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実は飛び地?
Jungholz kleinwalsertal レバノン アイルランド カンポベロ島 飛び地と言うのは本土と切り離された領土のことですが、本土と一応つながっていても、実際には飛び地としか言えないような場所もあります。「外国にしか道が通じていない村」や「外国にしか道が通じていない家」などですが、もともとは同じ民族が住み1つの地域だったのに、人為的な国境線で分割されたような場所に多いようです。
Jungholz ドイツ領に囲まれたオーストリア領ドイツとオーストリアは国家は別々とはいえ、民族は同じドイツ人。そういえばかの有名なヒトラーはもともとオーストリア生まれのオーストリア人で、ドイツへ移り住んだのはオーストリアの兵役を逃れるため。それでも第一次大戦ではドイツ軍に参加したのですが、ナチスの党首になった時もまだオーストリア国籍で、ドイツ国籍を取ったのはようやく1932年、ドイツの大統領選に出馬するためでした。つまりヒトラーの生涯56年のうち、ドイツ国籍だったのはたったの13年間だけということになりますが、誇り高きドイツ人としてのアイデンティティは、生涯を通じて変わらなかったんでしょうね。
オーストリアは1938年、ヒトラーによってドイツへ併合されますが、19世紀後半にそれまで諸侯が群雄割拠していたドイツで統一の機運が盛り上がった時には、オーストリアを含めてすべてのドイツ語圏を統一しようと言う大ドイツ主義と、当時強大だったオーストリア帝国は抜きにしてプロイセン王国中心でまとまろうという小ドイツ主義とがありました。結局1871年に後者のドイツが成立しましたが、そういう政治的な主導権争いの結果、近代国家としてのドイツとオーストリアは別々の国になったわけで、ドイツ語を話して暮らす民衆にとっては、お互いが「外国」「外国人」になったという感覚はなかったでしょう。
もっともナチスによる支配の教訓から、第二次世界大戦後のオーストリアではドイツとの合併は永久に禁止され、ドイツとは切り離された「オーストリア人」としてのアイデンティティも生まれたが、昨今では欧州統合の流れの中で再び「オーストリアのドイツ人」意識が復権しつつあるようです。
さて、前置きが長くなったがドイツとオーストリアの国境には複雑怪奇な場所があって、オーストリア西北部のチロル地方にあるJungholzという村もその1つ。Jungholzは7平方kmほどで人口は323人の小さな集落だが、オーストリア本土とは十字型の国境線でかろうじて接しているだけ。それも本土との接続地点は山の上だから、実際には村への出入りはドイツ領を通らなくてはならないのだ。
このためJungholzの出入国管理はドイツと一体化され、通貨や関税もドイツのものが適用されて経済的にはドイツの一部に組み込まれている。もっとも住民は「ドイツ人」だし、現在ではドイツとオーストリアの出入国やフリーパスになり、EU統合で通貨や関税も統一されてしまったので、住民の暮らしに不便はない。
この国境線は1844年にオーストリア帝国とバイエルン王国が結んだ条約で定められたもので、50年に修正されたもの。山の上の国境線が交差する場所には、世界的にも珍しい十字型の国境を記念して、十字架が立っているそうな。
The boundary cross at Jungholz Jungholzの説明や「十字国境」の写真(英語)
Kleinwalsertal ドイツ領へしか行けないオーストリア領Kleinwalsertalはオーストリアの西北部・チロル地方にある谷で、Mittelbergなど3つの村がある。地図を見ても一見何の変哲もないオーストリア領だが、道路が乗っている地図をよく見てみれば、この谷にはドイツへ向かう道しかなく、オーストリアの他の地域とは山で隔てられていて、直接は行き来できないのだ。
Kleinwalsertalは中世まで住む人のない谷で、レッテンブルグ(現在のドイツ・バイエルン州)に住む男爵の狩猟場だったが、1270年にスイスから政治的理由でやってきた人たち(つまり難民)が住み着いた。男爵は1家族あたり毎年チーズ1塊を献上することを条件に彼らの定住を認めた。そのままいけばKleinwalsertalはドイツ領になっていたはずだが、領地として重要でない狩猟場は、相続や売却で持ち主が変わり、1451年にオーストリアのハプスブルグ家の手に渡った。こうして1806年から14年まで短期間バイエルン領になったことを除いて、Kleinwalsertalはオーストリアの一部に組み込まれた。
しかし1871年にドイツの諸侯領が統一してドイツ帝国が成立すると、国境警備や関税徴収が強化され、農作物や牛を売ったり商品を買うたびにドイツを通らなければならなかったKleinwalsertalの住民は困窮してしまう。そこで交渉の結果、1891年からはバイエルンと関税同盟を結び、ドイツとの商品往来には関税がかからないようになった。こうしてKleinwalsertalはオーストリア領でありながら、ドイツの通貨・経済圏の一部となった。
ドイツの経済圏になったことで、Kleinwalsertalには新たな産業が生まれた。1930年代にナチス政権の下でドイツが経済復興すると、Kleinwalsertalにはスキーを中心としたウィンタースポーツの観光客が訪れるようになり、ドイツがオーストリアを併合して一体化すると観光客が急増し、ホテルやゲレンデなどの設備が整えられた。戦後もKleinwalsertalは西ドイツから手軽に訪れられるスキー場として発展し、現在では住民5000人に対して、ホテルのベッド数は合計1万2000だという。
Kleinwalsertal Kleinwalsertalの観光案内(英語)
シリア領へしか行けないレバノン領レバノンの地図 左上に1993年当時のレバノン分割図があります
レバノン北部の地図
レバノン東部・Baalbekk付近の地図南端でイスラエルに接している他は、シリアにすっぽり覆われたレバノンパレスチナ戦争は、ユダヤ教徒=イスラエル人VSイスラム教徒=パレスチナ人(アラブ人)ということでわかりやすい戦争でしたが、グチャグチャの内戦が続いていたのがお隣りレバノン。同じアラブ人同士のキリスト教徒・右派VSイスラム教徒・左派の紛争に、PLOやイスラエル軍、シリア軍、米軍、果てはイランの革命軍まで加わって、レバノン政府はとっくに崩壊。15年間続いた内戦は1990年にいちおう終結し、レバノンの大半を占領したシリア軍を後ろ盾にレバノン政府が再建されましたが、その後も各種民兵による戦闘やテロは続き、2005年にようやくシリア軍が撤退して、今度こそ平和が戻りそうな感じ・・・だと思ったが、こんどはイスラエル軍が侵攻してもとの木阿弥。シリアとレバノンは歴史的にみれば1つの地域で、現代でも両方を総称してレバシリなんて言葉もある(※)。かつてはオスマントルコの属領で、第一次世界大戦後はフランスの委任統治領になったが、フランス統治下でキリスト教徒が多かったレバノンは分離されて43年に独立、残ったシリアは46年に独立して別々の国となった。
※レバシリ商人は、フェニキア人以来の伝統を引く交易に長けた人たちということで、ユダヤ人、印僑、華僑とならぶ「世界の四大商人」だとか。レバノンはアラブでただ1つキリスト教徒が主導権を握る国として、欧米にとっては中東の窓口のような存在になり、レッセフェール(自由放任)の経済政策や自由・多彩な報道機関の存在とあいまって、首都ベイルートは50年代から70年代にかけて中東の金融センターとして発展し、それまでの伝統的な商業拠点だったシリアの首都ダマスカスを圧倒した。シリアにとって見ればレバノンはもともと自国の一部であるべきなのに、フランスはじめ欧米の陰謀で分離独立してしまったというわけで、シリアの主導下に置かれるべきというのが大シリア主義だ(※)。※本来の「大シリア主義」は、イギリス委任統治領になったヨルダンやパレスチナ(イスラエル)も合わせて統一国家を作るべきという考えで、かつてヨルダン王家の ハーシム家 が主張していたが、ヨルダンはPLOに国を乗っ取られそうになってしまい、シリアどころかパレスチナの領有権も放棄した。レバノンでは1930年代の国勢調査をもとに、キリスト教徒とイスラム教徒の人口比率は6:5だということで、国会の議席数や閣僚ポストもそれに比例して割り振られ、キリスト教徒が主導権を握る仕組みが作られていた。しかしその後人口調査は行われず、キリスト教徒はどんどん欧米へ移住していったのに対し、イスラム教徒の方が出生率が高く、人口比率は逆転していたはずだった(※)。こうしてエジプトのナセル大統領が唱えたアラブ民族主義にも煽られて、イスラム教徒の不満が高まっているところに、ヨルダンを追い出されたPLOがレバノンに拠点を移し、これをイスラエル軍が攻撃。PLOを追い出そうとするキリスト教徒民兵と、PLOを擁護するイスラム教民兵との間で内戦になり収拾がつかなくなったところで、シリア軍が介入。イスラエル軍によってPLOが追い出されると、シリア軍は宗主国のような顔をしてレバノンに居座り、「大シリア主義」を実行した。「大シリア」の地図その1 フランス委任統治時代(1933年)の地図
「大シリア」の地図その2 第一次世界大戦直後(1919年)の地図※90年の内戦終結後は、キリスト教徒とイスラム教徒の議席配分は同数になったが、現在の人口比はキリスト教徒3:イスラム教徒7にまで開いてしまったと言われる。一方で、レバノンには小レバノン主義というのもある。レバノンは本来、マロン派キリスト教徒やドルーズ派イスラム教徒などレバノン独特のマイナー宗派の住民たちが住む中部だけで独立国家を作るべきで、フランスが委任統治時代にマロン派の独立運動を抑えるために、シリア指向が強い北部や南部をレバノンの領域に加えさせられ、おかげでキリスト教徒とイスラム教徒の人口が接近してしまったという考えだ。レバノン内戦が始まるとマロン派の民兵組織はベイルートからトリポリにかけての中部地帯をさっさと確保して民族浄化を行い、「小レバノン主義」を実行した。さて、前置きばかり長くなりましたが、レバノンの北部にはシリアの国内同士をつなぐ道路や鉄道が横切り、シリア領へしか行けない村がいくつか存在します。またレバノン東部のバールベックの南にも、レバノン領がシリアへ張り出した箇所があって、そこの奥地にはシリア領へしか道が通じていない村が。。。
もっともこれらの村は永らくシリア軍の占領地域だった。レバノンの鉄道網は内戦で完全に破壊されてしまったが、レバノン北部をかすめる鉄道は、内陸部で獲れる石油や燐鉱石を地中海のタルトゥース港へ運ぶための重要路線で、シリア国鉄が運行中。シリア軍の撤退でどうなることやら。
イギリス領へしか行けないアイルランド領
アイルランド領へしか行けないイギリス領●まだ準備中です
カンポベロ島 アメリカ本土と橋で結ばれたカナダ領の島カンポベロ島(右)とアメリカ本土の半島(左)の地図
カンポベロ島の衛星写真 (Google)離島に橋ができて本土と結ばれるのは「島民の悲願」だとよく言われますが、橋はできても外国の本土と結ばれてしまったら悲願達成なのでしょうか?ま、橋がないよりはよっぽどマシだと思いますが・・・。
さて、カナダの大西洋岸に浮かぶ人口1500人ほどのカンポベロ島は、アメリカ本土とだけ橋で結ばれている。カンポベロ島はカナダ本土よりもむしろアメリカの目と鼻の先だし、アメリカとカナダの国境は簡単な検査だけで通れるから、橋を架けるならアメリカ側へというのはありそうな発想だが、ルーズベルト・カンポベロ・インターナショナル・ブリッジという橋の名前から想像できるように、橋ができた背後にはアメリカの政治家の影がありました。
カンポベロ島は17世紀からフランス人が住んでいたが、1713年のユトレヒト条約でイギリスの手に渡った。19世紀半ばまでは漁業の島にだったが、清水が豊富だったことから1870年代からはワインやウイスキーの産地になり、1881年にはカンポベロ社が高級ホテルを建て、美酒もウリの1つにして夏のリゾート地として大々的に売り出した。こうしてニューヨークやボストンから裕福な人たちが毎年島を訪れるようになったが、83年に初めて島へやって来たルーズベルト家もその1つ。
後にアメリカ大統領になったフランクリン・デラノ・ルーズベルトはその前年に生まれていたが、幼少の頃から毎年夏はカンポベロ島の別荘で過ごし、大統領に就任してからもしばしば島に滞在していて、アメリカの軍艦が大統領を迎えに島へ寄航することもあったという。
戦後、クーラーが普及すると夏を避暑地で過ごす金持ちは減り、カンポベロ島も寂れていったが、1962年に橋が開通したことで観光地として復活。ルーズベルトの別荘もルーズベルト記念公園となって観光名所の1つになっているようだ。
※ ※ ※
外国とだけ橋で結ばれている島といえば、惜しかったのが中国・広東省の横琴島。この島は1999年12月10日に開通した蓮花大橋で マカオ のコロアネ島・タイパ島とつながり、ポルトガルと結ばれた中国の島になった。しかし横琴島は同年9月28日に横琴大橋が開通して、すでに中国本土とは結ばれていた。しかも12月20日にはマカオは中国へ返還されてポルトガル領ではなくなったので、「国境に架かる橋」はわずか10日間でオシマイになったのでした。
マカオの衛星写真 Cock Islandとあるのがタイパ島、陸続きの下がコロアネ島で、上のマカオ半島と共に旧ポルトガル領。左下が横琴島、左上は中国大陸
蓮花大橋は「国境に架かる橋」という名を得るために、なんとかマカオ返還前に開通させようと突貫工事で作った無理がたたり、2005年秋から1年間旅客は通行止めになって補修し直しています。バカだね。
参考資料:
jungholz.enclaves.org http://jungholz.enclaves.org/
Kleinwalsertal http://www.kleinwalsertal.com/index.php?id=2&L=1
Alles zu Enklaven und Exklaven http://www.enklave.de.vu/(独語)
Campobello Island http://www.campobello.com/official.html
Wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/
広東投資招商網 http://www.gdtzzs.gov.cn/front/displayNews.jsp?newsId=968
華声和語 http://www.come.or.jp/hshy/j99/12b.html
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