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敵国の中に堂々と居座る米軍基地
グアンタナモ湾
アメリカ領
1898年 米西戦争でアメリカがキューバを占領
1902年 キューバが独立
1903年 米玖恒久条約により、アメリカは海軍基地・石炭補給基地としてグアンタナモ湾とオンダ湾を租借。ピノス島は帰属未定としてアメリカが引き続き占領
1912年 アメリカがオンダ湾を放棄
1925年 アメリカがピノス島をキューバへ返還
1934年 新条約でアメリカがグアンダナモ湾の永久租借権を獲得。放棄済みのバイア・オンダは除外されるグアンタナモ湾の地図(1985年)
グアンタナモ湾の詳細図(1996年)
グアンタナモ湾の衛星写真 (google map)キューバといえば、アメリカとは目と鼻の先にあるが犬猿の仲。かつてはソ連の同盟国で、ソ連亡き現在でもバリバリの社会主義路線をひた走っています。
東西冷戦たけなわだった頃、世界各地の非毛沢東主義的共産ゲリラへは、ソ連が武器援助してキューバは兵士を派遣(金は出せないから)というパターンが多かった。1962年にはソ連がキューバに核ミサイルを配備しようとして、キレかけたアメリカとあわや核戦争になった事件(キューバ危機)もありました・・・と書くと、なんだかキューバだけが悪玉みたいですが、キューバをそこまで追い込んだのはアメリカだ。経済制裁は序の口で、61年にはキューバ軍の反乱を装って空軍基地を空爆したり、キューバ人亡命者に武装訓練を施して上陸作戦を行わせたり(ピックス湾事件)、はたまた ホンジェラス沖合いの島 から怪しげな謀略放送を流し続けていたのだから。
さらにCIAがカストロ首相の暗殺を企てたことも数知れず。カストロ行きつけのレストランの店員を買収して、好物のアイスクリームに毒薬を混入する計画を立てたが、毒薬の入ったカプセルをアイスと一緒に冷凍庫で保存していたため、いざカストロ首相がアイスを注文した時、カプセルが凍り付いてて毒薬をふりかけられずに失敗した・・・なんて、マヌケな事件まで明るみになっています。そういえば、数年前にはよく「経済破綻で物資が不足しているキューバでは、唯一開いているアイスクリーム屋に市民の長い行列ができている云々」なんてニュースが流れてましたが、カストロ首相の好物だからアイスは最優先で生産を続けていたのでしょうかね?
さて、そのキューバにはなぜか米軍基地が存在する。キューバ南端のグアンタナモ湾にある海軍基地がそれ。しかも日本の米軍基地のように条約によって治外法権を認めているだけ(主権や統治権はあくまで日本)とは違って、グアンタナモ基地の116平方kmはアメリカが租借をしているれっきとしたアメリカの領土。一体なぜアメリカは敵国の中に領土を持つことができたのか?
キューバはもともとスペインの植民地だった。しかしアメリカ本土に近いため、米国資本が大挙して進出し、世界随一のサトウキビ生産地となっていた。19世紀後半になるとキューバでは前近代的なスペイン統治に対して独立を求める反乱が相次ぎ、米国資本の農場や製糖工場が脅かされたため、1898年にアメリカが介入。この米西戦争でアメリカはスペインからフィリピン、グアム島、プエルトリコを獲得し、キューバの独立を認めさせ、ドサクサ紛れにハワイ王国も併合し、カリブ海と太平洋に勢力圏を確立した。
キューバは米軍による占領の下で1902年に独立するが、独立にあたっての憲法制定では、米国議会で先に承認されたブラット修正条項を盛り込むように強要された。この修正条項では、キューバは外交・防衛ばかりか、内政にまでアメリカの干渉権を認める内容で、実質的にアメリカの保護国となってしまった。そしてこの憲法の付帯条項では、「キューバの独立を維持するために、アメリカが防衛や石炭補給(当時の軍艦は石炭が燃料)のための陸軍や海軍基地を購入もしくは賃借するのを認めること」が盛り込まれた。
米軍基地の設置はこの条項に基づいて行われた。03年に結ばれた恒久条約で、アメリカは海軍基地として、グアンタナモ湾とバイア・オンダを年間2000ドルで租借することになった。条約によれば、 租借地 の最終的な主権はキューバにあるが、租借期間中はキューバの主権は停止され、アメリカは統治権を行使することができる。ただし租借地内で民間企業の設立は認めない、キューバ本土への密輸取り締まりを行う、租借地へ逃げ込んだキューバ人犯罪者はキューバ側へ引き渡す、商業目的のキューバの船の湾内航行を認める・・・などの条件がついた。
こうしてせっかく独立したはずのキューバはアメリカの内政干渉に晒され、1906〜09年と1917〜22年には「選挙で内政が混乱した」などを理由に、グアンタナモ基地から米海兵隊が出動して、キューバはアメリカ軍に占領され、軍政下に置かれるありさま。1930年代に入ってルーズベルトが大統領になると、それまでの露骨な干渉から傀儡政権を通じた間接支配に路線転換し、クーデターで実権を握った軍総司令官パチスタとの間で34年に新たな条約を結ぶ。新条約ではブラット修正条項は破棄されたが、グアンタナモ基地は両国が変更に同意するか、アメリカが一方的に放棄するかしない限り永久に租借することが認められた。つまりその後、キューバが基地の返還を求めても、アメリカは同意せず放棄もしてないので、現在に至っているというわけだ。租借料もこの時年間4085ドルへ値上げされている。
52年に再度のクーデターで首相に就任したパチスタは、独裁政治の下でアメリカへの経済的従属を強めていくが、これに反旗を翻したのがカストロだ。カストロはメキシコ亡命中にアルゼンチン人の革命家チェ・ゲバラと知り合い、ゲリラ部隊を組織して56年にヨットでキューバへ上陸。82人のゲリラ兵士は政府軍の待ち伏せ攻撃で12人に減ってしまうが、あれよあれよという間に勢力を拡大して、58年の大晦日にパチスタはドミニカへ亡命、独裁政権を崩壊させてしまう。
こうして誕生したカストロ政権だが、当初は反米社会主義路線というわけではなかった。カストロの新政府を真っ先に承認したのはアメリカだったし、アメリカを訪問したカストロはセントラルパークで3万人の聴衆を前に演説してニューヨーク市民の大歓迎を受けたたこともある。しかし農地改革で全土の4分の3もの耕作地を所有していた米国企業の土地を没収したり、米国資本の電力・通信会社を国有化するに及んで、アメリカ政府と全面対決。アメリカがキューバ産砂糖の輸入割当を減らすと、これに反発してあれよあれよという間にソ連に急接近したのだった。
かくしてグアンタナモ基地は、世界稀に見る「敵国の中の軍事基地」となり、キューバ危機の際には軍人の家族たちは2年間にわたってアメリカ本土へ疎開した。キューバ政府も黙って指をくわえていただけではなく、64年には基地への水供給をストップした。これに対してアメリカはハイチから船で水を運んで急場をしのぎ、後に海水淡水化工場を作って水を自給して対抗。キューバ政府が「アメリカが水を盗んでいる」と非難すると、自ら水道管を切断してアピールした。
キューバ政府は61年に「亡命者が基地へ逃げ込んでいる」と基地の周りを鉄条網で囲ったが、その後双方が境界線の周囲に地雷を設置した。アメリカ側の地雷は96年に撤去されて、侵入者感知センサーに取り替えられたが、キューバ側の地雷はそのままだ。
アメリカとキューバが核戦争寸前になるまで対立しても、基地では3000人以上のキューバ人労働者が働いていた。キューバ人にとって米軍基地は金払いの良い仕事場だったのだが、64年の給水ストップの報復措置で約半数の労働者がリストラされ、アメリカは代わりに中米の親米諸国からの外国人労働者を雇い入れた。キューバ政府も新たな労働者の米軍基地での就職を禁止したため、現在でも基地で働いているキューバ人は、2〜3人だけらしい。
アメリカは現在もキューバ政府へ毎年4085ドルの租借料の小切手を送り続けているが、カストロ政権になってからは受け取りを拒否。もっとも4085ドルじゃ現在のレートでは50万円にもならないですね。
さて、2001年の9・11テロの後、グアンタナモ基地にはアメリカが世界各地で捕まえたアルカイダ関係者やテロ容疑者の拘禁施設が作られている。なぜまた「敵国キューバ」の中にある軍事基地に収容しているのかといえば、周囲にはキューバが敷設した地雷原があるので脱走されにくいから。また社会主義国キューバの中にあるので、西側諸国の人権団体やマスコミが近づきにくいから。そしてグアンタナモベイはあくまで租借地でアメリカの領土ではないから、アメリカの人権法などは無視して無期限に思う存分キツイ取り調べができる・・・ということらしい。これが日本の米軍基地ならあくまで日本の領土なので、米軍兵士に対する治外法権はあっても日本人やその他の外国人の司法管轄権は日本が持っている。しかしグアンタナモベイは、キューバの主権も停止されているので、キューバ人犯罪者以外はキューバへ引き渡さなくても良いというのだ。
さすがにアメリカ政府の身勝手な解釈は国際的な非難を浴び、アメリカ最高裁も「グアンタナモベイはアメリカが排他的な管轄権を有しているので、アメリカの司法が及び、拘留者にはアメリカの法律による権利が認められる」と裁定を下したが、アメリカ政府は「拘禁されているのは敵側戦闘員だ」として数百人の拘禁を続けている。
キューバはこれを大々的に非難しているのかと思えば、カストロはアメリカからのテロ容疑者収容の通告を受け入れ、脱走者がいたら基地へ送還すると申し出たらしい。かつて世界各地で「反米ゲリラ支援国家」として名を馳せたキューバも、今となっては経済発展優先と言うことで、アメリカとの関係改善を望んでいるようだ。
★放棄された租借地:バイア・オンダ
1903年の恒久条約では、アメリカはグアンタナモ湾のほかオンダ湾(Bahia Honda)の租借権も取得していた。オンダ湾はキューバの首都・ハバナの西に位置する。しかしアメリカのマイアミ半島とは目と鼻の先で、あえて租借する意味はなかったのか、アメリカ軍は1912年まで占領したものの、基地は建設せずに放棄。34年の条約ではオンダ湾の租借については触れられず、租借権は正式に放棄されている。
★アメリカが支配した帰属未定地:ピノス島(松島)
1903年の恒久条約では、アメリカが軍事基地として利用する2ヵ所の租借のほかに、ピノス島をキューバ領から除外することも盛り込まれていた。キューバ領でなければ果たしてどこの領土なのかといえば、「帰属は将来の条約で決定される」ということで、とりあえず未定。未定なら島を支配するものは誰もいないのかといえば、米西戦争のときから占領しているアメリカが引き続き支配するということだった。
ピノス島はキューバ島に次ぐ大きな島で、面積は3061平方kmと、沖縄本島の約3倍。冒険小説『宝島』の舞台として想定された島でもある。砂糖キビのプランテーションが発展していたキューバ本土に比べ、ピノス島は未開発の土地が多く、帰属未定になるとアメリカ人がどっと進出し、土地会社が土地を買い占めて果物や野菜の農場を開いた。農業労働者や小作人として、キューバ本土や中南米各地、ヨーロッパからの移民が集まり、島の人口は1万人になった。そして中南米の日本人移民も「新天地」に夢を抱いてピノス島に集まって来た。彼らはピノス島を日本風に「松島」と呼んでいたらしい。ピノスは「松」という意味だから、直訳すればそうなるのだが、故郷に思いを馳せる気持ちが込められたネーミングだったのだろう。
しかし、肥沃なキューバ本土と違ってピノス島は土地が痩せていて、特に南部はまったくの不毛の地だった。アメリカ最高裁は1907年に「ピノス島はアメリカ領ではない」という判断を下していたが、思っていたほど価値のない島だとわかってアメリカも返還を決意。1925年のヘイ・ケサダ条約でピノス島はキューバ領ということが決まり、アメリカ人の多くは返還と前後して引き揚げた。一時は120人を数えたという島の日本人も、その後他の地へ移る者が相次いだ。
ピノス島はその歴史的経緯と産業の違いから、住民の間にキューバ本土とは別という意識が強く、現在でも特別自治区になっている。1978年にIsla de la Juventudと改称されたが、現地の日系人はこれを訳して「青年の島」と呼んでいるようだ。
平・ゆき フォトアルバム 「青年の島」の日系人社会の写真です
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