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グルジア民族主義の台頭に、「南北統一」を訴えて独立

南オセチア
 
首都:ツヒンバリ 人口:7万人(2007年)


1990年9月 南オセチア自治州がクルジアからロシアへの帰属変更を一方的に宣言するが、承認されず

1990年12月11日 グルジアが南オセチアの自治を廃止
1991年4月9日 グルジア共和国がソ連から独立
1991年11月28日 南オセチア共和国がグルジアから独 立を宣言し、グルジア軍と戦闘になる
1992年6月 グルジアと南オセチア双方が停戦に合意
2008年8月 グルジア軍とロシア軍が相次いで介入した結果、グルジア政府の支配地域が消滅
2008年8月26日 ロシアが南オセチアを「国家」として承認

コーサカス(カフカス)地方の民族分布図(1995年)
コーカサス連邦(ザカフカス)連邦時代のグルジア  
ソ連時代のグルジアの詳細地図  

アブハジアと相前後してグルジアから独立宣言をしたのが南オセチアだ。

南オセチアはコーサカス(カフカス)山脈の南側にへばりつく地域。ソ連崩壊直前の89年には人口9万9000人のうち、66%がオセッ ト人で、グルジア人は約30%だった。オセット人の国としては、カフカス山脈の北側にも北オセチア共和国があるが、こちらはロシア連邦の一部になってい る。

オセット人はイラン系の民族で正教徒。歴史的にロシアとは仲が良く、北オセチアの首都・ ウラジカフカスは「コーサカス地方を征服せよ!」という意味。いくらなんでも帝政ロシアの侵略主義丸出しの地名だということで、ソ連時代は 「オルジョニキジェ」に改名していたが、ソ連が崩壊したら元の名前に戻してしまった。名は体を表わすということで、コーサカス地方へのロシアの勢力拡大に おいて、オセット人はその尖兵の役割を果たしていた。

1944年にはスターリンが、チェチェン人やイングーシ人が「ナチス・ドイツに協力した」と言い出して、中央アジアやシベリアへ強制追 放し、北オセチア共和国はチェチェン・イングーシ共和国を併合している(ウラジカフカスもこの時に併合された町)。スターリンの死後、チェチェン人やイン グーシ人の追放は冤罪だったということで、チェチェン人やイングーシ人は故郷に戻ってきたが、北オセチア共和国が併合した領土は一部そのまま残った。ソ連 崩壊後、イングーシ共和国は領土返還を求めて北オセチアと争い、2004年にはチェチェンの独立ゲリラが北オセチアの小学校を占拠して350人以上の市民 が犠牲になる事件が起きるなど、オセット人と周辺民族との対立は顕在化している。

さて、グルジア領内の南オセチアでも、スターリンが政敵だった「グルジア反対派」を抑え付けるために、南オセチア自治州が設置されてい たが、1980年代末にペレストロイカでソ連の連邦体制が弱体化すると、グルジアでは民族主義が台頭し、それに危機感を抱いた南オセチアでは、北オセチア との統合を求める運動が始まった。90年に南オセチア自治州政府はグルジアからロシアへの帰属変更を宣言するが、ソ連政府の承認を得られず、グルジア政府 からは自治州を廃止されてしまう。

そして91年4月、ソ連から独立したグルジアは、公用語をグルジア語だけに限定しようとしたため、南オセチアは猛反発して独立を宣言 し、グルジア軍との間で戦闘になった。翌92年にはグルジアと南オセチアの間で停戦が実現し、南オセチアには欧州安保協力機構(OS CE)の平和維持軍(実際にはロシア軍と南オセチア軍で構成)駐留した。

ソ連時代に約10万人いた南オセチアの人口は、難民の流出で7万人に減少したが、南オセチアの東部や南部のグルジア人が多い町や村はグ ルジア政府が支配し続けたため、独立以降も人口のうち25%はグルジア人が占めていた。特に「首都」ツヒンバリ周辺は南オセチア政府が支配する村とグルジ ア政府が支配する村が入り乱れていたため、ロシアとグルジア、アルメニアとの密輸拠点と して栄え、これが南オセチア政府の大きな収入源になっていた。

2004年の南オセチアの地図  白丸は南オセチア政府が支配する村、黒丸はグルジア政府が支配する村
南オセチアのグルジア政府支配地域(2008年紛争前)

グルジアにはアブハジアと南オセチアのほかに、南部の主要港・ バ トゥミ を中心にしたアジャリアにも自治共和国があり、ここも92年以降はグルジア政府の支配を完全に離れ、ロシアを後ろ楯に独自の軍隊を擁して独 立状態が続いていた(ただし、アジャリアは「独立宣言」はしていない)。しかしグルジアは2004年5月に、アジャリアでソ連時代から権力を握っていたア バシゼの追放して、グルジア政府による支配回復に成功した。勢いに乗ったグルジア政府は、南オセチアとアブハジアでの支配回復を公言し、密輸取り締まりの ために警官隊を派遣。密輸で潤っていた南オセチアは困窮し、再び緊張が高まった。

 2006年11月に南オセチアは大統領選挙と2回目の住民投票(1回目は92年)を行い、「99%の住民が独立に賛成し た」と発表した。しかし同時に、グルジア政府が支配する地域では別の大統領選挙が行われ、ドミトリー・サナコエフ(※)が「グルジア内の自治共和国として 経済を発展させる」を公約に掲げて当選し、クルタ村(ツヒンバリの北9km)に独自の政府を樹立。07年5月にサナコエフはグルジア政府から「南オセチア 自治州暫定政府」の代表に任命され、南オセチアには独立派と反独立派の2つの政府が存在することになった。

※ドミトリー・サナコエフはオセット人の元ソ連軍将校で、 91年の紛争では独立派として戦い、96年から南オセチア政府の国防相、98年から副首相、2001年6月から12月まで首相を務めていた。したがって南 オセチア政府はサナコエフを「民族反逆者」「裏切り者」と非難しているが、サナコエフは「オセット人とグルジア人の共存と非武装化、西 欧型自治の確立と自由民主主義の構築が重要だ」と訴えている。

そして08年8月、北京五輪のドサクサに紛れてグルジア軍は南オセチアに攻め入り、一時はツヒンバリなどを占領したが、ロシア軍が介入 してグルジア軍を追い出し、国境沿いのグルジア領内の町や村も占領した。フランスの仲介で戦闘は5日間で停戦し、ロシア軍は10月にグルジア領内から撤退 したが、南オセチア内でグルジア政府が支配していた地域はロシア軍と南オセチア政府の支配下に移り、戦闘前に1万7500人いたグルジア人のうち1万 5000人は難民となってグルジアへ逃れたと言われている(※)。

※サナコエフが率いる暫定政府も、グルジアへ移って南オセチア自治州の亡命政府となった。

南オセチア住民の大部分に、ロシアはロシア国籍を与えていて、ロシア軍の介入は「ロシア国民の保護」という大義名分も掲げている。経済 的に破壊された南オセチアの住民はロシアへ働きに行っている者も多く、「ロシアに併合してもらい、南北オセチアを統一すべき」という声も挙がっている。南 オセチアのココイトイ大統領自身、08年9月に国際会議の場で「我々は独立したオセチアを作るつもりはない。ロシアへ編入してもらう」と発言して、慌てて取り消す事件も起きた。

国際世論から南オセチア併合の目論見を批判されることを恐れたロシアは、08年8月26日に南オセチアをアブハジアとともに「独立国」 として承認した。「思惑」があるロシア以外に南オセチアを認める国は無いだろうと思われたが、中南米で「反米」を掲げるニカラグアやベネズエラも承認して いる。

 南オセチア自治州暫定政府(亡命政府)の旗

 

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