刻な問題になっていたが、アフリカにヨーロッパの飛び地があったら、こうなるのも宿命ですね。


★セウタの飛び地:Perejil 島

セウタとperejil島の地図  

セウタの西3knほどの場所にある島で面積15ヘクタール。ふだんは無人島だが、2002年7月に密航船を監視するためモロッコが警備兵を上陸させたら、怒ったスペインの警備兵がヘリコプターで急襲して国際紛争となりました。

 1891年の地図

●関連リンク

DEER MOROCCO モロッコに関する総合サイト。BBSとかもあります
第18回セウタ セウタの旅行記
ヨーロッパ行きを夢見るモロッコ人たち  
セウタ〜泥水まみれの越境の巻 モロッコからセウタへの密入境の目撃ルポ
SOSトーチャー
Ceuta - Spanish Exclave in North Africa  セャEタの写真がたくさんあります(英語)
Ceuta. Spain looking at Europe セウタの総合観光案内です(英語)
Freedom for Perejil!   Perejil島の独立を主張するサイト。たぶんギャグでしょうね・・・
 

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