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早々と停戦協定が結ばれたエルサレムを見下ろす重要拠点

スコープス山

イスラエル領

 
1917年12月 オスマントルコが支配していたエルサレムを、第一次世界大戦でイギリスが占領
1920年4月 サン・レモ講和会議でエルサレムを含むパレスチナはイギリスの委任統治領に
1947年11月 国連がエルサレムを国際管理下に置くパレスチナ分割決議を採択。しかしユダヤ人とパレスチナ人の内戦激化で実施不可能に
1948年5月 イギリスがパレスチナの委任統治を終了。イスラエルが独立を宣言したが、アラブ各国が侵攻(第一次中東戦争)
1948年7月 エレサレム周辺の停戦協定で、スコープス山の北側はイスラエル側の飛び地となる
1949年3月 国連の仲介で休戦協定締結。西エルサレムはイスラエル、東エルサレムはヨルダンが支配
1967年6月 第三次中東戦争でイスラエルが東エルサレムを占領し、実質的に飛び地解消
1988年7月 ヨルダンが東エルサレムを含むヨルダン川西岸の領有権を放棄

エルサレム市とスコープス山(Mount Scopus)の地図
スコープス山の衛星写真  (google map)

1つの街が対立する国同士によって分割されていた場所といえば、まずベルリン、そしてエルサレム。マイナーな所では中国とイギリス(香港)に分割されていた沙頭角なんて街もあります。あとキプロスと北キプロスに分断されてるニコシアってのもあるけど、北キプロスという国を承認してるのはトルコ政府だけですね。これらのうちベルリンはベルリンの壁崩壊でめでたく統一、沙頭角も97年の香港返還でとりあえずめでたく統一、一方でエルサレムは第三次中東戦争でイスラエルが東エルサレムを占領して統一されたけど、パレスチナ問題は泥沼化するばかりで、さっぱりめでたくないですね。

パレスチナ紛争の歴史を振り返ってみれば、発端を作ったのは例によって「腹黒紳士」のイギリスだ。エルサレムを中心としたパレスチナ地方は、1244年に十字軍が追い出されて以来、ずっとイスラム王朝によって支配され、1516年以降はオスマントルコが統治していたが、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレムは、ユダヤ人とパレスチナ人(イスラム教徒やキリスト教徒のアラブ人)が共存して暮らしていた。

第一次世界大戦でオスマントルコを破ったイギリスはパレスチナを占領するが、その直前に矛盾する「3つの約束」をしていた。1つはフランスと結んだサイクス・ピコ条約で、パレスチナを国際管理地域にすることを密約。もう1つはメッカの太守でアラブの名門・ハーシム家のフセインと交わしたフセイン・マクマホン往復書簡で、パレスチナを含む東アラブに独立アラブ国家を作ることを約束。残る1つはユダヤ人有力者のロスチャイルド卿に宛てた書簡で述べたバルフォア宣言で、パレスチナにユダヤ人のナショナル・ホームを設立することを約束した。これらの「約束」により、イギリスはフランスと協調し、アラブ人の対トルコ反乱に助けられ、ユダヤ人に援助されてパレスチナを占領したのだが、戦争が終われば「約束」はみんな反故にしてしまい、イギリスはパレスチナを委任統治領として手中に収め、一人占めしてしまったのである。

イギリスの統治下で、それぞれ「約束」を手にしたユダヤ人とパレスチナ人の衝突が繰り返されるようになった。そして第二次世界大戦が終わると、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺によってイスラエル建国に対する国際的な同情が集まり、早期建国を目指したユダヤ人過激派がエルサレムのイギリス軍政府を爆破すると、イギリスは1947年2月にパレスチナ委任統治の放棄を発表する。イギリスが撤退した後のパレスチナをどうするかが急きょ問題になり、11月に国連がパレスチナをユダヤ人国家とパレスチナ人国家に分割してエルサレムは国際管理下に置くという分割案を採択するが、この時すでにユダヤ人とパレスチナ人の内戦は収拾がつかなくなっていた。

そして48年5月、イギリスが撤退すると同時にユダヤ人はイスラエルの独立を宣言。これに対してパレスチナ人を支援するエジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクの周辺アラブ諸国が参戦して第一次中東戦争が勃発した(※)。

※パレスチナ人もパレスチナの独立を宣言したのだが、アラブ諸国の思惑に翻弄されて、すぐに瓦解してしまった。詳しくは こちらを参照
1ヶ月ほどの戦闘で、エジプトがガザ地区を、ヨルダンがヨルダン川西岸を占領したのを除いて、イスラエルはパレスチナを確保した。49年3月に国連の仲介で結ばれた休戦協定では、エルサレムは休戦ラインによって東西に分割され、西エルサレムはイスラエルが、東エルサレムはヨルダンが統治することになった。面積では西エルサレムの方が東より4倍くらい広いが、ユダヤ教の「嘆きの壁」など宗教各派の聖地が集まる旧市街は東エルサレムだ。東西エルサレムの境界線はコンクリート製の壁や鉄条網が築かれて無人地帯とされ、国連パレスチナ停戦監視機構(UNTSO)が配置された。
ヨルダンが西岸地区の領有権を主張していた頃の地図
ただし、東エルサレム郊外のスコープス山だけは48年7月に停戦協定が結ばれて、イスラエルの飛び地が出現した。スコープス山は東西1km、南北2・5kmほどの一角だが、ここの周囲は「係争地」つまり実質的に中立地帯とされ、中央部の無人地帯をはさんで北側がイスラエルの、南側がアラブ(ヨルダン)の飛び地と決められた。スコープス山はエルサレムの市街地を一望のもとに見渡せる戦略拠点だったので、早々と双方で分割を決めたようだ。

東西エルサレム間の交通はマンデルバアム門1ヵ所に制限され、国連軍や外交官、聖職者やキリスト教徒の巡礼者のほか、イスラエル人ではスコープス山への補給要員しか通行が許されなかった。イスラエルの飛び地となった場所には、1925年に開校したヘブライ大学のキャンパスと病院、国立図書館があったが、エルサレムの分割とともに大学は西エルサレムへの移転を余儀なくされ、病院は閉鎖。国立図書館は2週間に1度だけ国連軍の護衛付きで蔵書の運搬が認められた。

とりあえずイスラエルとヨルダンは、東西エルサレムの行き来について協議をしたが、進展しなかった。ヨルダン側ではスコープス山や旧市街のユダヤ人地区、嘆きの壁などへのイスラエル人の立ち入りを認める代わりに、西エルサレムにあるパレスチナ人集落をヨルダンの飛び地にすることを要求する案も検討されたが、実現しなかった。

さて67年6月、エジプトの海上封鎖に業を煮やしたイスラエルは、先制攻撃でたちまちガザやシナイ半島を占領してしまう。「6日間戦争」とも言われる第三次中東戦争の勃発だ。これに乗じてエルサレムの統一を思い立ったのがヨルダン。背後からイスラエル軍を衝いて西エルサレムを占領しようとするが、たちまち反撃に遭い、わずか2日後には東エルサレムを含むヨルダン川西岸を逆にイスラエルに占領されてしまう。こうしてエルサレムはイスラエルのもとで統一され、市内を分断していた壁は取り払われて、ユダヤ人もパレスチナ人も東西エルサレムを自由に行き来できることになった。スコープス山の飛び地も周囲がすべてイスラエルに占領されたため、実質的に解消された。

ところが、イスラエルはパレスチナ全域を占領したことで、自ら禍根を招いてしまう。48年にパレスチナの一部を占領してイスラエルを建国した時は、多くのパレスチナ人が難民となってヨルダン川西岸やガザなどパレスチナの残りの部分へ逃げた。ところがイスラエルがパレスチナ全域を占領したことで、イスラエルは自国内にユダヤ人よりも多いパレスチナ人を抱えることになった。イスラエルは「ユダヤ人だけの国」から、「ユダヤ人がパレスチナ人を支配する国」へ変容せざるを得なくなったのだ。イスラエルがヨルダン川西岸を占領した後も、併合を認めないヨルダン政府は西岸に住むパレスチナ人を「ヨルダン国民」とみなし続け、パスポートを発給したり民事訴訟などを担当する宗教裁判所を運営し続けた。パレスチナ人の国民を増やしたくなかったイスラエル政府もこれを黙認していたが、88年にヨルダンが西岸の領有権放棄を宣言してしまったために、大多数のパレスチナ人は法的にもイスラエル国民になりかねなくなった(※)。

※国内に多数のパレスチナ人を抱えて悩んでいたのは、ヨルダンも同じだった。ヨルダン川西岸の併合や難民流入で、ヨルダンの人口はパレスチナ人が7割以上を占め、国王は暗殺されクーデター未遂も繰り返され、一時はパレスチナ・ゲリラに国をのっとられそうになった。 こちらを参照
かくしてイスラエルに戦いを挑む主要な敵は、周辺のアラブ諸国からパレスチナゲリラに移り、さらに国内で抵抗運動を行うパレスチナ人民衆が加わった。イスラエルは国内でパレスチナ人を代表する勢力を認めざるを得なくなり、93年にPLO(パレスチナ解放機構)を承認して、ガザやヨルダン川西岸の一部地域で彼らによる暫定自治政府を発足させたが、「国土を奪われた」というパレスチナ人が中途半端な自治で満足するはずはなく、自爆テロによる抵抗が繰り返されている。スコープス山にはヘブライ大学のキャンパスが再建されたが、ここも2002年7月末に自爆テロの標的になって、日本人留学生を含む多数の死傷者を出した。

遠くない将来、本物のパレスチナ人国家が成立して、エルサレムは再び東西に分割され、スコープス山も再びイスラエルの飛び地に戻るかも知れない。ただ、分割されたとしてもかつてのようにコンクリートの壁によって街が遮断されるわけではなく、相互の行き来の自由を認め、ユダヤ人とパレスチナ人が隣り合いながら共存できる街にならないと困りますね。
 

●関連リンク

外務省—イスラエル
外務省—パレスチナ
さらーむ・しゃろーむ 外務省のパレスチナ情勢に関するHP
2003年イスラエル・トルコツアー スコープス山からの眺望写真があります
flareflai スコープス山のアパートに住んでいる日本人の日記です
エルサレム新市街 スコープス山の写真があります
パックスジャポニカーナ 中東戦争やイスラエル、パレスチナ問題についてわかりやすく解説しています

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