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朝鮮(韓国)の租界

「租界」といえば、 かつて中国に存在したもの が有名ですが、19世紀末から20世紀初頭にかけては、朝鮮(1897年以降は大韓帝国=韓国と改称)でも各地に租界が設置されました。

朝鮮の租界には、(1)それまで欧米列強に不平等条約を押し付けられて租界や外国人居留地を設置させられる側だった日本や中国が、租界を設置する側にまわったこと、(2)主に貿易・商業の拠点だった中国の租界や日本の外人居留地と比べ、軍事利用の側面が強く、特に日清戦争(1894〜95)の後は日本とロシアの軍事進出の拠点となったこと・・・などの特徴があります。

日本租界

朝鮮で最初に租界を設置したのは日本だった。日本は1875年(明治8年)の江華島事件で朝鮮に軍事的圧力をかけ、翌76年に日朝修好条規を結び、(1)釜山ほか2港《仁川、元山》の開港、(2)開港地での日本人の居住や貿易、土地賃借や建物建設、(3)日本の領事裁判権、(4)沿海の測量・地図作成権、などを認めさせた。この条約と、古くから釜山に設置されていた倭館(※)の存在を盾に、1877年に釜山の旧倭館跡地に日本租界を開設した。

※倭館=日本からの貿易船や使節受け入れのために、李氏朝鮮が設置した日本人の指定居住地で、いわば長崎の出島の「オランダ屋敷」のような存在。1407年に開設され、秀吉の朝鮮出兵などで閉鎖されたこともあったが、江戸時代には対馬藩の役人が常駐して自治が認められていた。1678年に豆毛浦から草梁へ移され、面積約11万坪(長崎の出島の25倍)に拡張して、常時500〜600人の日本人が居住していたという。廃藩置県により、対馬藩に代わって明治政府が倭館を接収して日本公館と改称したが、朝鮮側はこれを認めなかった。
日本租界でインフラ整備や衛生などの行政を行ったのが在留邦人で組織する居留地会(1905年以降は居留民団)で、日本人による選挙で総代と議員を選出し、総代は領事館の指導・監督の下に総代役所で業務を行った。また領事裁判権の執行や在留邦人の保護のために、租界には日本から警察官が派遣された。

日本租界は元山(北朝鮮の日本海沿岸都市)や漢城(後に京城、現在のソウル)郊外の貿易港である仁川に開設されたが、このほか漢城南部の竜山地区にも日本人街が形成され、「日本租界」とも呼ばれていた。

清国租界(中国租界)

日本に次いで朝鮮に租界を設置したのが中国だ。当時、中国(清)は朝鮮の宗主国で、逆に言えば朝鮮は中国の属国という関係だった。「日朝修好条規」では朝鮮は独立国だと明記されたが、1882年に清と朝鮮が結んだ「商民水陸貿易章程」では、朝鮮は属国であると再確認したうえで、清の北洋大臣が朝鮮の各開港場へ華僑保護のために商務委員を派遣することや、その治外法権が定められた。これをもとに、1884年に仁川と釜山に、次いで元山にも中国租界が開設された。

中国租界の行政権や警察権は、清が各地に開設した商務公署(実質的な領事館)が行使した。1894年に日清戦争が勃発すると商務委員は中国へ引き揚げ、翌年の下関条約で清は朝鮮の独立を認め、商民水陸貿易章程は無効となり、中国租界は法的根拠を失った。しかしこの間も朝鮮政府の監督の下で現地の清国人による自治運営が続けられ、99年からは清が改めて派遣した領事の管理下に戻されて、1910年3月に新たな租界章程(租界の設置を決める条約)が結ばれた。

各国租界(共同租界)

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日本居留地(日本租界)と支那居留地(中国租界)もありますね
上海の共同租界や日本各地の外国人居留地のように、朝鮮でも不平等条約を結んだ列強諸国が共同で運営する共同租界(朝鮮での名称は、各国租界)が設置された。最初に共同租界が設置されたのは仁川で、イギリスと朝鮮が1883年に結んだ朝英修好通商条約に基づいたものだった。共同租界内では朝鮮人の土地所有権は認められず、埠頭や防波堤、道路などのインフラ整備は朝鮮政府の責任とされる一方で、朝鮮政府関係機関の建物も共同租界の規則に従って納税しなくてはならないと、朝鮮側にとっては日本租界や中国租界より厳しい内容になっていた。

共同租界の市役所に相当するのは紳董公司で、租界内に土地を所有する外国人代表3人と領事団から1人、そして朝鮮政府の地方官吏(仁川監理)の計5人で構成され、外国人代表は毎年1人ずつ選挙によって交替した。紳董公司は行政運営と警察署の設置を行い、各種営業税の徴税などを行った。こうして仁川には日本や欧米諸国の商社が進出し、中華街も形成されて、日本で言えば横浜のような対外貿易の窓口として発展していった。

共同租界は1897年に鎮南浦(平壌の郊外)と木浦(全羅南道)にも設置された。これらは当初、日本が日本租界として開設を狙っていたが、朝鮮への進出を強めていたロシアのほかイギリスやドイツが強くしたため、朝鮮政府のお雇い外人(総税務司)だったイギリス人ブラウンの調停で共同租界とされた。しかし両地とも外国人は若干の中国人が住んでいるほかは日本人しか居住しておらず、領事館を設置したのも日本だけだったので、実質的には日本租界と変わりがなかった。これらの共同租界では仁川よりさらに朝鮮側に厳しく、地税の徴税権も紳董公司にあるほか、租界内の朝鮮人住民は2年以内にすべて立ち退くように規定されたが、実際にはそのまま居住し続けた住民が多かったようだ。

続いて99年には群山(全羅北道)、城津(北朝鮮の日本海沿岸)、馬山(釜山郊外)にも共同租界が設置されたが、これらの地域でも外国人は若干の中国人が住んでいるほかはほとんどが日本人で、実質的には日本租界だった。しかし馬山では、ここに軍港を築こうとしたロシアと日本との間で土地の買い占め合戦になり、交渉の結果、ロシアと日本はそれぞれ別個に租界を設置して軍事施設を建設することになった。こうして1900年にロシア租界が作られたが、軍港が完成する前に日露戦争が勃発して馬山は日本軍に占領され、ロシアは租界を日本へ売却。馬山一帯は日本軍の海軍基地用地に指定されて、日本人以外の外国人への土地売却や貸付は禁止され、日本船以外の外国船の入港も禁止されたため、馬山の共同租界は事実上消滅した。

租界があった都市 

●日本租界
釜山 : 1877年設定、1892年伏兵山を墓地として拡張、1914年廃止
元山 : 1880年設定、1914年廃止
仁川 : 1883年設定、1899年埋立で拡張、1914年廃止
馬山 : 1902年設定、1909年日本軍の軍用地となり廃止(居留民なし)

●中国租界(清国租界)
仁川 : 1884年設定、94〜99年朝鮮政府が管理、1914日本(朝鮮総督府)へ返還
釜山 : 1884年設定、1897年拡張、94〜99年朝鮮政府が管理、1914日本(朝鮮総督府)へ返還
元山 : 1888年設定、94〜99年朝鮮政府が管理、1914日本(朝鮮総督府)へ返還

●ロシア租界
馬山 : 1900年設定、1904年日露戦争で日本軍が占領、1909年日本へ売却

●共同租界(各国租界)
仁川 : 1884年設定、1914日本(朝鮮総督府)へ返還
鎮南浦: 1897年設定、1914日本(朝鮮総督府)へ返還。実質的には日本租界
木浦 : 1897年設定、1914日本(朝鮮総督府)へ返還。実質的には日本租界
群山 : 1899年設定、1914日本(朝鮮総督府)へ返還。実質的には日本租界
城津 : 1899年設定、1914日本(朝鮮総督府)へ返還。実質的には日本租界
馬山 : 1899年設定、1914日本(朝鮮総督府)へ返還

■釜山
韓国随一の貿易港といえば、今も昔も釜山。かつては「富山浦」という町だったが、15世紀に「山の形が釜のようだ」と釜山浦に変わったようだ。朝鮮が鎖国政策を採った時代にも、釜山は「倭館」を拠点に対日貿易が続けられていたが、開港とともに龍頭山の周りから西側(現在の釜山駅から中央洞)にかけて日本租界が建設され、日本人が急増。明治末期から大正初めにかけては、日本人の人口が朝鮮人を上回るほどになっていた。一方、北側の草梁には清国租界が開設され、絹などの布地を扱う店が並ぶ中華街を形成していたが、1905年に京釜線が開通すると、日本人居住地が拡大して実質的に日本租界に呑み込まれてしまった。1910年代後半の人口は6万人で、うち2万8000人が日本人、中国人は200人だった。

釜山の市内地図(1919年)
釜山居留地 ほか(1904年)      
釜山居留地地図   租界設置前のもの

■馬山
馬山は釜山の西約80kmにある港町。馬山が面する鎮海湾は水深が深く、大型船の入港や停泊に適していたため、日本とロシアが進出を競って軍港として栄え、当時はからゆきさん(日本人の出稼ぎ娼婦)がたくさん居たという。広大な日本租界があったものの、領事館のほかに数軒の家しかなく、日本人の多くは「旧馬山」という朝鮮人と同じ集落に住んでいた。日韓併合後、海軍基地は湾の入り口で24km南の鎮海へ移転し、馬山は商業都市となった。1910年代後半の人口は1万6000人で、うち4600人が日本人だった。

馬山全図1   馬山全図2  1907年
馬山浦各国租界地図
馬山浦各国居留地地図(1900年
馬山浦日本居留地地図 租界設置前のもの 

■木浦
韓国西南部の全羅南道の貿易拠点である木浦は、古くから背後に控えた穀倉地帯からの年貢米の積出港として栄えた町。1897年に開港するとともに共同租界が設置され、イギリスやロシアの領事館用地も確保されたが、結局進出したのは日本だけだった。1910年代後半の人口は1万3000人で、うち3分の1が日本人だった。

木浦の市街地図(1919年)    松島公園や本願寺より南が元共同租界。南は「××町」、北は「××洞」という地名に痕跡が・・・
木浦外国人居留地地図   租界設置前のもの

■群山
全羅北道の群山は錦江の河口にあたり、開港当時は人口600人足らずの小さな港町だった。水深が浅く岩礁が多かったため大型船が入れなかったが、朝鮮の穀倉地帯を背後に控えた豊かな地域だったため、周辺住民の購買力が高く、輸入港として栄えた。日韓併合後は港の改良が行われるとともに、多くの農地が日本人の手に渡り、日本への米の積出港となった。

群山各国居留地地図(1900年
群山各国租界地図

■仁川
朝鮮の首都・漢城(後の京城、現在のソウル)の玄関口にあたる港町。1910年代後半の人口は3万1000人で、うち日本人が1万2000人、中国人が1200人だった。詳しくは こちら をご覧ください。

仁川の市街地図(1919年)
仁川各国租界平面図   仁川各国租界での国別土地所有者がわかります
仁川港街図   日本の植民地になる直前(20世紀初め)の仁川の市街図 

■鎮南浦
ソウルの海の玄関口が仁川なら、平壌の海の玄関口は鎮南浦。仁川は朝鮮戦争での仁川上陸作戦が有名だが、鎮南浦も日清戦争で日本陸軍の上陸地点となった場所。平壌から大同江を下って約50kmの場所にあり、もともと20戸足らずの小さな漁村だった。開港後は釜山、仁川に次ぐ貿易港として発展したが、冬は大同江とともに港が結氷するなどの問題があった。1910年代後半の人口は2万3000人で、うち日本人は4分の1だった。鎮南浦は戦後、南浦と改称し、2004年からは南浦特級市になっている。

鎮南浦の市街地図(1919年)
鎮南浦各国居留地地図(1900年
鎮南浦外国人居留地地図   租界設置前の予定地

■元山
東海岸随一の良港と言われた元山。日本は釜山や仁川とともにロシアの南下に備えるために東海岸でも開港を要求し、当初は元山の北34kmにある永興を開港場にするよう求めたが、朝鮮側が「近くに朝鮮国王開祖の廟がある」と拒否して元山になり、開港後は日本と朝鮮北部を結ぶ貿易港として発展した。元山の町は赤田川を境に、南側が古くからの朝鮮人街の元山津、北側が日本租界の設置された元山港に分かれ、さらに日本人墓地を挟んでその北側には清国租界があった。清国租界は戸数わずか20戸足らずだったが、中国人商人の平均関税納付額は日本人商人の2倍にのぼり、商売はかなり繁盛していたようだ。元山港は水深が浅く、大型船は沖合に停泊せざるを得なかったが、冬の強風下では停泊もままならなかった。また赤田川はしばしば氾濫して租界が水浸しになったり、「元山熱」というマラリアのような熱病が流行するなどの悪条件も重なっていたが、1910年代後半の人口は2万2000人で、うち3分の1が日本人だった。

昭和初期の元山の市街地図   
元山津開港予約附図   租界設置前の予定地

■城津
城津は元山に次ぐ北朝鮮の港町で1899年に開港したが、日露戦争では「浦塩艦隊」の来襲を恐れて在留邦人が一時総引き揚げしたため、日本人の人口は数百人と少なく、領事館は設置されなかった。租界当時の日本との貿易は砂金や牛骨、牛皮、海産物などの輸出程度で、むしろロシアへの牛の輸出の方が盛んだったが、城津が発展したのは昭和になってからで、木材の集積地のほか、製鋼やマグネサイトの重工業地帯として栄えた。現在でも北朝鮮の工業の拠点で、朝鮮戦争で戦死した軍司令官の名をもとに金策市と改称されている。

城津各国租界地図

租界の終焉

朝鮮で最初に租界を作ったのが日本なら、朝鮮から最終的に租界を撤廃したのも日本だった。

日本は日露戦争に勝利した後、1905年に朝鮮を保護国にして総監を派遣し、外交権を握ったのに続き、1910年8月の日韓併合で朝鮮を植民地とした。その結果、朝鮮は日本の一部となり、日本が租界によって行政権や警察権、土地利用権などの特権を確保する意味はなくなったので、日本租界の廃止が決まった。租界に住む日本人たちは、居留民団による住民自治が廃止されて朝鮮人と一緒に総督府の行政下に置かれることに強く反発したが、黙殺された。

続いて日本は、共同租界や中国租界の撤廃交渉に乗り出した。それまでは欧米列強や中国と一緒になって、朝鮮での特権を確保すべく、租界の拡大に熱中していた日本だったが、朝鮮が日本領になった以上、外国に特権を与えるわけにはいかないと立場は一転。ましてや日本は長い外交交渉の末、1899年にようやく不平等条約を解消して国内の外人居留地(つまり租界)を撤廃したのに、大日本帝国の中に新たな租界を抱え込んでは体面上よろしからずということ。日韓併合と同時にそれまで朝鮮政府が列強諸国と結んだ不平等条約は消滅し、治外法権は撤廃され、警察権は日本側が接収したが、租界の行政権については1913年から英米仏独露伊白(ベルギー)と折衝を重ね、共同租界の接収に同意を取り付けた。

しかし、ここで交渉が難航したのが中国だった。中国側は租界の行政機関の不動産が接収されることや、租界在住の中国人が日本人並みに課税されることで増税になる可能性があることで、「特権喪失により自国民(=中国人)が不利益を蒙る」と抗議した。その頃、中国は1911年の辛亥革命により清が倒れて、新たに中華民国が成立した時期に重なったため、列強諸国の代表を集めて行った共同租界(中国もその一員)の接収をめぐる折衝には中国代表は招かれず、日本政府が中華民国を承認した後に個別折衝となったため、「国家のメンツが潰された」という反感あったようだ。結局、日本側(朝鮮総督府)が妥協して、条文を手直しすることになった。

こうして、朝鮮の租界は1914年3月末にすべて廃止されました。ま、それにしても、朝鮮を自国領にした途端「租界をなくす」と言い出す日本も勝手なら、自国内にある租界は「外国人に特権を握られて不平等だから撤廃したい」と言いつつ、他国にある自国の租界撤廃には「特権が失われる」と抗議する中国も勝手なもんですね。
 

●関連リンク

釜山の中の日本  倭館や租界、日本人街の現在の写真がたくさんあります
Pusan Navi>釜山近代歴史館    釜山の旧日本租界の資料が多数展示されてるとか
釜山でお昼を  かつての日本租界に関する資料もたくさんあります
チャイナタウンのない国  仁川の中華街の歴史やインタビュー(PDFファイル)
仁川中華街   仁川自由公園  元中国租界や共同租界の観光案内
仁川の歴史  仁川市のHP。あれれ、「日帝」の悪口が書いてないよ・・・拍子抜け
釜山広報館 歴史の場   釜山市のHP。「釜山の郷愁」には演歌風ナツメロがいっぱい
想い出の故郷 元山  元山出身の日本人による交流サイト
群山ー敵産  群山の旧日本人街
好きな町「木浦」  租界時代や戦前の木浦の地図があります
韓国におけるコロニアルタウンの景観  群山や木浦に残る日本時代の建物について。租界の地図もあります(PDFファイル)
韓国条約類纂  国立国会図書館のデジタル資料
日帝下 釜山地域の都市変遷と工業構造の特性  1906年の各租界の日本人人口や当時の釜山の工業データがあります(韓国語)
 

参考資料:
山本庫太郎 『朝鮮移住案内』 (民友社 1904)
宮崎勇熊 『北韓の実業』 (輝文館 1905)
塩崎誓月 『最新の韓半島』 (青木嵩山堂 1906)
足立栗園 『朝鮮新地誌』 (積善館 1910)
鉄道院 『朝鮮満州支那案内』 (丁末出版社 1919)
『仁川府史』 (仁川府 1933)
『群山市史』 (群山市 1975)
『木浦市史 人文編』 (木浦市 1987)
高秉雲 『近代朝鮮租界史の研究』 (雄山閣出版 1987)
『仁川市史(上巻)』 (仁川市 1993)
 
 

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