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地図にも載っていない非公認飛び地
タイ北 首吊り嶺 クラリッジ スホテル212号室 オタワ市民 病院産科病棟 ゼイスト基地 戦勝記念碑 東ドイツ電波塔 悪魔橋の記念碑 セントヘレナ島の家と墓地 オスマン1世の祖父陵 バチカン電波系 ホームランド
【過去形】「台 湾領」タイ北タイ 北といっても「台北」じゃなくて「泰北」、つまりタイ北部の山岳地帯のこと。チェンマイやチェンライあたりの旅行会社で配っている少数民族マップを見る と、リス族やアカ族の村に混じって「KMTの村」というのが点在している。KMTとは国民党で、すなわち中 国国民党。これらの村は国民党兵士の落人村なのだ。
1949年、中国の内戦がクライマックスを迎え、破竹の勢いで進撃する人民解放軍に追われた国民党政権は台湾へ逃げるが、雲南省一帯に 取り残された部隊は国境線を越えてビルマ(ミャンマー)へ逃亡し、ここに拠点を築いて大陸奪還のためのゲリラ戦を続けた。しかし国民党軍が地元少数民族の 反政府ゲリラと連携していることに怒ったビルマ政府は、「台湾政府による領土侵犯だ」と国連に提訴。1953年から54年にかけて国民党軍とその関係者 6500人が、さらに61年には4500人が輸送機で台湾へ引き揚げた。
ところが、台湾へ引き揚げたのはあくまで一部で、段希文将軍が率いる国民党部隊はタイ政府の統治が及ばない山奥のドイ・メサロンを根拠地に、周辺の少数民族を支配してケシを栽培させ、資金を稼ぎながら軍事活動を続け ていたのだ。台湾政府は彼らに武器援助を続けたほか、学校や家を建てたり農業指導も行った。
70年代に入ると、国民党部隊はタイ政府の求めに応じて対タイ共産ゲリラ作戦を行うようになり、タイ政府も彼らの存在を認めるように なった。そして80年代半ば、段希文将軍は死去して国民党部隊は解散。ドイ・メサロンには道路が開通し、タイ政府の実効支配下に置かれるようになった。
李登輝の時代になって、公然と「台湾独立」とか「国民党はしょせん外来政権」とか言われるようになったら、タイ北の国民党落人たちは台 湾政府への忠誠心はほとんど消えてしまったようです。現在では中国への道路も通じ、「共産中国」との往来が盛んになってます。
●現地ルポは こち ら を見てくださいね。
旅遊玩家 泰北看三多(1)/槍多、花多、孤兒多 台湾の報道記者による泰北レポート(中国語)
泰北 義民文史館落成了 泰北に国民党軍の記念館が完成したとか(中国語)
三輪隆文集 タイ北部の山岳地帯の少数民族の村々の話
【過去形】「台 湾領」首吊り嶺「首吊り嶺って、なんだそりゃ?」と思うでしょうが、香港の九龍半島の東側にそういう村がありました。中国語では吊頚嶺(ディウゲンレン)、名前がヘンなら村もヘンで、人口2万人のこの村の住民はすべて中国国民党の 関係者、つまり国民党兵士の落人村だったのです。
1949年、中国の内戦がクライマックスを迎え、破竹の勢いで進撃する人民解放軍に追われた国民党政権は台湾へ逃げるが、広東省一帯に 取り残された部隊は国境線を越えて当時イギリス領だった香港へ逃亡。イギリスは彼らを香港島の難民キャンプに収容したが、ここは市街地に近く、共産党の支 持者たちが冷やかしに来て紛争となったので、落人たちを人里離れた吊頚嶺の新しい難民キャンプに移した。
吊頚嶺という地名は、故郷が「赤魔」の手に陥ちた敗軍の将が自殺したからついたのではなく、かつてここに製粉工場を建てたカナダ人のレ ニーさんが事業に失敗して首を吊ったから付いた地名(だから吊頚嶺の英語名はレニーズ・ミル)だが、ここへ送りこまれた落人たちは「首吊り嶺とはひどすぎ る!」と騒ぎ出し(そりゃそうだ)、中国語で似たような発音の調景嶺(ディウゲンレン)に改 名した。
調景嶺と市街地とを結ぶ道路はなく、香港島から渡し船だけが唯一の交通手段という隔絶された一角だった。外部との自由な行き来は禁止さ れ、村の行政や食糧配給などは港九各界救済調景嶺難民委員会駐営服務処という香港の反共団体で組織したNGOが行っていたが、実際には台湾政府が全面的に 援助していて、村内の学校も台湾の教育制度に基づいて徹底した「反共教育」を行っていた。また村には国民党の元兵士らが「糾察隊」という自警団を作り、 「再び蒋介石総統の号令が下れば、大陸奪還のためのゲリラ戦を行う」と豪語。1956年には九龍の市街地で3日間にわたって反共暴動を起こした(※)。
※1956年10月10日の中華民国の建国記念日(双十節)に、九龍の公営団地で 特大の青天白日満地紅旗(台湾の国旗)を掲げようとしたところ、団地の管理人が静止したのをきっかけに、香港の右派団体やヤクザが暴動を起こした事件。九 龍の商店などが略奪され、左派系のデパートや工場、病院などが襲撃された。1967年に工場の労働争議をきっかけに中国の文化大革命の影響を受けて左派が 起こした「香港暴動」「左派暴動」と対比して、「九龍暴動」「右派暴動」「双十暴動」とも言う。やがて国民党の軍や政府関係者は台湾へ移住する人が増え、調景嶺は1960年から一般の村となり、市街地との行き来も自由になった。それでも村の住民の多 くは国民党軍と関係のある人たちで、村にはいつも台湾の国旗がうじゃうじゃと掲げられ、小台湾(リトル台湾)と呼ばれていたが、香港が1997年に中国へ 返還されることが決まると、落人村の将来が問題となった。結局、落人村は政治的な理由ではなく、再開発地域に指定されたという都市計画上の「理由」で、中 国返還を目前にした1996年に撤去された。現在の調景嶺は地下鉄が開通し、高層マンションとショッピングセンターが林立するニュータウンに生まれ変わっ ている。調景嶺から立ち退かされた国民党の落人たちは台湾へは行かず(行けず)、近くに建設された厚 徳邨(ハウタック・エステート)という高層団地にまとまって住んでいます。李登輝の時代になって、公然と「台湾独立」とか「国民党はしょせ ん外来政権」とか言われるようになったら、首吊り嶺の国民党落人たちは台湾政府への忠誠心はほとんど消えてしまったようです。1990年代からは「共産中 国」へ里帰りする人も増えました。
●現地ルポは こちら を見てくださいね。
1987年(左)と2004年(中・右)の地図。調景嶺一帯 は埋立てが進み、英語名はRennies MillからTiu Keng Lengに変わった。地下鉄が開通した調景嶺と厚徳邨(右)
【過去形】「ユー ゴスラビア領」ロンドン・クラリッジスホテルのスイート212号室「なんだそりゃ?」って感じがしますけど、ロンドンの中心部にあるクラリッジスホテルの スイート・212号室は、かつてユーゴスラビアの領土だったことがあります。「ホテルの部屋にユーゴスラビアの大使館が置かれていたから」 ではありません。大使館なら治外法権は認められても、ユーゴの領土にはならないはず。そうではなくて、212 号室はイギリス政府によってユーゴスラビアへ領土として割譲されたのでした。
時は第二次世界大戦。ユーゴスラビアの国王パヴレ公は、枢軸国につくか連合国につくかで悩んでいた。しかしヒトラーから「枢軸国に加わ れば、領土保全を保障するしギリシャの領土を一部与えてエーゲ海への出口も確保してあげる」と誘われ、沿岸部の ダルマ チア 地方の併合を狙うイタリアの脅威に晒されていたユーゴスラビアは1941年3月25日、日独伊三国同盟に加わった。ところが翌日クーデターが 発生してパヴレ公は亡命。新政権は若きペタル2世を国王に据えて連合国側につくことを発表し た。かくしてユーゴスラビアは侵入してきたドイツ軍にあっという間に占領され、ペタル2世はアテネ、エルサレム、カイロを経てロンドンに脱出。ユーゴスラ ビアの亡命政府を作った。
ペタル2世は同じくロンドンに亡命していたギリシャ王室のアレクサンドラ姫と結婚し、クラリッジスホテルで亡命生活兼新婚生活を送って いたが、やがてアレクサンドラ姫は妊娠。1945年7月17日にアレクサンドラ皇太子が生ま れた。
そこで問題になったのが、ユーゴスラビアの王位継承だ。当時のユーゴスラビア王国の規定では、国内で生まれた者にしか王位継承権は認められないとされていた。つまりアレクサンドラ皇太子がイギリス 生まれでは将来国王の座に就けないことになる。ペタル2世が亡命している間、ユーゴスラビアでは国王公認の王党派ゲリラ「チェトニク」と、チトー率いる共産主義ゲリラの「パルチザン」がゲリラ戦でドイツに抵抗していたが、セルビア民族主義で セルビア人以外に人気の無いチェトニクに比べて、汎民族主義を掲げたパルチザンが勢力を伸ばしていた。あせったチェトニクは「本当の敵はナチスより共産主 義」だと枢軸国側に寝返ってしまい、1944年に連合軍とパルチザンの反撃で、ドイツ軍もろとも粉砕されてしまう。かくしてユーゴスラビアではチトーの政 権「ユーゴスラビア連邦人民共和国」が樹立され、王室の存続自体が危うくなっていたのだ。
そこで、ペタル2世が帰国前に万が一のことがあっても、ユーゴスラビアの王制が存続できるようにという苦肉の策が、皇太子が生まれる場所をユーゴスラビア領にしてしまうこと。王妃の出産が間近いと聞いたチャーチル首相 は7月17日朝「クラリッジスホテルのスイート・212号室をユーゴスラビアへ割譲する」と宣言したというわけ。もっとも皇太子が生まれてしまえばホテル の部屋をいつまでもユーゴスラビア領にしておく必要はないわけで、翌日さっさとイギリス領へ戻してしまったらしい。
イギリスの首相が公式に宣言したんだから、地図には載っていなくても「公認飛び地」なのでは?と思うだろうが、実際のところはかなり怪 しい。実はイギリス政府は44年にチトー政権を承認していて、ペタル2世の亡命政府をチトー政権に合流させていたのだ。つまりイギリスが「212号室を ユーゴスラビアの領土として割譲する」と発表したところで、受け取る側のチトー政権がそれを承認して自国領土に編入しなければ、本当に領土割譲が行われた とは言えない。戦後の東欧の勢力分割について、チャーチルとスターリンとの間では、「ギリシャは英国90:ソ連10、ルーマニアは英国10:ソ連90、 ユーゴは英国50:ソ連50・・・」という有名な協定が結ばれていたが、イギリスはチトー政権を認める一方で、ユーゴ王室存続のためのポーズを取ること で、ユーゴの勢力分割について50:50を実行するように圧力をかけたということでしょう。いやはや、例によって腹黒紳士ことイギリスの狡猾なパフォーマンスなのでした。
こうしてせっかく「1日だけのユーゴスラビア領」で生まれた皇太子だったが、王室はチトー政権によって廃止されたうえ帰国も認められ ず、その後延々とイギリス、フランス、イタリア、アメリカなどで亡命生活を続けることになった。ペタル2世は1970年にアメリカで亡くなり、アレクサン ドラ皇太子はもはや実質的に意味の無い「国王への即位」を行わなかった(ただし王位継承権は放棄していないとのこと)。
結局アレクサンドラ皇太子が初めてユーゴスラビアの土を踏んだのは(生まれたホテルの部屋は1階ではなく空中だった)、1991年のセ ルビア訪問で、スロベニア、クロアチア、マケドニアが相次いで独立し、ユーゴスラビアが解体した時のこと だった。2001年にはセルビアとモンテネグロだけになった新ユーゴスラビア政府から、王位ならぬ市民権を認められたのでした。
The Royal Family of Serbia and Yugoslavia ユーゴスラビア王室のサイト(英語)
【過去形】「オ ランダ領」オタワ市民病院産科病棟のスィート病室4部屋オタワ市民病院の案内図 さて、60年前にスィート病室だった部屋はどれ?
まぁ、 だいたいタイトルで想像がつくかと思いますが、上と似たような・・・いやまったく逆の話です。
時は第二次世界大戦。ドイツは1940年5月にオランダを占領したが、その直前にウィルヘルミーナ女王はロンドンへ亡命し、英チャーチ ル首相の支援の下、オランダ王国の亡命政府を作った。しかしイギリス本土上陸作戦を狙うドイツはロンドンへの空襲を繰り返したため、王室は万が一を考えて 王位継承者のユリアナ王女をカナダへ疎開させた(※)。
※この措置は正解で、ウィルヘルミーナ女王の居所もドイツ軍の爆撃を受け、女王は 危うく難を逃れたことも。こうしてユリアナ王女はカナダで妊娠し、出産を控えてオタワ市民病院へ入院したのだが、ここで問題になったのが、オランダの国籍は血統主義だが、イギリス は出生地主義だということ。オランダ人の子供は世界中どこで生まれてもオランダ国籍が与えられるが、カナダで生まれると自動的にイギリスの国籍も与えら れ、王女から生まれる子供はオランダとイギリスの二重国籍になってしまう(※)。そしてオランダは二重国籍を禁止しているので、オランダ国籍を失いかねず、規定によってオランダ国籍を喪失した者は王室のメンバーである資格も失ってしまうのだ。※カナダ独自の国籍法が制定されたのは1947年で、それまでカナダ人はイギリス 国籍だった。もっともユリアナ王女はすでに2人の子供を生んでいたので、オランダ王室が途絶えてしまう心配はなかったのだが、王女から生まれた子供が王室に入れなく なったら可哀想だと考えた苦肉の策が、王女が子供を生む場所にカナダの法律を及ばなくさせてしてしまうこ と。こうして王女の出産を前に、カナダの議会は「オタワ市民病院の産科病棟のスィート病室4部屋を、オランダの排他的治外法権区域とする」 という特別法を可決した。排他的治外法権エリアというのは大使館の敷地と同じ扱いで、オランダ領になったわけではないが、とりあえず病室にカナダの法律は 及ばなくなり、そこで子供が生まれてもカナダの法律に基づいたイギリス国籍は与えられないことになった。病院全体を排他的治外法権エリアにしなかったの は、もし同じ日に別の病室でカナダ人の子供が生まれて、その子がとばっちりで無国籍になったらあ まりに悲惨だからでしょう。
ユ リアナ王女は43年1月19日に女の子を出産し、米ルーズベルト大統領が名付け親になってマーガレットと 命名された。マーガレット姫に無事オランダ国籍だけが与えられたところで、治外法権は撤廃さ れた。戦争が終わると王女はマーガレット姫を連れてオランダへ帰国したが、カナダ人によるマーガレット姫への心遣いに感謝して、チューリップの球根10万個をオタワへ贈った。そして翌年再び2万個、その後も毎年1万個の球根を贈 り続けた。
こうしてオタワはチューリップの町になり、53年からチューリップ・フェ スティバルを開催している。ユリアナ王女は48年から80年まで王位に就き、2004年に死去したが、オタワのチューリップは500万本に増えて、チュー リップ・フェスティバルは今も盛大に続いている。
ところでマーガレット姫だが、カナダ人たちのせっかくの善意にもかかわらず、1957年にイギリス政府によって「生まれた段階でイギリス国籍」だと認定されてしまった。
一難去ってまた一 難?のマーガレット姫英 エリザベス女王のウィンザー朝は、1714年にドイツからジョージ1世を迎えたハノーバー朝に遡る。1951年にドイツのハノーバー家の当主が、第一次世 界大戦の際に「敵国ドイツ人だから」と剥奪されたイギリスの爵位を取り戻すため、イギリス国籍を認めるように求めて裁判を起こしたところ、57年に最終審 で勝訴した。その根拠となったのが、1705年に制定された帰化法で、「ゾフィア王女(ジョージ1世の母)から生まれた者やその血を引く者は、今後生まれ くる者も含めて、すべてイギリス国民とし、イギリス国内で生まれたものとみなす」という内容(※)。これはジョージ1世を迎えるにあたって、ハノーバー家 の王位継承を確実にするために制定された法律だった。※帰化法の内容は 『歴史文書邦訳プロジェクト』 で日本語訳が読めます。そこでイギリス政府はジョージ1世の母につながる子孫を、すべてイギリス国籍と認定することになったのだが、巻き添えを食ったのがオランダ王室だった。オランダの王室は、ナポレオン軍による占領から1815年に独立した時に、ナッソウ家のヴィレム1世が即位して始まったのだが、ヴィレ ム1世の祖母であるアン王女は、イギリスのジョージ2世の長女だった。つまりオランダ王室はすべてジョージ1世の母の子孫なので、イギリス政府によればオランダ王室は全員「イギリス生まれのイギリス国民」ということになった。もっともオランダはこれを拒 否したようですが・・・。認めてしまったら、オランダ王室はみんな二重国籍になって「お家断絶」してしまいますからね(※)。
※ただし「帰化法」は1949年に廃止されたので、それ以降に生まれた者は適用 外。現オランダ女王のベアトリクスは1938年生まれ。またカナダは82年に、それまで使っていたイギリス植民地時代からの憲法を捨てて、自主憲法を制定したが、その際、カナダ国王には「カナダ生まれでイギリス国民」のマーガレット姫こそふさわしいと、女王に推戴しようという動きもあっ たとか。The Dutch Royal House オランダ王室の公式サイト(英語)
諸外国の王位継承制度 (PDFファイル)
【過去形】「ス コットランド領」オランダの旧米軍基地日本の 米軍基地はアメリカの領土ではありませんが、条約でアメリカの治外法権が認められていて、アメリカの法律が適用されることになっています。国外にある軍事 基地と言うのは、たいていそのような仕組みですが、かなり特別なケースがオランダのゼイスト基地。 ここは1994年まで米軍基地として使用されていたのだが、1999年から2002年までイギリスの、正確に言えばスコットランドの法律が適用されていた。一体どういうことでしょう?
事の発端は1988年に起きたパンナム航空機爆破事件。ロンドンからニューヨークへ向かっていたパン・アメリカン航空機がスコットラン ドのロッカビー村上空で爆発し、墜落。乗客乗員259人と住民11人が犠牲になった事件だが、3年にわたる捜査の結果、リビアの諜報部員2人がマルタ島で事故機にに爆弾を仕掛けた容疑が浮上した。そこで米英両国はリビアに 容疑者の引き渡しを要求したがリビアは拒否。国連安保理でも翌年、リビアに容疑者引き渡しを求める決議を上げたが、リビアが従わなかったので、経済制裁が 実施された。
その後、さしものリビア(というか、カダフィー大佐)も外貨の稼ぎ頭である石油輸出が規制された制裁に音を上げて態度を軟化。当事国の 1つであるマルタで容疑者を裁判にかけることを提案した。しかし米英はマルタがリビアから距離的に近いことから、裁判が影響を受けるかもしれないと拒否。 続いてリビアは「オランダのような中立な第三国に、スコットランドの裁判所を作ってそこで裁くのなら容疑者を引き渡す」と言い出した。米英は当初「リビア が無理難題をふっけかて、容疑者を引き渡すポーズだけ見せるプロパガンダ」だと一蹴していたが、アフリカ各国やアラブ、イスラム諸国がリビアのアイデアに 賛成し始め、国連も各国に協力を呼びかけた。こうしてリビアの提案どおり、オランダにスコットランドの法廷が設置されることになった。
といっても、オランダの街中にいきなりスコットランドの裁判所が出現して「ここではスコットランドの法律が適用されます」では混乱して しまう。そこで白羽の矢がたったのが、元米軍基地だったゼイスト基地の一角だった。軍事基地なら周囲と隔絶されてセキュリティは万全だし、どうせかつては アメリカの治外法権エリアだったのだから、外国の法律の下に置かれることは経験済みだ。
かくしてイギリスとオランダは協定を結び、ゼイスト基地の一角は1999年4月2日からスコットランドの治外法権エリアとされて、ス コットランドの裁判官や弁護士、警察官などが常駐し、拘置所も作られた。こうして3日後に2人のリビア人被告が国連のチャーター機でオランダに到着。 2001年1月にうち1人が有罪で無期懲役、もう1人は証拠不十分で無罪の判決が出た。有罪とされたメグラヒ被告は控訴したため、再び審理が行われて 2002年3月14日に控訴を棄却。メグラヒはグラスゴーの刑務所へ移され、用済みとなったスコットランド法廷は閉鎖されて、ゼイスト基地の「スコットラ ンド領」は開設からちょうど3年後の2002年4月2日にオランダへ返還されたのでした。
それにしても、「なぜイギリスじゃなくて ス コットランド ?」と思う人がいるでしょうが、同じイギリスでもイングランドとスコットランドは法体 系が別々で、イングランドは英米法、スコットランドは1707年にイングランドと連合王国になる前からの大陸法なのです。へんなの。。。
外務省 高村外務大臣談話 パンナム航空機爆破事件で日本人の犠牲者も出ていたんですね
リビアの諜報機関 パンナム航空機爆破事件の現場写真もあります
【過去形】「ソ 連領」西ベルリンの戦勝記念碑ベルリン市内地図(1955年) 東西ベルリンの境界線がわかりにくいです が、ブランデンブルグ門の左(西)に「ソ連戦勝記念塔」
ベルリンと言えば、東西冷戦の最前線だった都市。かの有名な「ベルリンの壁」で街が二分され、東ベルリンは社会主義国・東ドイツの首 都、 西 ベルリン は資本主義国・西ドイツの飛び地でした。厳密にいえば、東ドイツはソ連軍占領地区で、西ドイツはアメリカ、イギリス、フランス軍の占領地 区ということになっていました。
さてそのベルリンの中心部、東西ベルリンの境界に位置するブランデンブルグ門の近くには、ソ連の戦勝記念碑が立っている。第二次世界大 戦の末期、ベルリンへ突入したのはソ連軍で、突入戦の戦没兵士2500人を祀ったもの。廃墟となったヒットラー総統官邸の資材が使われ、碑の両脇にはベル リンへ一番乗りを果たしたソ連の戦車が鎮座していたが、記念碑の場所は東ベルリンではなく、西ベルリンのイギリス軍占領地区だった。西ベルリンにあってここだけはソ連軍の管轄区域で、カマトンカチの赤旗(ソ連国旗)を先頭に、ブランデ ンブルグ門から記念碑まで警備を交替するソ連兵が毎日西ベルリンをパレードしていた。
国会議事堂を占領し たソ連軍。で、ソ連国旗を持っている兵士は 飛 び地出身の人 。いわば 東側(東ドイツ)の中にある西側の飛び地(西ベルリン)の中の東側の飛び地みたいな存在だったわけだが、なぜまたソ連軍はわざわざ西ベルリンに記念碑を建 てたかと言うと、近くにあった国会議事堂がベルリン突入時のソ連軍の攻略目標だったから。記念碑が建設された1945年秋は、まだ東西冷戦は本格化してお らず、ドイツも東西に分裂していなくて、ベルリン市は米英仏ソの4カ国の共同占領の下で運営されていた。イギリス軍も「まぁ、ベルリンを占領したのはソ連 軍の働きだから」と、記念碑の建設に文句を言わなかったらしい。その後、東西対立が激化すると、西ベルリンに鎮座するソ連の戦車と毎日行進して来るソ連兵は、ソ連による西ベルリン、しいては西側社会 への威圧の象徴のように見られ、米英仏にとってはいまいましい存在となったが、まさか記念碑の撤去を求めるわけにもいかず、対抗してアメリカ軍も東ベルリ ンで軍事パレードを実施したりした。1961年に東ドイツがベルリンの壁を作って西ベルリンを包囲すると、イギリス軍も「報復措置」として記念碑の周りに 壁を作ってしまったとか。
しかし世界はどうなるかわからないもので、89年にベルリンの壁が突如崩壊し、90年に東西ドイツが統一したが、翌91年にはソ連が解 体してしまった。その記念碑はロシア軍が警備を引き継いでいたが、94年8月に東ベルリンからロシア軍が撤退すると、記念碑はただの記念碑になり、一般市 民が誰でも立ち入れる場所となった。ナチスドイツの崩壊を象徴していたはずの記念碑は、今は亡きソ連を象徴 するモニュメントと化し、新たな観光スポットになってしまいましたとさ。
Soviet Military - Berlin 西ベルリン時代のソ連兵と戦勝記念碑の写真(英語)
SOVIET WAR MEMORIAL IN BERLIN, TIERGARTEN 現在の戦勝記念碑の写真(英語)
【過去形】「ソ 連領」東ドイツの電波塔
ソ連は東ドイツにも電波塔の飛び地を持って いた。戦争に勝ったソ連がドイツの最新式の送信設備を接収して電波塔ごと自国領にしてしまったのかと思えばそうではなく、「ソ連のミスのお詫び」のため だった。
1979年5月18日、ソ連軍のミグ21型戦闘機が、東ドイツのZehlendorfの電波塔に衝突して、電波塔が崩壊。事故原因はソ連軍のミスだと言う ことが判明し、ソ連が電波塔を再建することになったが、何ごとにも厳しいのがドイツ人の気性で、東ドイツの安全基準を守っていては工事がはかどらないと、工事完了まで の3ヵ月間、電波塔から半径300メートルをソ連領ということにして、突貫工事で電波塔を建てたとか。
東ドイツも早く電波塔を建て直してもらわないと困るので、それを容認したのでしょう(たぶん)。それなら時限立法で安全基準を緩和した方がいいと思うけ ど…。
「ロシア領」スイス・悪魔橋の記念碑ヨー ロッパのあちこちには悪魔の橋と呼ばれる橋があります。これらの橋はたいていローマ帝国の時 代に建設された巨大な橋ですが、ローマ時代の進んだ土木技術をすっかり忘れてしまっておバカになった中世のヨーロッパ人たちは、「あんな凄い橋を人間が作 れるはずはない」「きっと悪魔が作ったに違いない!」と、付いた名前が悪魔の橋という次第です。
スイスにも「悪魔の橋」と呼ばれる橋があって、スイス・アルプス地方のアルトドルフとアンデルマットの間でロイス川を跨ぐ橋がそれ。し かしたいして大きな橋でもないし、この橋が架けられたのはローマ時代ではなくて1230年のこと。じゃあなぜ悪魔の橋と呼ばれているかというと、「悪魔が 架けた橋」という伝説が伝わっているから。
昔むかし、人々が「この渓谷に橋があったらな〜」と話していたところ悪魔が現れ、「俺様が橋を架けてやる。その代わり最初に橋を渡った 者の魂をいただくぞ!」と言い出した。そこで人々は悪魔と契約を結んで橋を架けてもらったが、誰かが最初に橋を渡って悪魔に魂を差し出す生け贄にならなけ ればならない。しかしアタマの良い人がいて、「ヤギ飼いを最初に渡らせればいいんだよ」。かくしてヤギ飼いはヤギの群れを追いながら橋を渡り、人たちは 「最初に橋を通ったのはヤギだから、ヤギの魂を差し上げますよ」と悪魔に言い、激怒した悪魔は橋をぶっ壊してやろうと向こうの山から巨大な岩を抱えてやっ て来たが、途中で遭遇したお婆さんが十字を切ったため、岩を捨てて逃げ出した・・・というお話。それなら最初から十字を切りながら橋を渡ればいいじゃん! と思いますが、伝説にケチをつけてもしょうがないですね。ふもとのゲッシェネンの町には悪魔が捨てた悪魔の 岩というのが今もあるそうな。
さて、その悪魔橋のほとりにロシア領の小さな飛地がある。ひょっとして悪魔が橋を架けるとき「俺様に魂を、ついでにロシアに土地を」と 条件を付けた・・・なんてはずはなく、飛び地ができたきっかけはナポレオンだ。
フランス革命に衝撃を受けたイギリス、オランダ、スペイン、オーストリア、プロイセン、ナポリなどの周辺諸国は、1793年に第一次対 仏大同盟を組んで革命政権を潰そうとしたが、ナポレオンの反撃によって破れ、スイスはヘルベティア共和国というフランスの傀儡国家になってしまった。しか しナポレオンがエジプト遠征に熱中していた98年に、こんどはロシアも加わって第二次対仏大同盟を結成。ア レクサンドル・スヴォーロフ元帥率いるロシア軍はオーストリア軍とともにスイスや北イタリアを舞台にフランス軍を攻撃したが、その主戦場の 1つとなったのが悪魔橋。当初フランス軍を圧倒していたロシア軍は99年の悪魔橋の戦いではフランス軍に包囲され、雪のアルプスを越えて退却し多くの犠牲 者を出したのだった。
それから1世紀経った1899年、ロシアはスヴォーロフ元帥の奮戦と700人のロシア兵戦死者を称えるために、悪魔橋のほとりに記念碑 を建て、スイスは「中立政策を脅かさないこと」を条件に、記念碑の敷地をロシアに割譲した。スイスとしてはロシア軍などの奮戦のお陰で、最終的に傀儡国家 を脱して永世中立国になることができたわけで、ささやかな恩返しということ。とはいっても、記念碑のまわりをロシア兵が警備しているわけではなく、名目的 にロシアになっているというだけだが、記念碑の前にはスイスの国旗と並んでロシアの国旗も翻っている。
スヴォーロフ元帥は現代でもロシアの英雄と言われ、ソ連時代にもスターリンはあちこちにスヴォーロフの銅像を建てたそうだが、となる と、当時は悪魔の橋のほとりにソ連国旗が翻っていた?さて、どうでしょう・・・。
シェレネン渓谷 土木施設 橋梁 悪魔の橋(二代目)の写真があります
「フランス領」セントヘレナ島の家と墓地「吾輩の辞書に不可能と言う文字はない」とホントに言ったかどうかは知りませんが、結局ヨーロッパ征服は不可能だったナポレオンが追放 されたのが、南大西洋に浮かぶイギリスの植民地・セントヘレナ島。ナポレオンは1815年にこの島へ幽閉され、5年半後に死亡したのだが、その間ナポレオ ンが住んでいた家(Longwood House)とナポレオンの遺体が埋葬された場所(Napoleon's Tomb)が、1858年にフランスへ譲渡された。
といってもイギリスからフランスへ領土を割譲したわけではなく、土地や建物の所有権をフランス政府へ渡したということ。ロングウッドハ ウスは島に駐在するフランス副領事の官邸として使われている。ナポレオンの遺体は1840年にフランスへ改葬されたので、ナポレオンの墓地と言うより正確 には墓地の跡地だ。
このほか、1959年にはロングウッドハウスが整備されるまで、2ヶ月間ナポレオンが住んでいたブライアーパビリオンもフランス政府へ 譲渡された。この家はもともと東インド会社の代理店の持ち物で、ナポレオンが住んだ後は何回か所有者が変わっていたが、1959年にオーストラリアに在住 していた代理店経営者の子孫が買い戻してフランス政府へ寄贈したもの。
第二次世界大戦中、フランスはナチスドイツに占領されて親独政権のビジー政府が発足したが、セントヘレナ島の「飛び地」は、自由フラン ス政府(ドゴール将軍がイギリスで率いた亡命政府)への帰属を宣言していた。もっとも、ビジー政府への帰属を言い出したら、たちまちイギリスに没収されて しまうわけで、当然といえば当然の話ですね。
どうでもいい話ですが、スパゲッティ・ナポリタンは、香港や中国南部では拿破崙意粉(スパゲッティ・ナポレオン)と言います。なぜで しょう?
ロングウッドハウス(左)、ナポレオンの墓はおそらく世界最 小の「飛び地」(中)、後から追加されたブライヤーパピリオン(右)
「トルコ領」オスマン1世の祖父陵
日本の「××天皇陵」はすべて日本国内にあ るが、海外の場合、歴史的に国境線が変動したり、その他諸々の事情で自分の国の王様の墓が、外国に存在していたりすることもある。
例えば「モンゴルの英雄」ジンギスカン陵があるのは、モンゴルではなくて中国。内モンゴル自治区のオルドスという場所にあるが、このジンギスカン陵ができ たのは1954年で、中国の共産党政権が建てたもの。その前からウランホトにあったジンギスカン廟ができたのも1944年で、満洲国と関東軍が造営したも の。「モンゴル人は秘密裏に埋葬を行う伝統があるので、本当のジンギスカンの墓の場所は不明」なんだとか…。
さて、かつてトルコを大帝国にした皇帝・オスマン1世(1258〜1326)のお爺さんの墓は、国境から25km離れたシリアのカラコザク村という場所に あり、この土地の所有権はトルコ政府のもので、トルコの憲兵隊が常駐して警備している。シリアは第一次世界大戦までオスマントルコの領土だったが、トルコ の敗戦の結果、フランスの 委 任統治領 になった。しかし、トルコとフランスが結んだ1921年のアンカラ条約で、この墓はトルコが管理することになったもの。
実は現在の墓は1973年に建設されたもので、それまでの墓はタバカダムの完成によってできたアサド湖に沈んでしまった。しかし、移転後も引き続きトルコ が管理している。
ところで、なぜオスマン1世の墓ではなく、そのお爺さん(スレイマン・シャー)の墓がそんなに重要なのだろうか。スレイマン・シャーは現在のシリア領の ユーフラテス川で溺死したそうだが、トルコ史は詳しくないので、果たしてどのような「重要人物」だったのかは不明。
バチカン市国の電波系飛び地ローマ市内にあるバチカン市国の「飛び地」
バチカン市国の地図 サン・ピエトロ大聖堂の横に怪しいイタリア領の食い込 みが・・・バチカン市国と言えば世界最小の国家ということになっていますが、国家としてはかなり 「電波な国」です。まず公用語が死語(ラテン語)。面積は0・44平方kmと皇居の3分の1ほどで、市国(Status Civitatis)と名乗りながら都市国家とはとうてい呼べない狭さで、サン・ピエトロ大聖堂やローマ法王が暮らすバチカン宮殿、バチカン美術館などに 加えて、イタリア国鉄の線路が乗り入れていて貨物駅がある。
バチカンでは3000人ほどの職員が働いているが、ほとんどはイタリアから通勤してい て、バチカンで暮らしている住民は法王はじめ聖職者など約900人。ではバチカンに住んでいる人=バチカン国民なのかといえばこれも別で、バチカン国籍を 持つのは法王や枢機卿、司教、司祭などの要職にあるカトリックの聖職者や、スイス人の衛兵、外務を担当する職員など約550人で、聖職者などの役職を辞め たらバチカン国籍は返上しなくてはならない。住んでいる場所や出身地は全世界さまざまで、ほぼ全 員が二重国籍を持つ。現在の法王はドイツ人だし、その前の法王はポーランド人だ。
バチカン市国は日本はじめ178ヵ国と国交を結んでいるが、日本にバチカン市国大使館と いうのは存在せず、代わりにローマ法王庁大使館が置かれている。ローマ法王庁とはカトリックの最高権力機関で、全世界のカトリック教会を統率しているのだが、バチカ ン市国の行政を担当するバチカン政庁やバチカン市国委員会は法王庁の一部局にすぎない。つまりローマ法王庁が親会社なら、バチカン市国は子会社といった関 係だ。バチカン市国は国連に加盟していないが、かわりに法王と法王庁を総称する聖座 (Holy See)という名義で投票権のないオブザーバーとして加盟している。
つまり宗教組織が「国家」 という地位を手に入れて、その特権を利用しているようなもので、バチカンという国家と国交を 結んだつもりでいたら、カトリックという宗教組織に治外法権の「大使館」を作られてしまうのだ。またバチカン国籍を持つカトリック教会の最高幹部らは、バ チカンのパスポートを使えば本来の出身国とは国交がない国へも行けるし、イタリアへは無審査で入国できることになっている。まぁ、ローマ市内には マ ルタ騎士団 という、もっとイカガワシイ「国家」がありますけどね。
電波が強くて写真も ぼやける(?)恐怖の「飛び地」さて、そのバチカン市国というかローマ法王庁は、ローマ市内にいくつか「飛び地」を持っている。例えばサン・ジョバン ニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、法王の別荘や法王庁の事務所ビルなどで、これらはバチカン市国の領土ではないが、イタリ ア政府によってバチカンの治外法権が認められている。しかし治外法権をめぐって、バチカンがイタリア政府と対立する事件も起きている。ローマ北部のサンタ・マリア・ディ・ガレリア地区で白血病患者が多発していていることを 調べたイタリア政府は、2001年に同地区にあるバチカン放送の電波塔からイタリアの法律による基準を3倍上回る強力 な電磁波が出ていたことを発見。これが白血病多発の原因だとしてバチカン放送の責任者である 聖職者らを起訴した。バチカン放送は40ヶ国語で全世界に向けた布教のラジオ番組を放送をしていて、放送局はバチカン市国にあるものの、1957年にサン タ・マリア・ディ・ガレリアの電波塔が完成してからは、電波の送信はここから行っていた。
バチカン側は、電波塔はバチカン市国の治外法権だからイタリアの法律基準を守る必要はな いし、イタリアに裁く権利はないと反論。翌年ローマ地裁でもバチカン市国の治外法権を認めて、「イタリアの司法権は及ばない」とイタリア政府の訴えを棄却 したが、2005年にはバチカンの枢機卿など2人に10日間の停職と損害賠償支払いを命じる有罪判決を下した。バチカン側は判決を不満として控訴する構え とか。
もっともバチカン放送も1日24時間の番組を7時間へ削減して、電波の出力も大幅に弱 め、そのあおりをくって日本語放送は2001年で廃止。代わりにインターネットの日本語版HPを作ってローマ法王の動向を伝えている。バチカン放送と言えば、その昔BCL とかいって海外からの日本語放送を受信するのがブームだった頃、エクアドルの「アンデスの声」とともに受信が難しい難関局だと人気を集めていたこともあり ますが、地球の反対側まで届く電波を出していたんじゃ、電磁波公害にもなりますね。
バチカン放送局 日本語でニュースが読めます。インターネットラジオは日本語なし
【過去形】ホー ムランド究極の「飛び地国家」といえば、やっぱ南アフリカの ホー ムランド ですね。
南アフリカといえばかつては「アパルトヘイト」なる人種隔離政策で有名な 国。白人と有色人種は法律で居住区が分けられたほか、列車やバスの座席やレストランも分けられ、さらに法律(背徳法)でセックスまで禁止されてしまった。日本人は金持ちだったので「名誉白人」という名誉だか不名誉だかわか らないような扱いを受けて白人並みとされたが、中国人は有色人種。でも中華料理はオイシイので白人政権は中華レストランを「白人用」に指定してしまった。 すると中国人は中華料理を食べられないことになり、これじゃいくらなんでもヒドイというので、中国人は中華 レストランへの入店に限って白人並みという法律を作った・・・なんて、まぁ、 めちゃくちゃなことやってた国ですね。
で、いちおう民主主義の体制の下で少数派の白人が権力を握り続けるために、行われた政策が人 種別議会とホームランドの創設だった。人種別議会は南アの議会を白人議会、カ ラード(混血)議会、アジア人(インド人)議会に分けるという制度。そしてホームランド政策は、南アに住む黒人を部族ごとに作ったホームランドに居住さ せ、それぞれのホームランドを南アから独立させて「外国」にしてしまうというもの。すると黒人は「外国人」な んだから政治的権利も市民としての社会福祉も与えなくても構わないということになる。ホームランドは10個所設立され、350万人もの黒人が強制移住させ られた。最初は自治地域だったが、76年以降トランスカイ、シスカイ、ベンダ、ボプタツワナなどが次々と「独立」し、これらの「国」に住む黒人は南アフリカの国籍を剥奪されてしまった。ホームランドは白人にとって利用価値がない不毛な土地を かき集めて作ったので、「領土」はどれも不自然な飛び地ばかりとなり、住民の多くは「外国人労働者」として南アフリカの都市や農場、鉱山などへ通勤したり 出稼ぎに行った。
「独立」したホームランドでは軍隊が作られ、独自の切手も発行していたけど、こんな見るからにイカガワシイ国を承認していたのは、世界 でも南アフリカだけ。90年代に入って南アフリカがマトモな国になると、ホームランドはすべて「独立」を取り消され、消滅してしまいました。
参考資料:
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