独立自由市
 
 フィウメ  バトゥミ  ハタイ    

「自由市」って何でしょう?関税のかからない港のことを自由港(フリー ポート)と言うから、自由市は税金がタダの都市?それとも言論、集会、ポルノ、殺人・・・何をやっても自由な都市?まさかね。

自由市とは、封建領主による支配に属さない都市のこと。領主にかわって市 民(実際には商人などのブルジョアジー)が自治を行う都市のことで、中世ヨーロッパにはそういう都市がいくつもありました。1871年に成立したドイツ帝 国も、22の諸侯領と3つの自由市が参加してできたもの。日本でも戦国時代の堺は自由市でしたね。

さて、第一次世界大戦が終わるといくつかの自由市が誕生し、既存国家の支配を脱して独立を宣言しました。しかし実際のところ、これらの 独立自由市は大国の思惑で作られたもので、ほどなく消滅してしまいます。自由市でも国連保護下で成立したダ ンチヒ自由市はもう少し長く続きますが、こちらは第二次世界大戦のきっかけを作ることになってしまいます。

現代でいえば、シ ンガポールは独立自由市と言えるでしょう。モナコやバチカン市国は「封建領主」や「法王」に支配されているので、都市国家であっても自由市ではな いでしょう。サンマリノは自由市というより自由村という感じ・・・?




【過去形】フィウメ

フィウメ自由市の領域と分割地図 
ハ ンガリー時代のフィウメ市の地図 フィ ウメ港の地図 
第一次世界大戦への参戦でイタリアが要求したダルマチアの地図 現実に割譲されたのは下左の日本語の地図を参 照
1921年のイタリアの地図 独立市になったはずなのに、イタリアの領土のように描かれています
現在のクロアチアの地図 イ タリアの地図 現在ではRijekaに
現在のリエカ市の地図 旧国境だった川の部分は残念ながら載っていません
リエカ市の衛星写真 (google map)


ダンチヒ自由市は世界史でも習うけど、同じく第一次世界大戦で生まれたフィウメ自由市はマイ ナーな存在。ま、すぐに消滅しちゃったから、仕方がないですね。

フィウメはイストリア半島の付け根にある都市で、現在はクロアチア共和国のリエカ。 かつてはベネチア共和国が支配し、イタリア系住民が多数を占める港町だったが、19世紀初めにナポレオンが征服した後、オーストリア=ハンガリー帝国(の うちハンガリー)によって支配されていた。第一次世界大戦が勃発した当初、イタリアは中立を決め込んでいたが、イギリス・フランス・ロシアの3カ国は 1915年のロンドン秘密条約で、イタリアにイストリア半島とダルマチア(クロアチアの沿岸部)を与えることを約束して、イタリアの参戦を促した。

イタリアにとっては旧ベネチア領の回復を意味するので連合国に加わったのだが、第一次世界大戦後の領土分割では「民族自決」の原則で進 められることになり、イタリアにはイストリア半島は与えられたが、ダルマチアは新たに独立したセルビア人・クロアチア人・スロベニア人連合王国(後のユー ゴスラビア)の領土とされ、イタリアが得たのはザーラ港とラゴステ島だけだった。

イタリアは当初「民族自決」の原則を尊重してダルマチアの放棄を受け入れる代わりに、ロンドン秘密条約ではユーゴスラビア領とされた フィウメを要求していた。「イタリア系住民が多いのだから、民族自決の原則から言えばイタリア領になって当然」というわけだ。しかし連合国がフィウメの割 譲を拒否したため、怒ったイタリアはパリ平和会議をボイコットしてベルサイユ条約にも調印せず、国際的に孤立してしまう。


仲裁に入ったアメリカのウィルソン大統領は、フィウメをダンチヒのように国連管理下の自由市にすることを提案したが、イタリア国内では武力でダルマチアを 占領すべきだという声が高まり、1919年9月にナショナリストの詩人・ダンヌンツィオが「黒シャツ隊」と いう私兵2500人を率いてフィウメ市を占領した。

ダンヌンツィオらの狙いはフィウメを足がかりにダルマチア進撃に備えるとともに、弱腰外交を続けていたイタリアの自由主義政権を倒すこ とだった。フィウメには軍人やナショナリストからサンディカリスト、アナーキストから芸術家まで集まり、イタリアの反政府運動の拠点になった。ダンヌン ツィオは「国家の最高原理は音楽」という憲法(カロナロ憲章)を発布して自ら大統領に就任。朝は市庁舎のバルコニーで即興の詩を披露し、夜は毎日大規模な コンサートを開いたりと、市を挙げての放蕩三昧を繰り広げた。

しかしイタリア政府は国際社会へ復帰するためにフィウメ問題の解決に迫られ、20年11月にユーゴスラビアとラパロ条約を結び、フィウ メ市を緩衝地帯として独立自由市にすることを決定。翌月、フィウメに軍隊を派遣してダンヌンツィオと黒シャツ隊を追放した。

こうしてフィウメは両国どちらにも属さずに独立した。21年4月の総選挙ではクロアチア人が支持する自治党が、イタリア人が推す自由主 義やファシストの諸政党を退けて勝利し、リッカルド・ザネラが大統領に就任した。しかしイタリアでは1922年にムッソリーニのファシスト党が政権を握ると再びアドリア海東岸への進出を企て、フィウメでもそれに呼応 して3月にクーデターが発生。親イタリアのファシスト派が実権を握り、ユーゴスラビアへ逃げたザネラ大統領は亡命政府を作った。

フィウメを傀儡国化したイタリアは、24年3月に併合してしまう。実際にはフィウメの町 は真中を流れる川で2つに分割され、東半分のスシャク港(スサク港)や北部の郊外はユーゴスラビアに与えられた。このためユーゴスラビアは 異を唱えず、国連もこれを黙認することになった。ザネラはユーゴスラビアに庇護されて、フィウメ近くのKraljevica村で亡命政府を続けた。

第二次世界大戦では、1943年にイタリアが降伏するとフィウメはドイツ軍に占領されたが、45年にチトー率いるユーゴスラビアの国民 解放軍が占領。亡命政府は再び自由市として独立させるよう求めたが、占領下で迫害されたイタリア人の90%が逃げ出し、47年に正式にユーゴスラビアが併 合。91年以降はクロアチア領で、人口は約20万人。最近はイタリアからの観光地として賑わっているようだ。

ちなみにダンヌンツィオに大きな影響を受けたという人が三島由紀夫で、翻訳本も出している。そういえば、三島由紀夫も「盾の会」という 抜刀隊(つまり私兵組織)を率いていましたね。どうせなら北方領土に乗り込むくらいのことをしてほしかったものです。

  
フィウメ自由市の旗(左)と、黒シャツ隊が占拠していた頃の 旗(右)

●関連リンク

0901リエカ 現在のリエカの様子。一番下の写真の運河はかつての国境線?




【過去形】バトゥミ 
 
現在のグルジアとバトゥミ、アジャリア自治共和国の地図
現在のバトゥミ市周辺の詳細地図 
バトゥミ市の衛星写真 (google map)
赤で書き加えられた バツーム(バトゥミ)の国境線
日本で は夏に避暑地が賑わいますが、ロシアでは冬に避寒地が賑わうそうな。黒海沿岸には避寒地が多く、クリミア半島のヤルタは有名な避寒地ですが、現在はグルジ アになっている黒海東岸のバトゥミ(またはバツーム、バツーミ、バトゥーミとも表記)もその1つ。そのバトゥミは第一次世界大戦後に、自由市として短い間 だけ独立したことがあります。

バトゥミは古代ギリシャの植民都市だったという歴史の古い町で、グルジアの重要な港町。住民の多くはグルジア人だが、グルジア人の多く がグルジア正教会のキリスト教徒なのに対して、バトゥミなどグルジア南部のアジャリア地方は11世紀以降、セルジューク・トルコやイル汗国、オスマン・ト ルコなどに支配され、イスラム教に改宗した住民が多く、彼らはアジャリア人(またはアジャル人)とも呼ばれている。

バトゥミは第6次露土戦争の結果、1878年にオスマントルコからロシアへ割譲されたが、第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が 起きるとトルコ軍が占領し、1918年5月に隣接するグルジアがロシアから独立してメンシェビキ(※)による政権が成立すると、バトゥミは翌月トルコへ割 譲された。しかし同年12月にイギリスが占領し、翌1919年1月、バトゥミ共和国として独 立を宣言する。

※ロシア社会民主労働党が分裂して、ブルジョア革命→プロレタリア革命を唱えた右 派がメンシェビキ、一気にプロレタリア革命を主張した左派がボルシェビキ(後の共産党)。ロシア革命(2月革命)直後のソビエト(労農兵評議会)政府では メンシェビキが優勢だったが、方針が揺れ動いたためにレーニン率いるボルシェビキに主導権を奪われて凋落。
バトゥミの独立政府はイギリスの傀儡に過ぎず、3ヵ月後には独立を取り消されてイギリスが再び軍政を敷いてしまう。イギリスがバトゥミにこだわったのは、 アゼルバイジャンで採れる石油の積出港として重要だったからで、1920年4月にイギリスはバ゙トゥミを自 由港とすると宣言し、国際連盟の保護の下でイギリス、フランス、イタリアが共同管理することを決めたが、7月にはグルジアが再び占領する。

この頃、南に隣接するトルコ領のアルメニア人居住地域では、セーブル条約に基づいて独立を宣言したが、トルコ軍が攻め込んで虐殺が続い ていた。1921年2月にグルジアでソビエト政権が樹立されると、メンシェビキはいったんバトゥミに逃れた後、翌月海外へ亡命。その空白にトルコ軍が攻め 込んで占領したが、間もなくソ連とトルコはモスクワ条約を結び、ソ連はトルコ領内のアルメニア人地区の独立や旧ロシア領内のアルメニア(現在のア ルメニア共和国)との一体化を認めないかわりに、トルコはグルジアがバトゥミを併合することを認めた。

なぜまたトルコとソ連が手を結んだのかといえば、当時トルコはセーブル条約で連合国(英仏米伊やギリシャ)によってば らばらに分割されたトルコ本土の領土を取り戻すために奮戦中で、一方のソ連はソビエト政権の樹立に反対した連合国(英仏米伊や日本)の軍事介入 (シベリア出兵など)と戦っている最中。つまり第一次世界大戦では敵味方に分かれた両国だったが、当面の敵が同じになったのでお互いの軍事対立を避けたと いうこと。こうしてバトゥミには7月にアジャリア自治ソビエト社会主義共和国が成立し、ソ連(グルジア)の一部になった。

さて、ソ連崩壊に伴って1991年にグルジアはソ連から独立したが、ガムサフルディア大統領はグルジア民族主義を掲げて強引な同化政策 を推し進めたため、西部のア ブハジアや北部の南 オセチアが相次いで独立を宣言して、激しい内戦が始まった。バトゥミを中心とするアジャリア自治共 和国でもイスラム教徒のアジャリア人が同化政策に反発し、92年にガムサフルディア大統領がクーデターで追放されるなど混乱が続くと、グル ジアの第2政党「全グルジア再生同盟」の党首でアジャリアの最高会議議長だったアバシゼは、独立宣言こそしなかったものの、アジャリアの完全自治を実行 し、独自の軍隊を組織して、グルジア政府による支配を排除した。

バトゥミ港からの石油積み出しとトルコ国境での関税などの収入で、アジャリアは経済的に自立することができたし、石油ルート防衛のため に駐屯したロシア軍がグルジアからの独立状態を支えた。アバシゼはグルジア政府の介入を拒否する一方で、グルジアのシェワルナゼ大統領(元ソ連外相)を支 え続け、アジャリア自治政府はグルジア政府への納税を拒否する一方で、グルジア政府の閣僚へは資金提供を続けたとも言われた。2004年初めにグルジアで 「腐敗一掃」を掲げたサーカシヴィリが大統領に当選すると、アバシゼが率いるアジャリアはグルジアとの境界線の橋を破壊して交通を遮断、いよいよ本格的な 独立を目指すかと思われたが、アバシゼの独裁体制に対する反対運動が高まり、アバシゼは5月にロシアへ亡命。アジャリア自治共和国は再びグルジアの統治下 に戻っています。

  
バトゥミ共和国の旗(左)と、アバシゼの「独立王国」だった 頃のアジャリア自治共和国の旗(右)

●関連リンク

旅人の南 カフカスとトルコについてのページ トルコ→バトゥミ→グルジア→アルメニアの旅行記




【過去形】ハタイ 

現在のトルコの地図 
現在のハタイ周辺の地図 
1933年のアラビアの地図 「アレキサンドレッタ」や「アンタキエ」は仏委シリア領の一部になっています
アンティオキアの地図(1912年) 
ハタイの衛星写真 (google map)

トルコとシリアの国境地帯で、地中海沿いにトルコ領が南へ垂れ下がっているのがハタイと呼ばれる一角だが、ここは1938年から39年 にかけて、ハタイ独立共和国という独立国だったことがある。

ハタイの中心都市はアンタキアだが、かつてハタイはアレキサンドレッタ、 アンタキアはアンティオキアと呼ばれていた。その名の通り、紀元前4世紀にアレキサンダー大王が都市を建設したと伝えられる場所で、アレキサンダー大王の 死後、250年間にわたってシリア王国(セレウコス朝)の首都になり、ローマ帝国の時代にはローマ、アレキサンドリア(エジプト)に次いで栄え、かのシル クロードの西の終点とも言われた町。「クリスチャン」という言葉が初めて使われたのもこの一帯で、アンティオキアにはシリア正教会の総主教座が置かれ(現 在では実質的にダマスカスへ移転)、シリアの政治・経済・文化の中心地だった由緒ある場所だ。

さて、シリアは16世紀以来オスマントルコの属領だったが、第一次世界大戦でトルコが敗れると、1920年のセーブル条約でフランスの委 任統治領になった。、セーブル条約でトルコは属領どころかトルコ本土まで連合国によってば らばらに分割されることになったが、ケマル・パシャの奮戦でトルコ本土は守り抜き、23年のローザンヌ条約で連合国に認めさせた。

そこで問題になったのがフランスが「シリアの一部」だとして統治していたアレキサンドレッタの帰属だった。アレキサンドレッタにはアラ ブ人(シリア人)やアルメニア人がいたが、最も多かったのはトルコ人だった。トルコ人住民は 新生トルコの復興に勢いづき、「トルコ人が一番多いのだから、トルコ本土の一部だ」とトルコ返還を要求。これに対してフランスは1925年にアレキサンドレッタを自治州とし、翌26年3月にはアレキサンドレッタの行政をシリアから切り離した が、こんどはアラブ人やアルメニア人が反発したため、3ヵ月後にシリアへ戻した。こうしてトルコ人とアラブ人やアルメニア人との間で対立が高まり、トルコ 人たちはアレキサンドレッタを古代ヒッタイト王国にちなんで「ハタイ」と呼んで、ハタイのトルコ編入運動が盛んになっていった。

1932年に旧トルコ属領でイギリスが委任統治していたイラクが独立すると、シリアでもフランスからの独立運動が盛んになり、36年に フランス・シリア友好条約が結ばれて、3年後に完全独立することが決められた(※)。これに「シリアと一緒 に独立させられたらタマラナイ!」と危機感を抱いたのがトルコ人住民だ。トルコ政府も国連へ提訴し、翌年には国連の調停でアレキサンドレッ タ自治州にシリア独立後も外交・防衛を除く本格的な自治を与える協定が結ばれ、自治政府樹立に向けての選挙が実施されることになった。

※戦争により、シリアの独立は延期され、キリスト教徒が多かったレ バノンが分離lして1943年に独立、シリアが独立を果たしたのは結局1946年のこと。
選挙は1938年6月に行われる予定だったが、住民同士の衝突が激しくなったため何度か延期され、フランス軍2500人に加えてトルコ軍2500人も進駐 する中で7月末に実施された。結果は全40議席のうちトルコ人が22、アラブ人13(アラウィー派イスラム教徒9、スンニ派イスラム教徒2、キリスト教徒 2)、アルメニア人5で、代表と首相と5人の閣僚からなる政府が発足。9月5日に人口23万7000人のハタイ独立共和国(Independent Republic of Hatay)として独立を宣言した。

ハタイ独立共和国は、シリアでもトルコでもないフランス保護下の独立国として、フランス語の学校教育などが行われたが、トルコ人主導の 政府の下でトルコとの一体化が急速に進んだ。39年2月からトルコの法律が適用され(ただし徴兵と女性参政権を除く)、3月にはトルコ・リラが法定通貨と なり、トルコとの関税が撤廃される一方で、シリアとの国境では出入国管理や関税徴収が行われるようになった。そして住民投票ではトルコ編入が多数を占め て、6月末に開かれた最後の「ハタイ国会」ではトルコ編入が決議され、7月23日にフランス軍は撤退、ハタイ独立共和国は消滅して、トルコ領になった。

フランスやイギリスがハタイのトルコ帰属を認めたのは、ナチスドイツとの緊張が高まる中で、トルコをドイツから切り離し英仏側に引き寄 せるためだった。ドイツは1936年頃からトルコへ積極的に経済進出し、トルコの対外貿易の約半分を占めたほか、39年1月にはトルコへ1億5000万マ ルクの借款を提供する協定を結んでいたが、英仏がハタイのトルコ帰属を認めた6月の3ヵ国共同宣言で英仏側に舵を切り、10月には共同防衛を謳った英仏土 3ヵ国相互援助条約が結ばれた。つまり英仏にとってハタイはトルコを味方につけるための取引材料になったのだ。

ハタイに住んでいたアルメニア人の多くはトルコ政府による弾圧を恐れて逃げ出したが、アラブ人はそのまま留まった者も多かった。トルコ は1920年代から30年代にかけて、国内に住む数百万人のギリシャ人とアルメニア人を追放したが、民 族の判定基準は出身や言語ではなく宗教とされ、ギリシャ正教徒(東方正教徒)=ギリシャ人、アルメニア正教徒=アルメニア人と見なした。逆にギリ シャ語しか話せなくてもイスラム教徒なら「トルコ人」だとして追放されず、イスラム教に改宗してトルコに残った者も少なからずいた。現在ハタイには、アラ ビア語を日常言語とする「トルコ人」がたくさん住んでいる。

一方で、シリアは現在でもトルコ軍進駐下で行われた選挙や住民投票を認めず、ハタイのトルコ編入を認めていない。シリアの地図には自国 の領土「アレキサンドレッタ」として記載されている。シリアにとってアンティオキアは紀元前から続くシリア の古都なのであって、たかだか20世紀前半の一時期に「トルコ人の人口が多かった」くらいの理由でトルコ領にされてしまうのには、納得がい かないということ(※)。

※同様に、いやそれ以上に納得がいっていないのが、ギリシャ文明の都・コンスタン チノープル(イスタンブール)をトルコに奪われ続けていると思っているギリシャ人。
これにユーフラテス川の水資源配分問題も絡んでシリアとトルコは一貫して仲が悪く、シリアはトルコからの独立を目指すクルド人ゲリラの拠点にもなってい た。1998年にはクルド人ゲリラの掃蕩を求めるトルコ軍がシリア国境に集結してあわや軍事衝突となりかけたが、シリアがゲリラのリーダーを追放したこと で衝突は回避。その後は領土問題を棚上げにして両国の関係改善は急速に進み、2005年にはシリア軍が試験発射したミサイルが誤ってハタイに落ちる事件が 起きたが、トルコ政府はこれに目をつぶるという一幕もあったほどだ。

  
フランス委任統治時代のアレキサンドレッタ自治州の旗(左) と、ハタイ独立共和国の旗(右)。トルコ国旗とは同じようで微妙な違いが・・・。

●関連リンク

Sandschak Alexandrette ハタイ独立共和国時代の切手。シリアの切手に加刷したもの(英語)
Antakya's museum 本来ならばシリアの文化遺産の数々がトルコの博物館として展示されてるということで、シリアにとっては癪の種?(英語)
 
 

『世界飛び地領 土研究会』TOPへ戻る