会社統治領(無人島開拓編)
 
 クリスマス島燐鉱会社  中部太平洋ココナッツ栽培会社  モルデン島化学会社  太平洋燐鉱会社
 バーンズ・フィリップ社  スワン諸島商業会社  大東電報局  玉置商会&大日本製糖

新たに領土にした無人島を開発しようという場合、政府が開発に乗り出すのは面倒だしリスクもあるので、「開拓したい!」という企業に期限付きで貸与し、行政などもその会社に任せてしまう場合があります。植民地支配のための会社統治領は国策会社が行ったのに対して、無人島開拓の場合は純粋な民間企業のケースがほとんどで、いわば「民間活力の導入」ってやつですかね。また個人統治という場合もありました。

あんまり昔の話を書くとキリがないので、ここでは20世紀以降に会社統治だった島についてを取り上げます。




【過去形】クリスマス島燐鉱会社(豪領クリスマス島) 

豪領クリスマス島の地図 

南の太洋にポツンと浮かぶ島には、燐鉱石の採掘で潤っている(いた)島が少なくありません。燐鉱石はもとを質せば鳥の糞。大海原を横断する渡り鳥の糞が何万年にもわたって積み重なり、サンゴ礁の石灰と化合して出来たのが燐鉱石で、極上の肥料として価値が高いわけですが、掘り尽くしてしまえば、オシマイです。

経済を支えてきた燐鉱石がなくなって国家存亡の危機にある島といえば、南太平洋のナウル共和国が有名ですが、独立国じゃなければ似たような状況の島はあちこちにあります。例えばインド洋に浮かぶオーストラリア領のクリスマス島もその1つで、場所はインドネシアのジャワ島の南の沖合で、オーストラリア本土からは遠く離れて飛び地のような存在。住民1500人のうち、61%が中国系で25%がマレー系、残りは白人とインド系が少々。なにやらシンガポールの民族構成と似てますが、実際にオーストラリア領になったのは1958年からで、それまではイギリスによってシンガポールを中心とした海峡植民地(※)の一部として統治されていました。

※海峡植民地は東南アジアでのイギリスの直轄植民地で、その範囲はシンガポールとマラッカ、ペナン(マレーシア)、ラブアン島(ブルネイ沖合の島で現マレーシア領)、クリスマス島、ココス諸島(オーストラリア)と飛び地状。当時のマレー半島もイギリス植民地だったが、こちらは各地のスルタンを通じた間接統治で、シンガポールの海峡植民地総督がマレーの高等弁務官を兼任していた。
クリスマス島はもともと無人島で、17世紀のはじめに発見され、1643年のクリスマスにイギリス東インド会社の船が改めて確認したのでこの名前がついたが、実際に上陸したのは1688年が最初だった。1887年に島で燐鉱石が見つかったため、海洋学者のジョン・マーレー卿やココス諸島を統治していたクルーニーズ・ロス家の要請で翌年イギリスが領有を宣言。1889年からクルーニーズ・ロス家に貸し与えられ、1897年にマーレー卿とクルーニーズ・ロス家はクリスマス島燐鉱会社を設立。シンガポールから中国系労働者を、ジャワ島からマレー系(インドネシア人)労働者を導入して採掘を始めた。

クリスマス島は1900年からイギリス海峡植民地の一部となり、シンガポールからシーク教徒のインド人警官隊が派遣されたが、実際の統治は海峡植民地政庁と会社とが共同で行っていた。第一次世界大戦後、クリスマス島燐鉱会社はイギリス、オーストラリア、ニュージーランドの政府が共同出資する英国燐鉱委員会(BPC)に改組された(※)。

※このほかBPCが燐鉱石の採掘を行っていたのがイギリス領のオーシャン島(現キリバス領バナバ島)とイギリス、オーストラリア、ニュージーランドによる国連の委任統治領だったナウル。
戦前、クリスマス島から輸出される燐鉱石の最大の購入先は日本で、ジャパニーズ・ピア(日本埠頭)という日本向け輸送船の専用施設も作られた。日本軍はクリスマス島を占領して燐鉱石を日本へ運ぼうとしたが、戦況悪化で輸出できないまま敗戦。1948年からクリスマス島の行政は、オーストラリア、ニュージーランド政府とBPCの共同管理に移され、1958年にはシンガポールの自治領化(59年)を前に、オーストラリア政府がシンガポール政庁へ290万ポンドを支払って、正式にオーストラリアの海外領土になった。戦前(1930年代)は300人足らずだった島の人口は、採掘の拡大に伴ってシンガポールやマレーシア、ココス諸島からの移住者が急増。生活のすべてが鉱山に支配されていた島民たちの状況は、1970年代に労働組合が結成されてから大きく改善され、以後現在に至るまでクリスマス島の行政には労組が大きな影響力を持つことになった。

1981年にはクリスマス島燐鉱採掘会社(PMCI)が設立されて、イギリスやBPCは採掘権を放棄。84年には島民たちにオーストラリアの市民権や社会福祉制度、参政権などが与えられた。翌85年にPMCIはオーストラリア政府の公社になり、86年にはそれまで会社が行ってきた道路や街灯整備や住宅管理、映画館やプールなど娯楽施設の運営を行うためにクリスマス島サービス社を設立するなど、島の行政は名実共にオーストラリア政府が行うようになった。

しかし燐鉱石はいつか掘り尽くされるもの。クリスマス島の鉱脈はまだ残っているが、質の良い鉱石が掘り尽くされたため採算性が低下し、87年末に公社は鉱山の操業停止を決定した。それまで島の産業のすべてだった鉱山が閉山すれば、島民はすべて失業してしまうことになる。とりあえず91年に労組が鉱山を買い取って、今までに採掘したまま山積みになっていた鉱石を精製してリンの輸出を再開しているが、クリスマス島の長期的な生き残り策として、観光開発によってリゾート地として売り出すことを決定。オーストラリア本土のほかバリ島からも航空便が就航し、宿泊施設が整備され、93年にはカジノがオープンした(その後閉鎖)。リゾート地として売り出すには、燐鉱石の採掘で穴ぼこだらけになったままでは観光客は呼べないと、現在では島の65%が国立公園に指定され、熱帯雨林の復元事業が行われている。

ナウルの場合と違って、クリスマス島はバック(オーストラリア)がしっかりしているので、燐鉱石がなくなっても新たな道で着実に生き残っていけそうです。ま、それに、「まったく働かない」ことで世界的に有名なナウル人と違って、クリスマス島の住民の多くを占める中国人は働き者ですからね。

クリスマス島では民族ごとに居住地区が分かれていて、白人系は公共施設があるセツルメント(居留地)地区、中国系は山の中腹にあるプンサーン(広東語で「半山」)地区、マレー系はカンポン(マレー語で村の意味)地区に住んでいたが、最近では観光産業の拠点になっているセツルメントに中国系も移りつつあるようだ。

インド洋・クリスマス島 クリスマス島ツアーの観光会社のサイト




【過去形】太平洋プランテーション会社&中部太平洋ココナッツ栽培会社(キリバス領クリスマス島) 

太平洋の地図 Christmas島(Kiritimati島)は北緯0度(赤道)よりやや北、西経160度のあたりの紫色の島 
キリバス領クリスマス島の地図 

太字の島がキリバス領
「クリスマス島」という島は、現オーストラリア領のほかにもう1つありました。やはり元イギリス植民地で太平洋のライン諸島にあり、1979年にキリバスが独立してからはその一部。正式名称はキリバス語で「キリティマティ島」になってます。インド洋のクリスマス島はリン鉱石の採掘会社に統治されていましたが、太平洋のクリスマス島を支配していたのは、ココナッツの栽培会社。「ココナッツ会社の島だなんてカワイイ!」と思うかも知れませんが、椰子の果肉を乾燥させたコプラは、石鹸やマーガリンなどを作るヤシ油の原料になります。珊瑚礁の小さな島の輸出産業といえば、たいてい燐鉱石かコプラか魚。昔は冷凍船なんてなかったから魚は自給自足用にしかならず、鳥の糞(燐鉱石)がなければココナッツの栽培がほとんど唯一の輸出産業でした。

さて、クリスマス島は世界最大の環礁で、その名前がついたのは1777年のクリスマス・イブに、クック船長がこの島を発見したから。19世紀に入ると捕鯨船が立ち寄ったり、難破した船の乗組員が上陸したりしていたが、島の燐鉱石に目を付けたアメリカ人が1857年に島の所有権を宣言。アメリカやオーストラリアの燐鉱石採掘会社が権利を借りて採掘を試みるが、採算が合わずいずれも数年で撤退した。1972年に採掘権を借りた人が島へ調査へ行ったところ、ハワイ在住の別のアメリカ人が燐鉱石の採掘を行っていることを発見。ハワイ(当時は独立国)のアメリカ領事へ「彼はアメリカ政府の承認を得て採掘を行っているのか」を問い合わせたが、ウヤムヤにされたため、採掘権の賃借は解約され、島で燐鉱石を採ろうとする者はいなくなった。

こうしてアメリカの領有権があやふやななかで、1882年にイギリスが島の領有を宣言。アメリカは抗議したが、それを無視して1902年に太平洋プランテーション会社へ島を99年間の契約で貸し与えた。会社は島にココナッツの樹を植えてコプラの生産を始めたが、1913年にフランス人の神父が島の権利を受け継ぎ、翌年には中部太平洋ココナツ栽培会社(Central Pacific Coconut Plantations Ltd)が引き継いだ。クリスマス島が発展したのはこの時期で、引き続き島に残った神父の指導で80万本の椰子が植えられ、タヒチやハワイ、ニウエ(現ニュージーランド自治領)などから移り住む人が増えて、ロンドン村、パリ村、ポーランド村、バナナ村というユニークな名前の4つの村ができた。

ミレニアムブームが起きる前までの日付変更線
島の貸与は1939年で取り消され、戦後はイギリス軍の基地が出来て、1956〜58年にはイギリスの、1962年にはアメリカの核実験が行われた。現在では核実験の時にフェニング島(現タブアエラン島)へ疎開していた島民たちも戻り、島の人口は約5000人。島の産業は昔ながらのコプラの生産のほか、最近では国連の援助で塩田ができて、「クリスマス島の塩」を販売中。とりあえず、残留放射能はないそうです。

そして観光の方でも、最近では日付変更線を変更して、「世界で21世紀を一番最初に迎える(有人)島」として売り出していた。ちょっと前の世界地図を見ると、日付変更線は西経(=東経)180度のところでほぼ一直線に引かれ、ベーリング海峡やトンガ、フィジーのあたりで東西に多少ジグザグしている程度だったが、最新の地図ではクリスマス島などライン諸島一帯で大きく東へ張り出している。キリバスは国の中を日付変更線が通っていたので、首都タラワとクリスマス島とでは「時差はないのに日付が違う」という状態になっていた。日付変更線は別に国際条約で決められているものではないので、日付をどこで変えるかはその国次第なわけですね(※)。

※1884年に開催された万国子午線会議では、東経や西経はイギリスのグリニッジが0度と決められ、必然的にその反対側にある180度で日付を変える国際的慣習になった。
まぁ、しかしミレニアムのブームが去って、クリスマス島へ行く定期航空便は2004年に廃止。国内線もなく、現在ではハワイから週1便の国際チャーター便があるだけで、観光するなら最低でも1週間は滞在しなくちゃならないとか。

クリスマス島ホームページ クリスマス島の紹介や写真など。「クリスマス島からクリスマスカードを発送」なんてこともやってます
国際機関太平洋諸島センターークリスマス島 観光案内やホテルの紹介など
クリスマス島(キリバス共和国) 3月23日(火) クリスマス島の訪問記




【過去形】モルデン島化学会社(モルデン島) 

太平洋の地図 モルデン島はLine Islandsの「L」の左上の紫色の島
モルデン島の地図 1943年作成の地図

●まだ準備中です

なぜかクリスマス島ともども「英米共同統治領」と表記されてる1960年代のモルデン島




【過去形】太平洋燐鉱会社(ジャービス島) 

太平洋の地図 Jarvis島は北緯0度(赤道)よりやや南、西経160度のあたりの黄緑色の島

太平洋の地図を見ると、東西に3700kmも広がるキリバスの領域に食い込むような形で、アメリカ領の島がいくつか散在しています。ジャービス島(Jarvis Island)、ベーカー島(Baker Island)、ハウランド島(Howland Island)などで、現在これらの島々は無人島だが、19世紀後半にはアメリカやイギリスの燐鉱石採掘会社が操業を行っていた。そのうちジャービス島は20世紀初頭の一時期、イギリス領としてイギリスの太平洋燐鉱会社(Pacific Phosphate Ltd)が管理していたことがある。

ジャービス島は1821年にイギリス人が発見し、その後アメリカの捕鯨船が航海中に死んだ乗組員を埋葬するために上陸していたが、島に燐鉱石があることがわかり、1857年にグアノ法に基づいてアメリカが領有を宣言し、アメリカの会社が採掘を始めた。アメリカの会社は1879年に撤退し、代わってオーストラリアのジョン・T.アランデル社が1883年から91年にかけて、クック諸島やニウエ(現ニュージーランド自治領)の住民を雇って燐鉱石を採掘し、1889年にイギリスもジャービス島の領有を宣言した。

イギリスはナウルなどで燐鉱石の採掘を行っていた太平洋燐鉱会社に、1906年にジャービス島の賃借を認めたが、燐鉱石はほとんど掘りつくされていたため実際には島は放置され続けた。しかし1930年代になって太平洋を横断する航空路が開設されると、ジャービス島のような太平洋に浮かぶ島は飛行機の中継地点(※)として注目されるようになり、1935年にアメリカはハワイから移民(といってもたった数人らしい)を送り込んで、改めて領有を宣言。こうしてジャービス島は最終的にアメリカ領になった。

※当時はもちろんジェット機はなく、太平洋横断は数日がかりで、乗客は夜間は中継地のホテルに泊まった。実際にはジャービス島は飛行機の中継地には使われず、ミッドウェイ島、ハワイ、ウェーク島、グアム島、カントン島 などが中継地として使われた。
アメリカが改めて領有宣言をした背景には、当時アメリカと緊張が高まっていた日本がジャービス島を占領して航空拠点を築いてしまうことを恐れていたようだ。しかし太平洋戦争が始めると、アメリカは1942年に移民を引き揚げていったん島から撤退した。

ベーカー島やハウランド島の歴史もだいたい似たような感じで、19世紀半ばにアメリカ人が発見。1857年にグアノ法に基づいてアメリカが領有を宣言し、19世紀後半にはアメリカの会社やイギリスのジョン・T.アランデル社が燐鉱石の採掘を行った後に撤退、1935年にアメリカが数人のハワイ人を移住させて改めて領有宣言を行った。

戦後、これらの島は無人島に戻って、現在では海洋生物などを調査するための研究者しか立ち入りを認められていません。

Jarvis Island Home Page jarvis島の生い立ち紹介や写真など(英語)




【過去形】サモア海運貿易会社&バーンズ・フィリップ社(ナサウ島)

太平洋の地図 American Samoaのnの字の右側にあるピンクの島がナウサ島

クック諸島の地図
「キャプテン・クック」またの名を「クック船長」って、私はてっきり海賊の親分かなんかだと思ってましたが、こういう業績を残した人でカタギだったんですね。知りませんでした。。。

で、そのクック船長が18世紀に探検したということで命名されたクック諸島は、南北1000kmの範囲に15の島々が散らばり、現在ではニュージーランドと自由連合を組む、限りなく独立国に近い自治領。南部の7つの島は1888年にイギリスがラロトンガ島の酋長を協定を結んで保護領にし、北部の島々も1892年にイギリスが領有宣言。1901年に当時イギリスの自治領だったニュージーランドに管轄が移されたが、北部のナサウ島では行政機関が設置されず、民間会社がプランテーションを開いて統治し続けた。

これはアメリカ政府もナサウ島の領有権を主張していたため。ナサウ島は無人島だったが、1873年にアメリカ人のジョン・エラコットが定住して、コプラや綿花のプランテーションを開拓。当時アメリカでは、無人島の発見者がアメリカ政府に届け出れば、アメリカ政府はその島をアメリカ領土とし、島の発見者に利用権を認めるという法律(グアノ法)があった。エラコットは1874年にアメリカ政府へナサウ島の発見を届け出ていたので、島はアメリカ領ということになっていたのだ。しかし、アメリカもイギリスもたいした利用価値がない小さな島のことで対立したくなかったので、お互い領有宣言をしたものの、そのまま放置し続けた。

ナウサ島の所有者はその後転々と変わり、エラコット氏は1892年にアメリカ人のムーア氏に4000ドルで売却。1902年にサモア在住のドイツ人2人に3万マルクで売られ、05年にそのうちの1人レイヤ氏が唯一の所有者となり、07年にはニュージーランド人とオーストラリア人が設立したサモア海運貿易会社が買収。そして1926年にバーンズ・フィリップ社が4000ポンドで買い取った。

バーンズ・フィリップ社はオーストラリアを拠点にしたイギリスの商社で、ジェームス・バーンとロバート・フィリップが1865年に設立。1870年代から太平洋の各地で海運、貿易、プランテーション開発などに積極的に乗り出すとともに、イギリスの太平洋進出の尖兵になって後に日本の委任統治領になるマーシャル諸島へも進出。「南太平洋のハドソン湾会社」と称されていたらしい。

しかし1941年に太平洋戦争が勃発すると、「たかがヤシの実の干物を運ぶために、船が沈められてはたまらない」とバーンズ・フィリップ社はナウサ島のプランテーションの放棄を決意。イギリスとアメリカに島を買い取るように求めた。これに応じたのがイギリスで、45年にニュージーランド政府に命じて2000ニュージーランド・ポンドで島を買い取らせ、クック諸島全体が正式にニュージーランドの領土になった。

ナサウ島はその後、「はるか昔に先祖が入植していた」というプカプカ島の島民たちがニュージーランド政府から買い取って移住。バーンズ・フィリップ社はオーストラリアの大手食品・流通会社として、現在も盛業中です。

nassau ナサウ島の写真があります
Maritime Timetable Images 昔のバーンズ・フィリップ社の航路時刻表の表紙
 




【過去形】ニューヨーク・グアノ社&アルビオン化学会社&
スワン諸島商業会社&ジブラルタル汽船(スワン諸島)

スワン諸島の地図 1985年

スワン諸島(Swan Islands)つまり白鳥諸島?どこにあるのかといえば、中米大陸にほど近いカリブ海。現在はホンジュラス領ですが、1972年まではアメリカ領でした。白鳥なんていそうにない面積あわせて8平方km足らずの2つの小さな島ですが、海亀などがいて現在は自然保護区になっているとか。なぜそんな小さな島をアメリカが支配していたかと言うと、それなりの利用価値があったからで、最初は鳥の糞、次にココナッツ、最後に謀略基地です。

スワン諸島はもとから無人島で、最初に発見したのはコロンブスだという由緒正しき島(?)。1502年にこの島に着いたコロンブスは、Islas Santa Ana(聖アンナ島)とうやうやしく命名したが(※)、淡水がなかったためすぐに立ち去り、島の存在はすぐに忘れられた。1750年頃にキャプテン・スワン(おそらく海賊)によって改めてスワン諸島と命名され、カリブ海を跋扈していた海賊の隠れ家になっていた。

※聖アンナとはマリアさまの母親で、キリストのおばあちゃん。
島に最初に本格的に入植しようとしたのは、ケイマン諸島(現在もイギリス領)から1840年にやって来た2人で、島に生えていた木で船を作ったが、ハリケーンで沈没。1850年には再びケイマン諸島からサミュエル・パーソンズという人が移住してヤギの放牧を始めた。

しかし1856年にアメリカでグアノ法(無人島の発見者がアメリカ政府に届け出れば、アメリカ政府はその島をアメリカ領土とし、島の発見者に利用権を認めるという法)が可決されると、翌年4月にジョン・バレンティン・ホワイトというアメリカ人が「スワン諸島を発見した」とアメリカ政府に届け出たので、島はアメリカ領となり、ホワイト氏の所有地になってしまう。ホワイト氏は3ヵ月後にスワン諸島を大西洋および太平洋グアノ社へ売却。翌年改めて島を調査したところ、300万トン以上の燐鉱石(=グアノ)があることが判明し、さっそく採掘を始めた。哀れなのはパーソンズさんで、数年後に放牧したヤギの様子を見に行ったところ、島は会社に占領され、放し飼いにしていたヤギは鉱夫たちに食べられいた。抗議しようにも、相手はアメリカの法律を盾に取っているので泣き寝入りしたとか。

その後、スワン諸島は次々と転売され、1886年にはニューヨーク・グアノ社が、1902年にはアルビオン化学会社が購入した。しかし同社は2年後に倒産してしまい、島は放棄されていたところ、アロンゾ・アダムスという船長が「捨てられていた島を『拾った』」と称して所有権を主張。アダムス船長は島に灯台と無線局を建て、「スワン諸島の王」を自称していたが、1906年にスワン諸島商業会社に島を売却した。その頃、すでに燐鉱石はあらかた掘り尽くされていたので、会社ではココナッツを植えてコプラの生産をしていたが、1914年にはアメリカ政府の測候所が建てられた。

※「白鳥の王様」を名乗ってなにかいいことがあるのかと思えば、アダムス船長はその時に結婚したそうで、お孫さんがこちらに投稿しています。
そんなスワン諸島で1920年に突然領有権を主張しだしたのがホンジュラスだ。「島はスペインのコロンブスによって最初に発見されたので、島から一番近い元スペイン領であるホンジュラスの領土であるべき」というのがその言い分だが、根拠としては説得力に欠けるため、アメリカは無視した。

戦後、島はハリケーンで荒れ果てて、ほとんど放置状態だったが、1960年にジブラルタル汽船という会社によって買収された。イギリスの船会社が貨物船の中継拠点でも作るのかといえば、なぜか作ったのはスワン・ラジオという放送局で、スペイン語のラジオ番組を流し始めた。

番組の内容はといえばもっぱらキューバの悪口で、カストロ議長を「アゴひげのブタ」「女々しい同性愛者」とけちょんけちょんにこき下ろした。ジブラルタル汽船という会社はニューヨークに本社があることになっていたが、船は持っておらず、スワン・ラジオはCIAによる反カストロ政権のブラック・プロパガンダ放送だったのだ。

※謀略的なプロパガンダ放送にもいくつかのパターンがあって、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)のように堂々とアメリカ政府がやっている放送だと名乗ってカストロ政権を批判するのはホワイト・プロパガンダ。本当はアメリカ政府やCIAがやっているのに「キューバ人の反政府組織」や第三者を装って批判するのがブラック・プロパガンダ。さらに謀略性が高くなると相手国の正規の放送を装ってニセ電波を流すこともある。例えば70年代から80年代にかけて、台湾附近から中国大陸に向けて「ニセ中央人民広播電台」のニュース番組が流れていた。中央人民広播電台は中国の国営ラジオ局だが、ニセ放送では最初と最後の10分は本物のニュース(の録音)を流し、真ん中の10分間だけ台湾製(?)のニセニュースを流していた。もっともニセモノの部分はアナウンサーの発音が訛っていたのでモロバレだったとか・・・。ニセモノが装うのは政府の放送ばかりとは限らず、CIAがタイ共産党の地下放送のニセモノを流したり(本物は中国から放送していたが、ニセモノはラオスから流していたので、タイではニセモノの方がよく聞こえたとか)、最近ではブーゲンビル島の独立ゲリラのニセ放送を、パプア・ニューギニア政府が流していた例がある。
スワン・ラジオに対してキューバ政府は「ヒステリックな籠の中のオウム」と評していたが、その役割はキューバ人に反カストロ政権の宣伝をするためだけではなかった。1961年のピックス湾事件(※)の直前には「上手に虹を調べてください」「魚はまもなく上昇するでしょう」など謎のメッセージを繰り返し読み上げ、工作員向けの連絡にも使われていたという。
※CIAがアメリカへ亡命したキューバ人をゲリラ組織化して、軍事訓練や武器・資金の援助を行いキューバのピックス湾に上陸させた事件。しかしゲリラが期待していた米軍の支援はなく、ほどなく全滅して失敗に終わった。
ピックス湾事件の失敗後、スワン・ラジオの放送は縮小されて、ラジオ・アメリカズ(ラジオ・アメリカ大陸)など別の局名で反カストロ放送が流されるようになった。この間、ホンジュラスはスワン諸島の領有権を断念したわけではなく、61年にはホンジュラスの学生がいきなり上陸してホンジュラス国旗を立てるという事件が起きたが(ピックス湾事件のパロディ?)、71年にアメリカ政府は半世紀前には相手にしなかったホンジュラスの領有主張を認めて、スワン諸島の割譲(ホンジュラス側に言わせれば返還)を発表。翌72年に島はホンジュラスに引き渡された。

もっともスワン諸島がホンジュラス領になった後も、アメリカは協定で引き続き島を利用することができ、島の放送局からのキューバ向けプロパガンダ放送は継続。75年頃にはスワン・ラジオが復活したこともある(※)。また1980年にはニカラグアのサンディニスタ政権を倒すために、CIAが反政府ゲリラの訓練基地として使っていたこともあり、この頃はニカラグア向けの反政府プロパガンダ放送も流されていた。スワン諸島を割譲して電波を出している島をホンジュラス領にすることで、「アメリカから流されている謀略放送」という批判をかわそうとしたようだ。

※アメリカが沖縄を統治していた頃、沖縄から中国向けのプロパガンダ放送が流されていたが、1972年の沖縄返還にあたってこの放送施設の存在が問題になり、日本はアメリカに撤去させた。上述した中国向けのアヤシイ放送はもともとCIAが流していたが、この頃台湾政府へ移された見られている。
現在ではアメリカとキューバの関係もそれなりに良くなったためか、スワン諸島の胡散臭い利用はなくなったようで、島は89年にホンジュラス政府によって自然保護区に指定された。島に住んでいるのはココナッツ農家1軒とホンジュラス軍の守備隊だけ。最近ではアメリカ資本のスワン諸島デベロプメント社が島の所有権(ひょっとすると行政権も)を入手して、大型リゾートホテルやカジノを建設して観光客を集めるとか、人口5000人が住むタックスヘブン(租税回避地)の都市を作るとか、ヒト胚芽細胞の研究施設を建設する・・・などの構想をブチ上げています。なんかここと似たような匂いがして、かなり怪しげ。

Swan Island スワン諸島の紹介や写真(英語)
The Swan Island スワン諸島デベロプメント社のHP。なんか怪しいような気が・・・(英語)
Clandestine Radio: An Anti-Castro Historiography キューバ向けの謀略放送について(英語)
ClandestineRadio.com: Intel: Radio Americas スワン・ラジオに代わってCIAが始めたラジオ・アメリカズの当時の放送を聞くことができます(スペイン語)
アジア放送研究会 アジア各地、主に朝鮮半島や中国向けの地下放送について詳しいです
月刊短波 世界各地の地下放送局の動向についても詳しいです
ヤジ研アジアメディアリンク7 アジア各地の地下放送局や反政府組織、独立ゲリラへのリンク集。このHPの姉妹サイトですヨ




【過去形】大東電報局、英ケーブル&ワイヤレス社(アセンシオン島)  

大西洋とアセンシオン島の地図 
セントヘレナとアセンシオン島の地図 
アセンシオン島の地図 
大東電報局の海底ケーブル網(1920年代) 赤の地域が大英帝国の植民地、赤線が大東電報局の海底ケーブル

いまどき通信手段としてはほとんど死滅してしまった電報。かつて日本では「チチキトク」「カネオクレ」のようにカタカナ書きで配達されていましたが、漢字しかない中国語の電報はどうやって配達されるのだろうと疑問に思ったことがあります。北京語ならまだピンインというローマ字がありますが、広東語だとまともなローマ字もないし・・・。

で、香港に住んでいた頃、1回だけ電報を受け取ったことがあります。配達された電報は4ケタの数字がずらずら並んでいるだけで、まるでスパイの暗号みたいなシロモノ。「お問い合わせは大東電報局の窓口へ」と書いてあったので、バスと地下鉄を乗り継いで九龍の中心街にある電報局まで行ったところ、窓口の係員が暗号表を片手に4ケタの数字を1文字の漢字に直して、ようやく中国語の電文を受け取ることができました(解読した電文は、「新年快楽」=あけましておめでとうだった・・・)。これじゃ電報の意味がないじゃんと思うのですが、香港人によれば「電報を受け取ったら配達員にチップを渡して、その場で解読してもらえばいいんだよ」。なるほど・・・、しかし受け取るほうも金がかかるなんて、香港の電報局(大東電報局)ってアコギな商売してるんだなと思ったものでした。

さて、その「大東電報局」とはイギリスの大手通信会社ケーブル・アンド・ワイヤレス社のこと。同社は1872年に設立されたイースタン・テレグラフ社が前身で、偉そうに「Great Eastern」と自称していたので、香港や上海などアジアへ進出するにあたって付けた漢字表記が大東電報局(※)。1934にケーブル・アンド・ワイヤレス社に社名を変え、戦後イギリスの労働党政権の下で国有化され、80年代にはサッチャー政権によって再民営化されたりの変遷を辿ったが、漢字表記は現在に至るまで「大東電報局」のままという次第。

※日本初の国際海底ケーブルは、1871年にデンマークのグレート・ノーザン・テレグラフ社(大北電信会社)が敷設したウラジオストク〜長崎〜上海線で、上海で大東電報局のケーブル網と接続した。大北電信はロシアの影響下にあった企業で、シベリア経由の欧亜陸上電信線を敷設。1943年まで海底ケーブルを用いた日本の国際通信を独占し、その後も1969年まで利権を保有していた。ちなみに「漢字の4ケタ数字化」はもともと大北電信が考案したもの。
大東電報局は19世紀後半、全世界に広がっていたイギリス植民地を結んで海底ケーブルの巨大なネットワークを築いたが、南大西洋のアセンシオン島では行政権を取得して、政府の運営まで行っていた。

アセンシオン島はイギリス領のセントヘレナの一部で、もともとは無人島。16世紀初めにポルトガル人が発見したが、当時は水源が見つからなかったため居住する者はなく、1815年にナポレオンがセントヘレナ島へ追放された際に、ナポレオンの逃亡を防ぐためにイギリスの守備兵が配置されるようになった。その後島にはイギリスの海軍基地が建設されたが、ここに目をつけたのが大東電報局で、イギリス本土と南アフリカの中間地点にあたることから、1899年に海底ケーブルの中継基地を建設(※)。さらに南米へのケーブルも敷設した。

※1899年に南アフリカでは、オランダ系移民が作ったオレンジ自由国、トランスバール共和国とイギリスとの間でボーア戦争が勃発したため、イギリス本土と南アフリカを結ぶ通信線が突貫工事で敷設された。
こうして1922年にイギリス軍がアセンシオン島の海軍基地を閉鎖すると、イギリスは島の行政権を大東電報局に与え、同社の現地支配人が島の行政長官を兼ねることになった。もっともアセンシオン島には先住民はいないし、住民はすべて電報局の職員とその家族だったから、イギリスがわざわざ国費を使って役人を派遣するよりも、会社に住民(=職員)の行政管理をすべて任せてしまった方が効率的だということ。

しかし、イギリス海軍は撤退する前に島でのグアノ(鳥の糞が積み重なってできた肥料)の採掘権を別の会社に売り渡していたため、翌23年に作業員らが上陸し、島に軽便鉄道を敷いて採掘を始めた(1934年に中止)。また第二次世界大戦では島にアメリカの空軍基地が設置され、戦後いったん閉鎖されたものの、57年に再開した。

やがてアセンシオン島を軍事基地と海底ケーブル拠点だけに使うのはもったいないということになり、この当時は国有公社になっていた大東電報局による行政運営は1964年に終了。その後は再びイギリス政府から行政長官が派遣されるようになり、BBCのアフリカ・南米向けの中継放送局や米NASAによる人工衛星などの追跡管制局が建設された。

現在では衛星による通信網の発展で、海底ケーブルの中継基地は閉鎖され、アセンシオン島には米軍基地と英軍基地があるだけ。島の住民1100人は基地の関係者かイギリスが派遣する政庁の役人、もしくはその家族。島に立ち入ったり居住するにはアセンシオン政庁の許可が必要なので、実際に部外者は住めない仕組みだが、長年この島で働いた人たちの間では「退職後の居住を認めて欲しい」という要求が上がっているとか。最近では観光客への開放も始まっている。大東電報局の事務所だった建物は、ホテルに改装されている。

ちなみに香港の大東電報局ですが、1988年に香港の電話会社を買収して香港テレコムとして改組。イギリス植民地の香港で通信事業を一手に握る企業になったが、1997年に香港が中国へ返還されると、イギリス資本が香港の通信会社を握り続けていることが問題になり、さらに市場開放による新電電の登場で業績も先行きが怪しくなったため、英ケーブル&ワイヤレス社は2000年に香港テレコムをシンガポール・テレコムへ売却すると発表(※)。アジアの金融センターとして香港とはライバル関係にあるシンガポールに通信事業を握られてはヤバイと大騒ぎになり、結局香港随一の大富豪・李嘉誠の息子が経営するPCCWが香港テレコムを買収したのだが、これがトンでもないバカ息子で、業績は急速に悪化。そのうえ「植民地支配の敵討ち」とばかりに英ケーブル&ワイヤレス社を買収しようとして失敗し、株価は3年間でなんと96%も下落して、当時香港テレコム株を買っていた私は大損をこいたのでした。チャンチャン♪

※それでいて、マカオテレコムは今でも大東電報局が最大株主。日本へも一時進出してケーブル・アンド・ワイヤレスIDCを設立していたが、2005年にソフトバンクへ売却して撤退した。
英ケーブル&ワイヤレス社の旗(1934年) 

アセンシオン島の公式サイト (英語)
Georgetown 現在の島の写真(英語)
History of the Atlantic Cable & Submarine Telegraphy - Ascension Island 島の歴史や大東電報局が発行していた切手について(英語)
Ascension Island Heritage Society アセンシオン島の歴史冠する各種資料(英語)
Cable & Wireless 「大東電報局」の公式サイト(英語)
香港大東電報局職員会 大東電報局は植民地で労働者を搾取していたとか(中国語)
GN Netcon Japan 「大北電信会社」の日本語サイト。現在では通信事業をやめてヘッドフォンや補聴器のメーカーに




【過去形】玉置商会&大日本製糖(南大東島&北大東島) 

日本国内にも戦前まで特定の会社が統治していた地域がありました。もちろん主権は大日本帝国にあったのですが、市町村は設置されず、行政はすべて会社にお任せというもの。一体どこにそんな場所があったのかといえば、沖縄の南の果てに浮かぶ南大東島や北大東島などです。

これら大東諸島はもともと無人島で、1885年(明治18年)に日本の領有権が確定。島には木々が生い茂り農業に適していそうだということで、政府にはさまざまな「開墾願」が出されたが、島の周りはすべて断崖絶壁で囲まれ、船で現場へ向かっても上陸できずに相次いで断念。結局1899年(明治32年)に玉置半右衛門が政府から島の30年間貸付を得て、翌年に八丈島出身の開拓移民22人を南大東島へ上陸させることに成功した。

なぜ八丈島出身者かというと、玉置半右衛門自身が八丈島出身だったから。半右衛門は大東諸島の開拓の前に、鳥島へ八丈島から移民を送り込み、大成功していたのだ。半右衛門は若い頃、大工の見習いとして横浜の外国人居留地で働いていたことがあり、その時外人たちが羽毛の布団を使っているのを知った。後に小笠原の父島開拓に大工として参加したが、「もっと南にアホウドリがうじゃうじゃいる島がある」というウワサを聞き、「じゃあ、そのアホウドリを片っ端から捕まえて羽毛を外国に輸出したら大もうけできるのでは」と閃いた。そして1888年(明治21年)、八丈島で募集した移民を連れて念願の鳥島に上陸し、思ったとおりの成果を上げた。

なにしろアホウドリは名前の通りアホで、人間が近寄っても逃げようとせず、手づかみでホイホイ捕まえられる。それに渡り鳥だから、片っ端から捕まえても新たにどんどん飛んでくるというわけで、鳥島では毎年10数万羽、15年間で500万羽ものアホウドリが捕獲され、なんとアホウドリを運ぶための鉄道まで敷かれたほど。かくして半右衛門は巨万の富を築いたが、やがてアホウドリは乱獲のため絶滅に近い状態に追い込まれてしまった(※)。

※鳥島は1902年に大噴火を起こして、住民125人は全滅。「アホウドリの崇り」だと噂されたとか。
アホウドリが渡ってこない時期の産業として、半右衛門は鳥島を漁業基地にしようとしていたが、フィリピン沖へ出漁した途中、半右衛門は南大東島を目撃して、次はここを開拓しようと意欲に燃えた。こうして鳥島にいた八丈島出身の開拓者や新たに八丈島で募集した移民を南大東島へ送り込み、サトウキビの栽培を始めた。次いで1903年には北大東島へも移民を送り、こちらではサトウキビの栽培に加えて燐鉱石の採掘も行った(※)。
※燐鉱石は労働者がツルハシで掘っていたが、戦後やって来たアメリカ兵が「もっと効率よくヤリナサイ!」とブルドーザーやパワーシャベルで運んで来て機械化したところ、土やサンゴのかけらが燐鉱石と混じってしまい、品質が低下して売れなくなり、採掘は中止されてしまった。
こうして大正時代には南大東島と北大東島の人口はそれぞれ2000人を超えたが、島の住民は3種類に分かれていて、ピラミッド型の階級社会になっていた。最上位に位置するのが玉置商会の社員で、その下は玉置商会から土地を貸し与えられた「親方」や「島民」と呼ばれる八丈島出身の小作農たち。そして最下層は親方に雇われた「仲間」と呼ばれる沖縄本島出身の出稼ぎ農業労働者だった。

南大東島や北大東島は沖縄県島尻郡に属していたが、市町村は設置されず、糖業地として玉置商会が行政運営を行った。市町村がないとどういうことになるかというと、道路建設やゴミ収集など衛生管理は玉置商会が行い、学校も玉置商会が経営(私立玉置尋常小学校)。郵便配達も玉置商会が行い、外部から島へ手紙を出す時は宛て先を「大阪郵便局気付・・・」と書いて、大阪から島までは玉置商会の船が運ぶ仕組み。さすがに警察権までは与えられず、警官は玉置商会が政府に金を払って請願巡査(※)を派遣してもらっていた。また市町村役場がないので、住民は島で住民登録はできず、住民票や戸籍は八丈島や沖縄本島などに残したままだった。だから結婚や出生、死亡届などは玉置商会に託して八丈島などの役場に届け出なければならず、選挙で投票することもできなかった。

※戦前は警察に金を払うと、警官をガードマンとして自宅や会社に常駐してもらうことができた。これを請願巡査制度という。
島では住民税を払う必要はなかったが、島民は玉置商会へ小作料を納めているから同じこと。島民が作ったサトウキビは玉置商会以外に売り先はなく、島内の商店もすべて玉置商会が経営していた。また島内では玉置商会が独自のお金(物品引換券)を発行していて、農民へのサトウキビの買上げ代金や労働者への賃金は、すべて玉置紙幣で支払われていた。玉置紙幣はもちろん島でしか使えない。だから島から出る時は玉置商会の事務所で日本円と交換できることになっていたが、これは出稼ぎ労働者が勝手に島から逃げ出すのを防ぐ効果もあった。もっとも大東諸島と外部を結ぶ交通手段は、沖縄県が年に1回だけ運航する船を除いては、玉置商会が雇った船しかなく、乗船には許可が必要だったから、勝手に島へ出入りすることはできなかった。その一方で、会社に反抗的な住民には退島命令を出して島から追い出すことも行われた。

このように、玉置商会は大東諸島の行政だけでなく、金融や経済も全面的に支配した。それでも玉置半右衛門が健在だった時期は、島民たちとの間に家父長的な精神的繋がりがあったので何とか丸く治めていたが、1910年に半右衛門が死亡すると玉置商会の経営は傾き、1916年に南大東島と北大東島は台湾で製糖事業を行っていた東洋製糖に売却され、27年には東洋精糖が大日本製糖に吸収合併され、大東諸島は本格的に一企業によって支配されるようになった。

大日本製糖では会社が島のすべてを支配するシステムを「わが国において他に比すべきものなく特異の事実にして、植民地経営上最も貴重なる参考資料なるべし」と自画自賛していたが、島民たちが作ったサトウキビは会社が指定した安い値段で買い叩かれるしかなく、破産して島を引き揚げる者が続出。216人いた小作農は90人に減少し、残った農民も会社に多額の前借金を抱え、植民地的な搾取にあえいだ。このため大日本製糖は1937〜38年にかけて、島民たちの借金を半分棒引きにして、小作農をつなぎ止めざるを得なくなった。

さて、大東諸島の企業支配を覆したのがアメリカ。戦後、大東諸島は沖縄の一部としてアメリカによって統治されることになったが、島にやって来たアメリカ軍は大日本製糖の社員を追放して、「市町村を作って住民自治を行うべし」と命令。南大東村と北大東村を設置して、村役所を作った(※)。会社が独占経営していた商店は村営商店となり、ここでの収益が村の財源に充てられた。

※日本では市役所、町役場、村役場のはずだが、アメリカ統治時代の沖縄では、町村も町役所、村役所だった。
こうして大東諸島の行政は島民たちの手に委ねられたかと思いきや、新たな問題が発生した。当時アメリカは「琉球人は日本人とは別の民族で、虐げられている民族」だと考え、米軍の占領が終わっても沖縄は日本へ返さず、韓国のように独立させることも検討していた。そのため、市民権は沖縄本島出身の元出稼ぎ農業労働者たちだけに与えられ、八丈島出身の島民は「日本人=外国人」だとして政治的権利が与えられず、八丈島へ引き揚げる者も相次いだ。さすがに「何十年も島に住んでいるのに、権利が与えられないとはヒドイ」と反発が相次ぎ、後にアメリカは八丈島出身の島民に「琉球人への帰化」を認めるようになった。

そしてもう1つは土地所有権の問題だ。アメリカは島から大日本製糖の社員を追放して行政権を接収したが、島の土地はすべて引き続き大日本製糖の所有地とされ、1951年には「会社が再び島に戻って事業を行っても構わない」と発表した。これに対して島民たちは「戦前の会社による植民地的支配に逆戻りする」と猛反発(※)。加えて「大東諸島に入植した時、玉置半右衛門は30年間耕したら土地をくれると約束した。30年経ったんだから土地はすでに島民のものだ」とも主張した。もっともこの「約束」は口約束で、証文や契約書として残されたものではなかったのだが。

※北大東村長と島民代表が当時提出した陳情書には「・・・日本国中でも類例がない島として、資本独占重圧下に独特な封建社会が現出していた。絶海の孤島であるために当時の中央集権的政治がこの虐げられた庶民の上に保護政策のあろう筈もなく、忘れられたこの島は飽くなき独占資本の猛威の下に放任されていたのである・・・蔗作の強制、労働者の酷使、子弟進学の制圧等、少数の支配層と多数の被支配層の間には人権蹂躙が繰り返され、仮に理非を言おうものなら異端者として無下に退島命令等と厳しい致命的仕置きをされた・・・」のように、会社統治時代の「奴隷的社会」の苦境が綿々と綴られていた。
土地所有権問題をめぐる島ぐるみの要求は13年間にわたって続いたが、結局この問題を解決したのもアメリカだった。1964年に島を訪問したキャラウェイ高等弁務官(※)は、「土地所有権は住民に帰属するべき」という裁定を下し、大日本製糖の土地所有権は否定された。かくして南大東島と北大東島は名実ともにフツーの島になりました。現在の人口は南が1400人で北が550人。開拓以来の歴史的な経緯から、沖縄にあって沖縄と八丈島の文化がチャンポンになっているそうです。
※高等弁務官とは、アメリカが沖縄を統治していた時代の総督のような存在で、琉球政府の立法や司法に対して拒否権を持っていた。なかでもキャラウェイ高等弁務官(在任1961〜64)は「キャラウェイ旋風」と呼ばれた強権発動を繰り返し、「沖縄の自治は神話にすぎない」と発言したり、本土との離日政策を行ったりして、沖縄では最も嫌われた高等弁務官だった。
戦前の日本では、市町村制が施行されず会社が行政を行っていた地域は、大東諸島のほかにも前述の鳥島(玉置商会)や南鳥島(南鳥島合資会社)、沖大東島ラサ工業)、幌筵島日魯漁業)などがありました。「海の満鉄」と言われた南洋興発が大々的に開拓を行った南洋群島でもそういう地域はあったかも知れません。いずれのんびりと調べてみようかと思います。

南大東島ホームページ 南大東村役場の公式サイト
うふあがり島 北大東 北大東村役場の公式サイト
南大東島日記 島での暮らしのようすがよ〜くわかります
台湾黄昏地帯−南大東 かつて玉置商会が建設した砂糖キビ運搬鉄道が1983年まで走っていました
大日本明治製糖 1996年に大日本製糖は明治製糖と合併しました
 
 

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