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「ベネチアの失地回復」をエサにイタリアの参戦を促した飛び地

ザーラ

旧イタリア領

 
1918年 第一次世界大戦でイタリア が占領
1920年 ラバロ条約でイタリア領の飛び地となる
1941年 第二次世界大戦でドイツがユーゴスラビアを分割 し、ザーラ周辺のダルマチア地方はイタリアが占領
1943年 イタリアが連合国に降伏したため、ザーラをドイ ツ軍が占領
1945年 ユーゴスラビアのパルチザン部隊が占領
1947年 平和条約によりイタリアからユーゴスラビアに譲 渡。正式に飛び地解消
1991年 ユーゴスラビアからクロアチアが独立し、内戦が 勃発
1995年 内戦終結
  
イタリアが第一次世界大戦への参戦で要求していたダルマチアの領土  で、実際に獲得できた左上の地図(1933年)と比較してみてください
イタリアの地図(1921年)  ザラがイタリア領だった頃
ドイツ軍に占領されたユーゴスラビアの地図(1942年)  クロアチアとセルビアに分割されて、ダルマチアはイタリアへ割譲
現在のクロアチアの地図   イ タリアの地図  現在ではZadarに
ザダル(ザーラ)の衛星写真  (google map)

「民族のモザイク」と言われ、第一次世界大戦が勃発するきっかけを作ったバルカン半島。この地を支配していたオスマン・トルコとオース トリア帝国が解体したことで、1918年に多民族国家の「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」(29年にユーゴスラビアと改称)が誕生した が、アドリア海に面した町・ザーラ(現在はク ロアチアのザダル)にはイタリア領の飛び地が出現した。

ザーラがイタリアの飛び地になったのはこれが初めてではなく、800年近くにわたってベ ネチアの飛び地のような存在だった。ベネチアが都市国家として勢力を伸ばしたのは、多数の漕ぎ手を乗せたガレー船を使い機動力のある武装商船隊を擁していたからだが、一定の距離ごとに漕ぎ手の交替のための拠 点を確保する必要があった。このためベネチアはアドリア海から地中海、黒海にかけて、多数の飛び地のような植民都市を築いていたが、その1つがザーラだっ た。

ザーラは紀元前4世紀からヤデル(Iader)と呼ばれた歴史の古い港町で、ローマ時代にはディアドルと命名された。後に東ローマ帝国 (ビサンティン帝国)が支配したが、帝国の衰退に伴ってアドリア海には海賊が跋扈するようになっていた。そのためベネチアは992年の条約で、ビサンティ ン帝国の宗主権を認める代わりに「アドリア海の警察」としての役割を任ぜられた。こうして998年、ザーラをはじめアドリア海沿岸の各港がベネチアの統治 下に入り、ガレー船による海運ネットワークが確立されたのだ。

ベネチアの最大のライバルはジェノバだが、1102年にクロアチアとダルマチアを支配したハ ンガリーもアドリア海の海上貿易に乗り出そうと機を伺っていた。そのハンガリーの後押しでベネチアに反旗を翻したのがザーラ。時あたかも第四次十字軍遠征の頃で、ベネチアにはフランス各地から騎士たちが聖地エルサレム奪還に向かおうと集 まっていたが、資金が足りず出発できずにいた。そこでベネチアは「ザーラ攻略を手伝ってくれたら船代は後払いで結構」と持ちかけ、1202年、イスラム教徒と戦うはずの十字軍は同じキリスト教徒の町・ザーラを攻撃して占領してしまう。

当初の目的から足を踏み外した十字軍は、こんどはザーラで宮廷クーデターにより追放されたビサンティン帝国の皇太子に出会い、多額の褒 賞と引き換えにコンスタンティノーブル攻略を持ちかけられる。こうして十字軍は翌年、こともあろうにギリ シャ正教の総本山があるコンスタンティノーブルを陥落させ、ビサンティン帝国を滅ぼしてラテン帝国を立ててしまった。ザーラは十字軍堕落の きっかけを作った町でもある。

ベネチアは再びザーラの統治者となり、ダルマチア地方にも支配を広げるが、ザラではその後もハンガリー派による反乱がたびたび起きた。 そして1797年、ナポレオンの征服によりベネチア共和国が倒れると、ザーラなどダルマチア地方は短いフランス統治を経てハプスブルグ家がハンガリーとと もに支配するオーストリアへ割譲された。

イタリア領当時のザーラの地図

さて、 時代は下って第一次世界大戦が勃発。イタリアは当初中立を決め込んでいたが、イギリス・フランス・ロシアの3カ国は1915年のロンドン秘密条約で、イタ リアが連合国側として参戦すればオーストリアが支配している ト リエステ 半島(イストリア)やダルマチアを与えることを約束した。イタリアにとってはかつてのベネチア領の回復が果たせるため、さっそく参戦した ものの、戦後、民族自決の高まりの中で連合国はダルマチアをセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国 (後のユーゴスラビア)に与えることにして、ダルマチアでイタリアに与えられたのはザーラと ラゴスタ島だけだった。60万人の死者を出したイタリアでは、アドリア海沿岸で得られた領土の少なさに対して不満が高まり、イタリアの詩人 ダヌンツィオ率いる義勇軍が、独立した自由市と決められた フィ ウメ (現リエカ)を15ヶ月にわたり占拠する事件が起きた。

こうして、イタリアが獲得したザーラだったが、面積わずか51平方km(足立区や江戸川区並み)で、人口1万7065人(1920年) の小さな町だった。ダルマチア地方には、ベネチア時代から多数派のクロアチア人やセルビア人(主に農民)と、少数派のイタリア人(主に商人)が暮らしてい たが(※)、ザーラはイタリアによる支配の下でクロアチア人が逃げ出し、逆にユーゴスラビアで迫害されたイタリア人が各地から移り住んできた。こうして 1940年には人口の83%がイタリア人になり、ザーラのイタリア化が進んだ。

※当時ダルマチアに住んでいたイタリア人は、ベネチア時代の移住者のほか、古代 ローマ帝国時代から住んでいたラテン人の後裔もいた。
結局アドリア海沿岸をイタリアに分け与えたのはナチス・ドイツだった。第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍はユーゴスラビアを分割してクロアチアとセルビ アの2つの親ナチス国家を作ったが、ダルマチアやモンテネグロ、スロベニアをイタリアに譲った。しかし43年にイタリアが連合国に降伏すると、イタリアの 占領地をめぐってドイツ軍とチトーが率いる反ファシストのパルチザン部隊が奪い合い、ダルマチアの大部分はパルチザンが占領したが、ザーラはドイツ軍が拠 点として確保した。このため戦争末期には、ザーラは連合軍の空爆により大きな被害を受けることになる。

戦後、ザーラはユーゴスラビアの一部となりザダルと改称され、イタリア人は追放された。しかしソ連・東欧圏の崩壊でユーゴスラビアは解 体する。91年にクロアチアが独立を宣言し、セルビアを中心としたユーゴスラビア連邦軍との 間で戦争が始まったが、ダルマチアには多くのセルビア人が居住しており、彼らは ク ライナ・セルビア人共和国 としてクロアチアからの独立を宣言して内戦にもなった。セルビア人勢力は95年に制圧されて内戦は終結したが、周辺にセ ルビア人が多かったザダルの町は激しい砲撃を受けて再び破壊された。

内戦によってクロアチアのセルビア人は多くが難民になって国外へ逃れ、かつてはイタリア人やセルビア人などさまざまな民族が住んでいた ザダルの町は、ほぼクロアチア人だけの町となった。クロアチアは「民族のモザイク」ではなくなったことで平和を取り戻し、ローマ時代の遺跡やベネチア時代の教会が残る ザダルは、観光地として復興が進んでいるようだ。

ちなみにクロアチアはワールド・カップに出場したりとサッカーが盛んな国としても有名だが、これは19世紀末にザラやフィウメに入港し たイギリス船の乗組員らが広めたのがきっかけ・・・らしいです。

★ザーラの飛び地:ラゴスタ島

第一次世界大戦後にザーラとともにイタリア領になったのがラゴスタ島で、現在のクロアチ ア領ラストボ島だ。

アドリア海にはダルマチアの海岸に沿って無数の島があるが、ラゴスタ島はその南端にある島で、ザーラからは200km近くも離れてい る。この島はイタリアが第一次世界大戦に参戦するとさっさと占領し、1922年にセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(ユーゴ)と結んだラパロ条 約で正式にイタリア領になったもの。

イタリアはかつてベネチア領だったダルマチア地方の併合を望んで果たせなかったが、ラゴスタ島は歴史的にはベネチアと対立していたラ グーザ(現クロアチア領ドゥブロヴニク)の領土で、ベネチアがこの島を支配したのは1603年から3年間だけだった。ラパロ条約ではそれまでイタリアが占 拠していたアドリア海最北端の町・フィウメ(現クロアチア領リエカ)を独立自由市(都市国家)にして、イタリアとユーゴの双方が港を使えるようにしたの で、それと引き換えにアドリア海南端の島をイタリア領として認めたということらしい。フィウメ自由市は4年後に両国で分割されて消滅した。

ラゴスタ島は古代ギリシャの史書にも記載されているという歴史的な要衝で、7世紀以降はクロアチア人が住んでいた。通商やアドリア海防 衛の拠点だったが、10世紀にベネチアによって徹底的に破壊された後、島民たちは村を内陸に移して農業に専念していた。ラグーザの主権下にあったとはいえ 島では島民による自治が続き、自警団を組織して海賊の襲撃に備えていた。18世紀になると海賊は出没しなくなったが、代わりに吸血鬼が現れ、自警団は吸血鬼ハンターになって島をパトロールしていたとか(※)。

※1737年に多くの島民が激しい下痢で死ぬと、島民は「吸血鬼に血を吸われたか らだ」と断定して吸血鬼狩りを始めた・・・とラグーザで記録されている。これはクロアチア地方で吸血鬼出現の最後の記録だとか。
さて、イタリア領になったラゴスタ島は、周囲の45の小島と合わせて面積53平方km、人口は1710人(1920年)だった。ラゴスタ島はイタリアから バルカン半島への入口として開発が進み、人口も2000人を超えたが、第二次世界大戦でユーゴスラビア領になると海軍基地の島として外国人が訪れることは 禁止された。1991年にクロアチアが独立しても島はユーゴスラビア軍(セルビア軍)が支配し続けたため、多くの島民が難民となって逃げ出し、翌年クロア チアへ引き渡されたとはいえ島の人口は800人足らずに減少。現在では島を自然公園にして観光客を誘致しようという計画が進んでいる。

★ザーラの飛び地:ペラゴーザ島 

イタリアとバルカン半島を隔てるアドリア海には、中間に国境線が引かれているが、中間よりクロアチア側に浮かぶ大小2つのペラゴーサ島は、戦前までイタリ ア領としてザーラの飛び地になっていたのだ。
島からは紀元前6世紀に古代ギリシャで作られた陶器が発掘されていて、かなり以前から人が住んでいたようだが、その後無人島になり、ベネチアや両シチリア 王国を経てイタリアの領土になっていた。島には19世紀半ばからイタリアの漁民が移住していたが、ダルマチア(現在のクロアチア沿岸部)からボスニアへ領 土を広げていたオーストリアが、1873年に灯台を作るために占領。そして第一次世界大戦後は再びイタリア領になり、イタリア漁民の拠点になったものの、 第二次世界大戦後の47年にユーゴスラビアへ割譲されて、パラグルジャ島と なった(91年以降はクロアチア領)。

しかし1921年にイタリアとユーゴスラビアが「島の近海では双方の漁民が操業できる」と条約を結んでいて、この権利は47年以降も引き継がれたので、島 は無人になっても沿岸では現在もイタリア漁船が魚を捕っている。


★ザーラの飛び地:サセノ島 
 

大きな地図で見る

もう1つ、第一次世界大戦後にザーラとともにイタリア領になったのがサセノ島。場所はアルバニア南部の港町・ヴロラの真ん前で、面積は5・7平方kmの小 さな無人島だが、港の入り江を塞ぐような形になっている。

よくイタリアは「長靴」の形に例えられるが、そのかかとの部分の対岸が ヴロラ。だからイタリアやかつてのローマ帝国にとって、サセノ島はアドリア海の入口を抑える上で重要なポイントで、島の存在は紀元前の史料にも記されてい るという。

さて、中世の時代にはサセノ島はベネチア領で、オスマントルコの攻撃をしばしば受けていたが、ナポレオンがベネチアを占領した後、1815年にイオニア諸 島(ギリシャ西岸の島々)とともにイギリスの保護領になった。イオニア諸島は1864年にギリシャへ割譲されたが、ギリシャは北へ離れたサセノ島には興味 が湧かずに放置状態となり、71年にオスマントルコが灯台を建てて、実質的に占拠していた。

第一次世界大戦でサセノ島はギリシャ軍が占領。一方でアルバニアも1912年にオスマントルコから独立を宣言したものの、大戦の混乱で国王が逃亡してしま い無政府状態になっていたためサセノ島の領有権を主張するどころではなく、20年の条約で正式にイタリア領となり、ザーラの一部として統治されることに なった(※)。

※この時代に島の郵便局で使われた切手 は、ザーラの切手に「saseno」と加刷したもので、コレクターの間で希少品として人気を集めているそうな。

イタリアはサセノ島に灯台と海軍基地を設け、イタリア漁民も立ち寄っていたが、第二次世界大戦ではドイツが占領。44年にアルバニアのパルチザンが占拠し て、47年から正式にアルバニア領のサザン島になった。

アルバニアも島に海軍基地を置き、イタリアとの密輸取り締まり拠点にしていたが、アルバニアでは97年に国民の半数以上がはまったネズミ講が破綻して全国で大暴動が起きると、政府が崩壊して海軍基地は 使われなくなり、現在ではサザン島一帯は国立海洋公園に指定されているようだ。


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外務省−クロアチア共和国
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セント・アンドリュー・オ ブ・エルサレム騎士団日本総領事部  ラテン帝国の皇位継承者が率いる騎士団だそうです。ビサンティン皇室日本大使のデヴィ夫人と舞踏会もやってま す
zadar photo album  ザダルの写真がたくさんあります(英語)
storiacitta  イタリア時代のザーラ写真がたくさんあります(英語)
Lastovo Tourist Office  ラストボ島の観光案内(英語)
Croatia - Photo Galleries  ラストボ島の写真がbスくさんあります(英語)
 
 

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