このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 
 

国際管理地域
 
  上海共同租界   コロンス共同地界   仁川各国租界   神戸・大阪の外国人居留地
  タンジール   メーメル   ウィーン市1区  

国際管理地域は、貿易拠点を奪い合っていた複数の国が、主権はもとの国に残しながら、共同で委員会などを作って行政を運営する一角で、当初は主権国の側が外国人を指定地域に隔離するために設定していましたが、19世紀末以降は列強の側から主権国に設置を迫るようになりました。

また世界大戦などで敗戦国が戦勝国(連合国)の共同管理下に置かれることがあります。これは戦争に伴うあくまで一時的な占領(例えばGHQ統治下の日本)ですが、講和条約が結ばれて敗戦国が独立国としての主権を回復した後も、最終的な帰属をめぐって決着していない一部の地域が、引き続き連合国の国際管理下に置かれ続けることもあります。

なお、ダンチヒやザール、ボスボラス海峡、トリエステなど、世界大戦後に国連の管理下に置かれた地域は、 こちら を参照してください。




【過去形】上海共同租界 (まだ準備中です)

上海市街図(1933年)
最新上海市街地図(1940年)  PDFファイル
上海共同租界工部局年報(1939年版)  共同租界の政府報告書。納税人年会(議会)の様子がいかにもという感じです。当HPの姉妹サイト

●まだ準備中です


上海共同租界の旗。租界の行政運営を監督する領事団の構成国旗が並んででまるで万国旗ですね。そういえば共同租界には「万国商団」という独自軍隊もありました
 

●関連リンク

上海市地方誌弁公室  上海市の各分野の史料の総合サイト(中国語)




【過去形】コロンス共同地界 

アモイ周辺地図(1915年)  「AMOY」と書かれたオレンジ色の市街地と駅の間にある、「Ko-Long-Su」という小さな島がそれ
アモイの地図(1919年)  
現在の福建省の地図  金門島もすぐ近くですね
コロンス島の衛星写真  (google map)

租界とは、治外法権や行政権、警察権を有した外人居留地のことで、戦前の中国には主な都市に欧米や日本の租界がありました。たいていの租界は、日本租界、イギリス租界、フランス租界・・・のように単独の国が運営していましたが、上海とコロンスには列強諸国が共同で運営する共同租界なるものが存在していました。上海の共同租界は何かと有名ですが、コロンスの共同租界はちょっとマイナーですね。しかも正式名称は「共同地界」だったりします・・・。

コロンスは漢字で書けば「鼓浪嶼」で、福建省の港町・アモイ(厦門)の沖合に浮かぶ小さな島。アモイは台湾産のお茶の輸出港として栄えていたが、アヘン戦争でイギリス軍はコロンス島を占領し、イギリス人が住み着くようになった。

中国側は港の入り口に位置するコロンス島をイギリスに占領され続けてはたまらないと、1844年にアモイにイギリス租界の開設を認め(正式な公認は1862年)、イギリスは翌年コロンス島を返還したが、1853年に「小刀会」がアモイを襲撃すると、イギリス人は再びコロンス島に渡って住み着いてしまう。やがてアモイが発展して租界が手狭になると、コロンス島に邸宅を構えてイギリス租界のオフイスに通勤する外国人が増えた。このため1877年にイギリスやドイツは中国側へコロンス島を共同租界にするよう要求。中国側はこれを拒否したが、コロンス島に住む外国人たちは道路基金委員会や墓地基金委員会を作って自主的に島の環境整備を進め、その財源として島の住民から徴税を行った。

こうして島の行政権を握る既成事実をもとに、1902年に列強諸国は清朝にコロンス共同地界の設置を認めさせた。租界ではなくて「地界」になったのは、この時期すでに清朝は「これ以上、租界を増やされるわけにはいかない」との抵抗感が強かったからかも知れません。

租界の行政を担当する市役所のような存在は工部局で、外国人5〜6人と中国人1人(1926年以降は外国人5人と中国人4人)で構成される参事会が運営した。議会に相当する議決機関は選挙人総会で、一定額以上の納税者や土地所有者(個人と法人)が出席資格を持ち、参事の選出や予算・決算の承認、租界の憲法に相当する土地章程の改正を行う権限を持っていた。いわば究極のブルジョア的直接民主主義というべき制度。ただし実質的な最高権力を持っていたのは、アモイに領事館を開設していた列強諸国で構成される領事団、特にその代表となる筆頭領事だった。筆頭領事は慣例としてアモイ駐在の各国領事の中で最も着任歴が長い人が就き、フランスやドイツの領事が就くことが多かったが、イギリスがアモイ領事を総領事に格上げして筆頭領事の座を狙い、日本もこれに対抗して領事を総領事にするなど、列強同士の主導権争いが展開されていた。

コロンス島の人口は1930年には外国人567人と中国人20465人だったが、1937年の蘆溝橋事件をきっかけに日本軍は次々と中国各地を占領し、翌年5月にアモイも占領されると「安全地帯」であったコロンス島の租界には10万人の難民が殺到。アモイ市政府など中国側の行政機関もコロンス島へ引っ越し、いわば亡命市役所のような格好となった。もっとも租界内でも日本は列強の一員として工部局警察署長に日本人を就任させるなど圧力を強めていったが、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発すると、日本軍はコロンス島にも上陸してイギリス人やアメリカ人を拘束。もはや租界は日本軍占領地と実質的に変わらなくなり、1943年に日本は「大東亜共栄圏の発揚」を狙って汪兆銘政権(日本軍占領地域で発足した中国の親日政権)へ租界を返還することを決定。こうしてコロンス島の共同租界は名実ともに消滅した。

コロンス島には現在でも各国の領事館などの洋式建築が残っていて、最近は観光地として人気を集めているようです。中国の租界については こちら も参照してくださいね。共同租界については非公認のまま終わった アヤシイ共同租界 もありました。

●関連リンク

sitejmさんの旅行記 海上の花園 コロンス島  旧共同租界の建物の写真があります
月のコロンス  昭和14〜15年頃に台湾で流行した歌謡曲だとか。なんか深い意味がありそうですね・・・
 




【過去形】北京公使館区域 

北京市街地と公使館区域の地図(1919年)  
公使館区域の地図(1937年)  

これについては、 こちら をご覧下さい。




【過去形】仁川各国租界 
仁川各国租界の国籍別土地所有図。Gがドイツ人の土地
租界は中国だけでなく、朝鮮にもありました。朝鮮(1897年以降は大韓帝国=韓国と改称)は1876年の開国以降、日本や中国の租界が誕生したが、仁川には、列強諸国が共同で管理する各国租界(=共同租界)も存在していました。

仁川の海岸一帯は、開国前まで済物浦(チェムルポ)と呼ばれる人家も稀な寒村だったが、首都・漢城(後の京城、現在のソウル)への玄関口として列強諸国に注目され、1883年に日本租界が開設されたのを皮切りに、翌年に中国租界(清国租界)と各国租界が相次いで設置された。

仁川各国租界は、イギリスと朝鮮が1883年に結んだ朝英修好通商条約に基づいて設置が決まったもので、翌年イギリスとアメリカ、日本、中国(清)、朝鮮との間で各国租界設置の条約が結ばれ、その後朝鮮と不平等条約を結んだフランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、イタリア、オランダ、ベルギー、デンマークも加わった。租界の行政を運営する市役所のような存在は紳董公司で、租界内に土地を所有する外国人代表3人と仁川に駐在する各国の領事のうちから1人、そして朝鮮政府の地方官吏(仁川監理)の計5人で構成され、土地所有者代表は毎年1人ずつ選挙によって交替した。朝鮮人は土地所有を認められず、租界内の土地は入札で外国人が永代租借権を取得したが、ドイツ人が経営する世昌洋行(Edward Meyer&Co.)が多くの土地を買い占めた。

港や道路などのインフラ建設は朝鮮政府の責任とされ、紳董公司はその管理や街灯設置、衛生などを担当した。運営費用として紳董公司は土地所有者から地租を徴収したほか、酒店(旅館・料理屋)から営業税を取り立てた。また紳董公司は警察署を設置したが、捕まえた犯罪者は不平等条約を結んだ外国人の場合は各国の領事館へ、その他の外国人や朝鮮人の場合は朝鮮政府の裁判所へ引き渡した(※)。

※各国租界設置当初の警察署のメンバーは、欧米人の署長と日本人巡査3人、中国人巡査1人だった。
こうして仁川は釜山と並ぶ朝鮮の貿易港として発展していったが、各国租界の主導権をめぐる外国人同士の争いは激しく、土地所有者代表選挙のたびに日米派と独英派が多数派工作を競い、仁川政略(チェムルポ・ポリティックス)と称された。紳董公司を牛耳って自分の土地の周囲で街灯設置や道路整備を行い、不動産価値を上げようという策略もあったようだ。各国租界の人口は日本人が圧倒的に多かったにも関わらず(日本人2491人に対して、欧米人と中国人は57人)、多くの土地をドイツ人に握られていたので、現地の日本人の間では「高額の家賃をドイツ人に取られたうえ、行政面で日本人の声が十分反映されない」と不満が高かったようだ。ま、それを言ったら、土地を取り上げられたうえに、行政にまったく参加できなかった朝鮮人はどうなんだろうと思いますけどね。

朝鮮の各国租界は、仁川の他にも現在は韓国領の木浦、群山、馬山や、北朝鮮領の鎮南浦、城津にも設置されたが、仁川以外では欧米人はほとんど居住していなかったので、実質的には日本租界と変わりがなかった。1910年に朝鮮が日本の植民地になると、日本政府は「わが帝国の領土内に租界があるのはケシカラン」ということになり、租界撤廃に向けて列強各国と交渉を開始。かくして14年に各国租界は廃止されたが、外国人の持つ永代租借権は土地所有権としてそのまま認められた。しかしドイツ人大地主の土地は、第一次世界大戦が勃発すると「敵国資産」ということで接収されててしまいましたとさ。

朝鮮の租界については こちら も参照してください。




【過去形】神戸・大阪の外国人居留地 
明治3年当時の大阪(川口)外人居留地
日本には幕末から明治にかけて「外人居留地」というのがありましたが、あれはつまり共同租界と同じ。いわば中国語で租界=日本語で居留地というわけで、1920年代くらいまで日本では中国の租界のことも「居留地」と呼んでいました。英語ではどちらもsettlementになります。

日本の外人居留地は、安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ合衆国と締結した日米修好通商条約をはじめ、オランダ、ロシア、イギリス、フランス、ポルトガル、プロシアとそれぞれ結んだ安政条約(いわゆる不平等条約)に基づいて、横浜、長崎、函館、新潟、神戸の開港場と東京、大阪に設置されることになったもの。土地の造成や道路、港、下水などのインフラ整備は日本側が行い、外国人は土地の永代借地権を入札で購入する形で、日本人の土地所有や居住は認められなかった。

不平等条約を結んだ国の外国人には領事裁判権などの治外法権が認められるほか、居留地では外国人に行政権と警察権が認められていたが、外国人が少なかった函館と新潟には居留地は作られず、東京(築地)の居留地は宣教師が主体で外国人による行政組織は作られず、横浜と長崎ではいったん行政組織や警察が作られたものの、財政難と外国人同士の対立から横浜は3年間で、長崎は16年間で解散し、最後まで外国人が行政権を行使し続けたのは神戸と大阪(川口)だけだった。

居留地の行政を担当する市役所のような存在は行事局で、居留地会議によって運営された。居留地会議は居留地(またはその周囲)に住む外国人から選挙で選ばれた代表3人と各国の領事、地元(兵庫県や大阪府)の知事によって構成されていたが、会議が英語で行われていたこともあって、大阪の知事はほとんど出席しなかったようだ。居留地の道路管理や環境整備、インフラなどは行事局が行い、その財源として地租(毎年、永代借地料の1%)を徴収したほか、独自の警察署の運営費用として住民から警察税(地租の3分の1以内)も徴収した。神戸の場合、居留地警察は欧米人署長1人と欧米人巡査2人、日本人巡査7〜8人の構成で、日本の警察官は居留地へ立ち入ることはできなかった。

もともと外人居留地は、外国人を特定の地域だけに居住させて管理しやすくし、さらに国民との接触の機会を減らすという、「長崎の出島」の延長線上のような考えで、日本政府の意図にも合った存在だったが(中国の租界にしても、しかり)、やがて外国人の旅行制限が撤廃され、居留地にしか住めない居住制限も緩和されると、日本政府にとってのメリットはなくなり、外国人の治外法権や、日本の領土内で日本の統治が及ばない居留地の存在は、日本にとって屈辱の象徴となった。こうして日清戦争さなかの1894年に、日本は不平等条約の撤廃を列強各国に認めさせ、外国人居留地は1899年7月17日に廃止となり、行政権が日本へ返還され、行事局の資産は日本政府へ引き渡された。

さて、中国や朝鮮の租界と、日本の居留地を比較してみると、こんな感じになります。
 
 
中国の共同租界
朝鮮の各国租界
日本の外国人居留地
主権中国朝鮮日本
地元民の居住大部分は中国人朝鮮人は立ち退き日本人は不可
地元民の土地所有中国人も可朝鮮人は不可日本人は不可
行政機関工部局紳董公司居留地会議行事局
インフラ建設工部局が行う朝鮮政府が行う日本政府が行う
徴税住民税、地租、営業許可税、広告税など地租、旅館営業許可税地租、警察税
外国人の参政権土地所有者や一定額以上の納税者なら有土地所有者なら有
地元民の参政権土地所有者や一定額以上の納税者なら有
地元政府の行政参加紳董公司に地元政府代表が参加居留地会議に知事が参加
外国領事の行政参加領事団を構成し拒否権を持つ領事の代表が紳董公司に参加領事が居留地会議に参加
警察署の構成列強の指揮官にインド人や中国人の巡査欧米人の指揮官に日本人や中国人の巡査欧米人の指揮官に日本人巡査
外国人への司法権列強諸国の国民には治外法権列強諸国の国民には治外法権列強諸国の国民には治外法権
地元民への司法権本来は中国側朝鮮側日本側
外国軍隊の駐屯列強各国の駐屯軍+外人義勇軍戦時を除いてなし1875年まで英仏軍

ま、基本的にはほとんど同じですね。しかし中国では租界と言えば「列強による侵略の拠点」として悪名高いのに、日本の居留地は「欧米文化の窓口」みたいにノンキな評価をされているのはなぜでしょう?

もちろん20世紀前半に両国が歩んだ歴史の違いがあるわけですが、大きな要因として(1)中国の租界には列強諸国の軍隊が駐屯し、後に日本軍による中国占領の前線基地となった、(2)中国の租界も当初は面積が狭く外国人が居住するだけだったが、やがて中国人が住む地域に拡大し、多数の中国人が外国人の統治下に置かれた、(3)日本の居留地は工業化の前に撤廃されたが、20世紀まで残った中国の租界は工業化が進み、外資系工場で起きた労働者のストライキに対して租界の警察が発砲し犠牲者が出るなどの事件が頻発した、(4)日本の居留地撤廃は外交交渉で実現したが、中国の租界撤廃は中国人の抗議活動によるもので、その過程で租界警察に武力弾圧されて多くの死傷者が出た・・・などの違いがあります。

日本の外人居留地もあと何十年か存在し続けて、「外国資本の工場で起きたストライキを外国人が指揮する居留地警察が武力鎮圧して、日本人の労働者がバタバタと倒れる」なんて事件が繰り返されたとしたら、神戸や横浜の居留地に対する現在の評価も、だいぶ違ったものとして語られたでしょうね。

●関連リンク

神戸居留地物語  神戸の旧居留地の紹介と現在の写真
神戸旧居留地オフィシャルサイト  神戸の外人居留地の歴史など。外人居留地の自治行政権を「特筆すべき」と賛美してます。非国民!
旧居留地連絡協議会  ↑のサイトを運営している団体の会報バックナンバーが読めます
川口居留地の教会 と 平和を祈る聖歌  大阪の旧外人居留地に当時からある教会の紹介
失われた日本のホテル  各地の居留地などにあった外人ホテルの絵葉書がたくさんあります
日本古写真超高精細画像データベース 長崎古地図  長崎大学のデータベースです
身近な地域  長崎の外人居留地の写真があります。長崎大学教育学部のサイト
不平等条約下における内地雑居問題の一考察  長崎の自称「ロシア租界」について宮崎千穂氏の論文です(PDFファイル)




【過去形】タンジール 

20世紀前半のモロッコの地図  赤い部分がタンジール国際地域

ジブラルダル海峡といえば昔から海の要衝の代名詞。何しろ飛行機がなかった時代には、南欧からアフリカ、アメリカ、アジアへ、イギリスやオランダ、ドイツから地中海、中東へ行くにはこの海峡を通らなければならなかった。そのため海峡の両岸は古代から地中海を制そうという国が奪い合い、現在でも北岸のスペインの一部(ジブラルダル)はイギリス領、南岸のモロッコの一部( セウタ メリリャ )はスペイン領になっているが、長い歴史の中で幾度もの攻防戦や国際対立が繰り広げられたのが、モロッコ西北岸のタンジール(昔はタンジェ、タンジェールとも表記)だ。

タンジールは古代フェニキア人に始まって、カルタゴ、ローマ帝国、西ローマ帝国、ビサンティン帝国、ウマイヤ朝、アッパース朝と支配者を変えていたが、15世紀の大航海時代に入るとここに目をつけたのがポルトガル。ポルトガルは1415年のセウタ征服に味をしめ、37年にタンジールを攻撃するが大敗し、数回にわたる遠征を経て1471年にようやくここを占領した。1580年にポルトガルがスペインに併合されたことでタンジールはスペインの手に渡るが、1640年にポルトガルが再び独立を宣言したのでポルトガル領に戻り、61年にイギリスのチャールズ2世とポルトガルのドナ・カタリナが結婚した時に、持参金の一部としてイギリスに譲渡された。しかしこの間にもモウロ人の反乱が続き、1684年にモロッコが奪い返した。

19世紀になってヨーロッパ列強諸国によるアフリカ分割が進む中で、列強諸国はモロッコにタンジールでの治外法権を認めさせたが、モロッコを征服しようと狙ったのが西アフリカに広大な植民地を築きつつあったフランスだ。フランスの思惑は同じくモロッコ進出を狙っていたイギリスやスペインと対立するが、スペインとは1880年の仏西条約でタンジールを中立の国際都市とすることを決めて権益配分を話し合い、イギリスとも1904年の英仏協商で、エジプトにおけるイギリスの優先権とモロッコにおけるフランスの優先権を相互承認することになった。

こうしてイギリスの了承の下で、フランスとスペインはモロッコ分割に向けて準備を進めていたが、そこに異議を唱えたのが遅れて植民地獲得に乗り出してきたドイツ。ドイツはモロッコの領土保全と門戸開放を要求し、1905年には皇帝ウィルヘルム2世自らタンジールに上陸する(第一次モロッコ事件)。仏独両国の緊張が高まりあわや戦争かと思われたが、列強諸国は翌年スペインのアルヘシラスで国際会議を開いてモロッコの独立や領土保全、列強各国への門戸開放と機会平等を決議してとりあえず妥協が成立した。しかしフランスとスペインは治安や金融を支配したことから、これを不満としたドイツは1911年にアガディール港へ軍艦を派遣して再び仏独両国の緊張が高まった(第二次モロッコ事件)

結局のところ、イギリスがフランスを支持したことからドイツはコンゴの一部をフランスから譲り受けることで妥協が成立し、翌1912年にフランス、スペイン両国はモロッコを分割。モロッコはフランスの保護領とされたが、うちセウタやメリリャに接する北部と スペイン領サハラ に接する南部はスペインの保護領に、中部海岸の イフニ はスペイン領になり、タンジールとその周辺の373平方kmは列強による国際管理地域とされることが決まった。こうして列強同士の駆け引きの末に、モロッコはバラバラに解体されてしまったのである。

タンジールは長く鎖国主義を採っていたモロッコで、外国人に開放されていた港町で、日本で言えばさしずめ長崎のような存在だった。このため列強諸国の領事館や郵便局が開設され、多数の外国人が暮らしていたが、伝染病の予防のために1840年から外国人による衛生参事会と衛生委員会(※)が組織され、港の検疫や道路衛生などの行政を行う権利を獲得していたが、タンジールの国際管理化は、これを市政全般に拡大しようというものだった。

※衛生参事会はタンジールに駐在する列強各国の領事で構成。衛生委員会は各国代表者やスルタンが任命したモロッコ人、そしてタンジール在住の外国人が選挙で選出した委員で構成され、さらに1914年の協定ではタンジール在住のモロッコ人にも選挙権を拡大する予定だったが、第一次世界大戦のため実現しなかった。
国際管理化は第一次世界大戦のため中断されたが、1922年のロンドン国際会議で改めて確認され、25年6月からモロッコのスルタンに主権を残したまま(とはいえ、モロッコはフランスの保護領だったので、実質的にはフランスの主導下で)非武装・永世中立の国際管理地域になった。

タンジールには国際立法議会が設置され、議員はそれぞれの国の領事が任命したフランス・スペイン各4人、英国・イタリア各3人、アメリカ、オランダ・ベルギー・ポルトガル各1人(※)と、スルタンが派遣したマンドーブ(知事)が任命したモロッコ人6人とユダヤ人3人で構成され、議長はマンドーブが兼任した。行政長官は直接的な利害が少ないオランダ、ベルギー、ポルトガル、スウェーデンによる互選で選ばれ、交代で就任した。公用語はフランス語とスペイン語とアラビア語。法定通貨はフランスが発行したモロッコ・フランだが、当初はスペインのペセタも通用した。

※戦後の外国人議員は、仏・西が各4人、英・伊・米・ソが各3人、蘭・葡・白(ベルギー)が各1人と定められたが、ソ連は議員の任命を拒否して空席が続いた。
第2次世界大戦が勃発してフランスがドイツに降伏するとスペイン軍がタンジールを占領し、スペイン保護領への併合を宣言したが、45年に再び国際管理都市に戻った。49年当時、タンジールには5万人のモロッコ人のほか、スペイン人が1万5000人、ユダヤ人が7000人、フランス人とイギリス人が各1000人、その他の外国人が4000人と多国籍な住民が暮らし、名実ともに国際都市だった。

タンジールは関税がかからない自由港(フリーポート)で、為替取引も自由とされ、貿易・金融の中心都市として繁栄したが、一方で密輸や麻薬取引、売春などがはびこる「背徳の町」としても栄えた。なにしろ警察や税関は多国籍の混成で、指揮系統は混乱し書類も数カ国語に翻訳しなくちゃならない。フランスとスペインの勢力争いの結果、政府高官の人事には国籍別配分についての細々とした規定があり、国際立法議会の決定は各国の領事で構成する監督委員会の承認を得なければならず、どこかの国が拒否権を発動すれば実行に移せない。住民の多くを占めるモロッコ人の行政はモロッコのスルタンが引き続き行っていたし、司法制度も複雑で、裁判所はイスラム教徒(モロッコ人)法廷とユダヤ人法廷のほか、各国の判事で構成する混合裁判所の3つがあったが、アメリカとイタリアは「自国民に対しては領事裁判権がある」と混合裁判所を認めなかった。国際管理の下で行政も立法も司法も、とかく非効率だったわけですね。

しかしそのおかげで、タンジールはモロッコ独立運動の拠点にもなった。第2次世界大戦で北アフリカの軍事的重要性を再認識したフランスは、アルジェリアやモロッコなどの独立を断固として認めないという強硬姿勢を採っていたが、47年にスルタンのベン・ユーセフがタンジールで「モロッコの主権と独立」をアピールしたのをきっかけに独立闘争が激化。タンジールは反仏暴動やテロ活動の拠点となった。フランスはベン・ユーセフをコルシカ島やマダガスカルへ島流しにしたが、軍事鎮圧には失敗し、1956年3月にモロッコの独立を承認。4月にはスペインが保護領をモロッコへ返還し、タンジールも同年10月に関係各国が国際管理に関する条約を放棄して返還した。

モロッコはその後しばらく、タンジールの関税や為替管理に関する特別措置を続けていたが、60年4月に撤廃したために、タンジールの経済的繁栄は失われ、外国人住民もほとんどが去ってしまいました。

 
国際管理都市だった頃のタンジールの旗(左)はモロッコの国旗と同じだが、商船旗(右)はオリジナル

●関連リンク

Tangier. When charm fades  タンジールの総合観光ガイド(英語)
モロッコ(タンジェ)  タンジールの写真がたくさんあります




【過去形】メーメル

ヨーロッパの地図(1908年)  ドイツの領土がまだ大きかった頃(日本語)
ドイツ北部の地図(1910年)  北東の端にメーメルがあります(ドイツ語)
第二次世界大戦中の地図(1942年)  メーメルは再びドイツが併合(日本語)
リトアニアの地図(2002年)  クライペダがかつてのメーメル(英語)

 
連合国占領当時。なぜか「五大国管理と書かれています(左)。リトアニアによる併合後のメーメル(右)

メーメルとは現在のリトアニアのクライペダ。1252年にドイツ騎士団がここを占領して要塞を築いて以来、ドイツで最も東北端に位置する町となり、またリトアニアの貿易港としても栄えていた。

さて、第一次世界大戦の後、民族自決の方針によって東欧では旧ロシアやドイツ、オーストリア領から続々と新しい独立国が生まれ、リトアニアも1920年にロシアから「独立したが、ここで問題となったのがメーメルの帰属だった。新しい独立国には自立のために「海への出口」が不可欠だとされ、チェコスロバキアにはドイツ領内のエルベ川の通行権と ハンブルグ港の一角 の租借権が与えられ、ポーランドには ダンチヒ を国連保護下の自由市として実質的にポーランドのコントロール下に置くようにしたが、リトアニアもいちおうわずかに海には面しているとはいえ、海への玄関口は鉄道があるメーメル港に頼っていた。

そこでリトアニアはメーメルの割譲を要求したが、当時メーメルの住民の8割はドイツ人だったため、メーメルの帰属をどうするかについては難航。結局ベルサイユ条約では、メーメルを国連ではなく連合国の4ヵ国(イギリス、フランス、イタリア、日本)の大使による共同管理の下に置くことになり、住民の国籍については「ドイツは連合国の決定に従う」ということで棚上げされ、1920年2月から連合国を代表してフランス軍による委任統治が始まった。

連合国は1922年秋に、メーメルをダンチヒ同様に国連保護下の自由市にすることを提案し、メーメル在住のドイツ人やポーランド人はこれを歓迎したが、リトアニアは反発した。そして1923年1月に、フランス軍がドイツに賠償金支払いを要求してルール地方を占領する事件が起きると、メーメルではフランス軍の警備が手薄になったことに乗じて、リトアニア軍が侵入。フランス軍は応戦せずに撤退した。こうしてメーメルはリトアニアによって占領されたが、4ヵ国は翌月メーメルに広範な自治権を与えることを条件に、占領を黙認。12月にリトアニアと条約を結んでメーメルの併合を正式に認めた。

1924年3月に、メーメルはリトアニア政府から派遣された総督の下で独自の議会と執政府を持つ自治区として発足したが、住民の多数を占めるドイツ人たちはリトアニアに対する反発を強めたため、1926年と38年には戒厳令が敷かれた。そしてドイツでのナチスの躍進に呼応して、38年の選挙ではナチスが大勝し、住民たちは翌年ドイツへの編入を要求。恐れをなしたリトアニアはドイツにメーメルの自主的返還を申し出て、受け入れられた。

その後リトアニアはヒトラーとスターリンとの密約によって1940年にソ連が併合したが、メーメルも1945年に占領され、ドイツ系住民は全て追放。91年にリトアニアの一部として独立しています。


1920年から24年までのメーメルの旗

●関連リンク

カリーニングラード&リトアニア旅行記  クライペダの写真があります
メーメル問題  第一次世界大戦を解説しているサイトです
MEMEL - KLAIPEDA  これも第一次世界大戦を解瑞烽オているサイトです(英語)




【過去形】ウィーン市1区(インナーシュタット)

ウィーン市内の分割占領地図  
現在のウィーン市の地図  

第二次世界大戦後に連合国によって分割占領された国といえば、まずドイツ。ドイツ全土のみならず、首都ベルリン市内も米英仏ソの4ヵ国の占領地域に分けられて、後に東西冷戦によって米英仏が占領した地域は西ドイツ+ 西ベルリン 、ソ連が占領した地域は東ドイツと、分断国家になってしまった。そしてナチスドイツによって併合されていたオーストリアも、やはり米英仏ソの4ヵ国で分割されていたが、こちらは1955年に永世中立国となる条件で連合国と平和条約を結び、東西両陣営に分割されずに独立した。

オーストリアが分割占領されていた10年間、首都ウィーンもベルリンと同じように4ヵ国で分割されていた。ただしベルリンと違ったのは、ウィーン市の中心部に4ヵ国による国際共同管理区域(インターナショナル・ゾーン)が設定されたこと。ウィーン市は23区に分かれるが、共同管理とされたのはそのうち1区(インナーシュタット)。城壁を撤去した後に作られた環状道路(リング)に囲まれた直径2km弱の一角で、かつての王宮を中心に国会議事堂やオペラ座、美術館などが集中する旧市街だ。

4ヵ国に分割占領されたといっても、オーストリア人によるウィーン市役所は占領後すぐに再建され、どこの国の占領地域かに関わらず、市政運営はウィーン市役所が担当していた。市民の行き来は自由で、これは61年に「壁」が建設される前のベルリンも同じ(ただし他の国の占領地域に入る場合に検問されることはあった)。4つの国の占領地域には、担当国から司令官が派遣されて、ウィーン市の行政に拒否権を持つ仕組みだった。市内の治安維持はオーストリア警察のほかに、各国の憲兵隊がそれぞれの担当地域でパトロールを行った。

インナーシュタットも市政はウイーン市役所が行ったが、司令官は米英仏ソの4ヵ国から1ヵ月交替で着任した。またインナーシュタットの治安維持は、「国際パトロール」と称して米英仏ソの憲兵が必ず4人1組になって行動した。出発前の点呼は、4ヵ国の上官が1日ごとに交替して担当。当初はジープで巡回したが、「男4人が常に乗るには狭苦しい」と、大型のパトカーに取り替えられたとか。

米英仏ソの4大国の憲兵が肩を並べてパトロールするなら、さぞや治安は良かっただろうと思えば、むしろ逆。パトロール隊の人数や回数、時間などについては4ヵ国の合意が必要だったから、簡単に増減できないし、指揮系統も混乱してしまう。現場でもアメリカ兵とイギリス兵を除けばお互い言葉が通じない者同士がコンビを組むのだから、臨機応変な対応はできないし、誤解から生まれる憲兵同士のトラブルもしばしばだった。特に48年から49年にかけて「ベルリン封鎖」が起きると、ウィーンでも共同管理は円滑にゆかなくなり、ソ連軍が3ヵ月間にわたってパトロールを拒否する事態になった(※)。

※ウィーンの米英仏占領地域も西ベルリンのようにソ連軍によって封鎖されるかと思われたが、ウィーンの空港はソ連軍地域にあったため、アメリカはベルリンのような「大空輸作戦」を行うのは不可能。英軍地域に慌てて空港を作ってはみたものの、それなりにソ連軍とも「妥協」した結果、ウィーンは封鎖されなかった。
かくして「芸術の町」と讃えられたウィーンの中心部は、密輸や闇取引、売春が横行し、さらにスパイが跋扈する暗黒街と化してしまったとか。これは上海の共同租界やタンジールとも共通した現象ですね。

 

ウィーンの街  インナーシュタットの見所です
goo 映画 あらすじ 第三の男  「国際パトロール」当時のウィーンを舞台にしたイギリス映画
USFA Gallery  占領当時のウィーンの写真。連合軍の本部や国際パトカーの写真もあります、
histoire de l'Europe unie sur European Navigator  国際パトロールの宣伝ポスター
 

参考資料:
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『租界ニ於ケル行政組織並土地制度』 (外務省条約局第二課 1930)
『仁川府史』 (仁川府 1933)
『最新世界現勢地図帖』 (新光社 1933)
小谷鶴次 『タンジールの国際制度』 (東北帝国大学法学会 『法学』第8巻第10〜12号 1936)
入江啓四郎 『中国に於ける外国人の地位』 (東京堂 1937)
『モロツコ経済事情』 (イスラム文化協会  1938)
野口謹次郎、渡辺義雄 『上海共同租界と工部局』 (日光書院 1939)
『世界地理第12巻 南欧東欧』 (河出書房 1940)
植田捷雄 『支那に於ける租界の研究』 (巌松堂書店 1941)
『支那に於ける外国行政地域の慣行調査報告書』 (東亜研究所 1942)
上原蕃 『上海共同租界誌』 (丸善 1942)
『世界地図』 (三省堂 1942)
『西南アジア・アフリカ総覧』 (日本国際協会 1957)
外務省欧亜局 編 『モロッコ王国便覧』 (日本国際問題研究所  1961)
『世界大百科事典』 (平凡社 1971)
ジャパン・クロニクル社編、堀博・小出石史郎訳 『神戸外国人居留地』 (神戸新聞出版センター 1980)
高秉雲 『近代朝鮮租界史の研究』 (雄山閣出版 1987)
菱谷武平 『長崎外国人居留地の研究』 (九州大学出版会 1988)
『新修大阪市史 第五巻』 (大阪市 1991)
費成康 『中国租界史』 (中国:上海社会科学院出版社 1991)
『横浜と上海−二つの開港都市の近代』 (横浜開港資料普及協会 1993)
『仁川市史(上巻)』 (韓国:仁川市 1993)
上海地方誌弁公室 http://www.shtong.gov.cn/node2/index.html
元老院議員私設資料展示館—モロッコの歴史 http://www.kaho.biz/morocco.html
The World at War http://worldatwar.net/
Occupation Becomes Defense http://www.usarmygermany.com/Units/MilitaryPolice/NATO%202.pdf
796th Military Police Battalion http://www.usfava.com/USFA_796MPBn.htm
 
 

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