このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

ヨルダン国王の保身のために犠牲になったイラク国王

アラブ連邦
首都:バクダッドとアンマンが交互

  

1958年2月14日 ヨルダン王国とイラク王国でア ラブ連邦を結成
1958年7月14日 イラクでクーデターが発生し、王制が 倒れてイラク共和国となる
1958年8月2日 ヨルダンがアラブ連邦の解消を発表

1920年のアラビア半島の地図  セーブル条約に基づいてアラ ビア半島の大半はヘジャズ王国領、エルハサはイギリス委任統治領ということになっています
1921年のアラビア半島の地図  アラビア半島は群雄割拠の状 態で混沌としてます

1958年2月22日にエジプトのナセル大統領の主導で成立したアラブ連合共和国は、反欧米・アラブ統一・社会主義を掲げた汎アラブ民 族主義だったが、これに周囲の親欧米の王制アラブ諸国は強い恐怖を感じた。そこでアラブ連合共和国に対抗してヨルダン王国とイラク王国が合邦したのがアラ ブ連邦だ。

アラブ連邦元首のファイサル2世
首都はバクダッドとアンマンに半年交代で置かれ、元首にはイラク国王のファイサル2世が就任。両国の国王はそれぞれの王国内 で憲法に規定された権限を持ち、両国はそれまでの主権と国際的地位を保全するが、新たに連邦議会と連邦行政府を作り、軍隊や外交政策、教育、通貨を統一。 諸外国との国際条約も今後は連邦政府が担当する・・・という内容だった。

当初はアラブ最大の王国であるサウジアラビアも加えて3ヶ国で統合するという話だったが、サウジはすぐに脱落。残った両国の間で交渉は トントン拍子で進み、アラブ連合の成立よりも一足早く実現できたのは、ヨルダン国王とイラク国王が同じハー シム家だったため。一方で、サウジアラビアの国王・サウド家は、かつてハーシム家をメッカから追い出した「親の仇」だったから、もとから統 合できるはずはなかった。「とりあえず声をかけてみた」という程度だったのでしょう。

ナセル大統領がアラブの統一を訴えるより遥か以前から、ハーシム家はアラブの統一を唱えて行動していた。ハーシム家はイスラム教の預言 者・ムハンマド(マホメット)の直系の子孫をn自称し、メッカの太守をしていたアラブ随一の名門。アラブ一帯はオスマン・トルコが支配していたが、第一次 世界大戦が始まると、ハーシム家の当主・フセインは英国と「イギリス軍に協力すればハーシム家の下でアラブ独立を認める」という、フセイン=マクマホン協 定を結んでオスマン・トルコに反旗を翻し、1916年にメッカを中心にヘジャズ王国を打ち立 てて独立を宣言。さらに息子のファイサルは、イギリス陸軍情報将校のローレンスの指揮の下、アラブ反乱軍を 率いて1917年に紅海のアカバ港を占領、翌年シリアのダマスカスからトルコ軍を追い払い、アラブ臨時政府を樹立した。

しかし、英国はフセイン=マクマホン協定での約束を裏切り、シリアとレバノンはフランスの委任統治領、イラク、ヨルダン、パレスチナ (イスラエル)はイギリスの委任統治領と分割してしまった。そしてイギリスの支配下で1921年にフセインの次男アブドラをヨルダン国王に、三男ファイサ ル1世をイラク国王に就けただけだった。また一度はイギリスからアラビア半島の支配を認められ、国連加盟国にもなったヘジャズ王国だったが、「成り上がり 者」のサウド家がアラビア半島を席巻し、1921年にネジド王国(後のサウジアラビア)の建 国を宣言すると、イギリスはこちらも承認。イギリスに二股をかけられたヘジャス王国は1924年にネジド王国にメッカを奪われ、1926年には併合されて しまう。

「ハーシム家によるアラブ統一の夢」を諦めきれないヨルダンのアブドラ王は戦後、強敵サウド家が支配するアラビア半島はひとまず除い て、ヨルダンにイラク、シリア、レバノン、パレスチナを合わせた「大シリア」の統一を画策す るが、英国に相手にされず失敗。1948年にイスラエル建国をめぐって第一次中東戦争が起きると、ドサクサ紛れに本来は「パレスチナ国家」の領土になるは ずだったヨルダン川西岸を併合してしまい、アラブ諸国からも顰蹙を買う。また難民流入と西岸併合によってヨ ルダンの人口の7割が国王に不満を抱くパレスチナ人になってしまい、アブドラ王は51年に東エレサレム巡礼中にパレスチナ人によって暗殺さ れてしまう。

 ヨルダンのフセイン国王
エジプトとシリアが「反欧米、アラブ統一」を掲げて合邦しアラブ連合共和国を成立させようとすると、アラブ各地の民衆は興奮 した。キリスト教徒主導の政権が続いていたレバノンではイスラム教徒が蜂起して内戦となり、米軍が介入。リビアやスーダンでもクーデター未遂事件が起き た。ヨルダンでは多数派のパレスチナ人たちが「ヨルダンも国王を倒してアラブ連合に加われば、イスラエルを三方から挟み撃ちできる」と狂喜した。そこで身 の危険を感じたアブドラ王の孫・フセイン王は、イラクのファイサル2世にアラブ連邦成立を持ちかけたのだった。アラブ連邦の国旗は、1917年にアラブ反 乱軍が使った旗。「アラブの統一の歴史は、ウチが本家だぞ」と主張したかったようだ。

アラブ連邦の結成にはイラクも乗り気だった。イラクは55年にアメリカ、イギリス、トルコ、パキスタン、イランと反共軍事同盟のバク ダッド条約機構を結成していたが、汎アラブ民族主義の台頭で、米英と手を結ぶ路線には国民の不満が高まっていた。56年のスエズ動乱で「同盟国」のイギリ スがエジプトに攻め込むと、イラクはバクダッド条約機構の会議を欠席して抗議したが、そのくらいで国民の不満が収まるはずはなく、各地で暴動が発生してい た。そこで王家同士の連携で「反社会主義のアラブ統一」をアピールする必要があった。

ところが半年も経たないうちに、イラクでクーデターが発生しアラブ連邦は崩壊し てしまう。

アレフ大佐
クーデターの契機は、反乱の危機に晒されたヨルダンのフセイン王がヨルダンの軍隊では安心できず、アラブ連邦軍として統一 されたイラクの軍隊に出動を求め、イラク東部に駐屯していた部隊にアンマン防衛に向かうよう命令が出たこと。部隊の司令官・アレフ大佐は、かつて第一次中 東戦争に参加して汎アラブ主義に共鳴し、密かにカセム准将らと「イラク自由将校団」を組織していた。部隊を率いてバクダッドまで来たところで、千戴一遇の チャンスとばかりに「敵は本能寺にあり」とイラク王宮の襲撃を命じ、不意を付かれたファイサ ル2世は自ら自動小銃で応戦したが、その場で惨殺されてしまう(※)。こうしてイラクの王制は倒れ、アラブ連合への合流を表明する
※当時の新聞報道によると、ファイサル2世は途中で降伏しようとしたが、隣で戦い 続けていたイラー皇太子に「降伏だなんてふざけるな!」と殴られ、ショック死したとか
カセム准将
イラク政変に驚いたヨルダンのフセイン王は、アラブ連邦の元首に就任してヨルダン国民に「イラク奪還」を呼びかけるが、国 民から相手にされないどころか「次はフセインの首だ!」と暗殺されかけてしまう。そこで英国に軍隊進駐を要請し、アラブ連邦の解消を発表してようやく身を 守った。一方イラクでは、首相に就任したカセム准将は「イラクの石油をエジプトに捧げるのはアホらしい」とアラブ連合への合流をやめてしまい、汎アラブ主 義を掲げたバース党のテロリストに暗殺されかけ(この時、実行メンバーとしてエジプトへ亡命したのがサダムイ・フセイン)、63年には袂を分かったアレフ に再びクーデターを起こされ処刑されてしまう。

その後、67年の第三次中東戦争でヨルダン川西岸がイスラエルに占領されると、ヨルダン本土(東岸)へはますますパレスチナ人が流入 し、首都アンマンはパレスチナ・ゲリラの本拠地になってしまう。そして70年にはパレスチナ・ゲリラがスイス、イギリス、アメリカ(TWA)の飛行機を同 時にハイジャックして、アンマン空港へ強制着陸させ爆破してしまうという事件を起こす。そこでついにフセイン王はPLO(パレスチナ解放機構)の追放を決 意。激しい内戦(黒い九月事件)の末、PLOをレバノンに追い出し、88年にはヨルダン川西岸の領有権を放棄したが、現在でもヨルダンの人口の6割以上が パレスチナ人。石油の出ないヨルダンは経済的にも不振が続き、いっそのことハーシム家はヨルダンをパレスチナ国家に明け渡して、代わりに新生イラクの国王 にでもなったら・・・なんて構想も取りざたされたほどだ。

 
左:イラク国王のファイサル 2世(1:00あたりに連邦結成のシーンあり)、右:クーデターで襲撃された王宮の写真と映像


アラブ連合については こ ちら を、パレスチナとの関係については パ レスチナ ス コープス山 の項も参照してくださいね。
 

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