このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
委任統治領と信託統治領
第一次世界大戦後の国連(国際連盟)には委任統治、第二次世界大戦後の国連(国際連合)には信託統治という制度がありました。国際連盟の委任統治領
地域名 現在の国名 旧統治国 受任国 方式 変遷 メソポタミア イラク トルコ イギリス A式 1921年委任統治下で イラク が建国。32年イラクが独立し、委任統治終了 パレスチナ ヨルダン、イスラエル、パレスチナ トルコ イギリス A式 1923年委任統治下で トランス・ヨルダン が建国され分離。46年ヨルダン独立
1948年委任統治終了で イスラエル が建国、 ガザはエジプトが占領、ヨルダン川西岸はヨルダンが併合
1967年第三次中東戦争で、イスラエルがガザとヨルダン川西岸を占領
1996年 ガザとヨルダン川西岸でパレスチナ暫定自治政府が発足シリア シリア、レバノン トルコ フランス A式 1940年イギリスが占領。1943年レバノンが分離独立。46年 シリア が独立し、委任統治終了 西カメルーン カメルーン、ナイジェリアの一部 ドイツ イギリス B式 1946年イギリスの信託統治領へ移行 東カメルーン カメルーン ドイツ フランス B式 1946年フランスの信託統治領へ移行 西トーゴランド ガーナの一部 ドイツ イギリス B式 1946年イギリスの信託統治領へ移行 東トーゴランド トーゴ ドイツ フランス B式 1946年フランスの信託統治領へ移行 タンガニーカ タンザニアの大部分 ドイツ イギリス B式 1947年イギリスの信託統治領へ移行 ルアンダ-ウルンディ ルワンダ、ブルンジ ドイツ ベルギー B式 1946年ベルギーの信託統治領へ移行 南西アフリカ ナミビアの大部分 ドイツ 南アフリカ C式 1945年南アフリカが信託統治への移行を拒否し、 不法統治 を始める。66年国連が委任統治終了を決議
1968年国連がナミビアと改称。78年国連が ナミビア独立移行支援グループ(UNTAG) を設置
1990年南アの統治が終了しナミビア独立。94年南アが ウォルビスベイ を割譲北東ニューギニア パプアニューギニアの一部 ドイツ オーストラリア C式 1942年日本軍が占領。46年オーストラリアの信託統治領へ移行 西サモア サモア ドイツ ニュージーランド C式 1945年ニュージーランドの信託統治領へ移行 ナウル ナウル ドイツ 英、豪、NZ C式 1942年日本軍が占領。47年英、豪、ニュージーランドの信託統治領へ移行 南洋諸島 マーシャル諸島 、ミクロネシア連邦
パラオ、米自治領北マリアナ諸島ドイツ 日本 C式 1943〜44年アメリカ軍が占領。47年アメリカの太平洋諸島信託統治領へ移行 かつては戦争が終われば敗戦国の領土は戦勝国で山分け!というのがジョーシキだったわけですが、「そんな野蛮なことはもう止めましょう」という主旨でスタートしたのが委任統治制度。第一次世界大戦が終わった際、「民族自決」の原則に基づいて、旧オーストリア帝国の領土ではハンガリー、 チェコスロバキア 、 ユーゴスラビア などが相次いで独立したが、ドイツの海外植民地やオスマントルコの領土は即時独立という条件が整っていないので、新たに発足した国際連盟の下で、「文明の神聖なる使命」に基づく「福祉及び発達」を目的に、独立に至れるようになるまで「先進国」が分担して統治を代行することになったのである・・・とかなんとか理屈を付けて始まったわけだが、結局のところはイギリスや日本が大戦中にすでに占領していた旧ドイツ植民地を、国際的合意によって自分のものにしたことには変わりがない。シリアに至っては、大戦中にアラブ人がトルコ軍を追い払ってせっかくアラブ臨時政府を樹立したのに、それを解散させてフランスが占領し「独立の援助をするため」の委任統治を始めたわけだから、本末転倒だ。国際連盟の創設と委任統治制度の導入を提唱したのはアメリカのウィルソン大統領だったが、アメリカは参戦が遅れたためにドイツの植民地を占領し損ねてしまい、イギリスや日本がさっさと占領した海外領土(特に日本が占領した南洋諸島)を、国連による監視下に置いて軍事基地化に制限を加える意図もあったようだ。
さて、委任統治領はその「文明化」の度合いや経済力、人口などの条件によってA式、B式、C式の3タイプに分けられた。
A式(旧トルコ領の中東地域) 「文明化」が進んでおり住民のレベルも高く、自立が可能このうちA式では、受任国は独立まで援助や助言を与えるものとされ、住民には受任国とは別の国籍を与えられた。一方でB式やC式では、受任国は委任統治領を自国の構成領域の一部(というより実質的には植民地)として扱うことが認められ、住民にはいずれの国籍も与えられず(つまり無国籍者)、受任国には奴隷売買の禁止や先住民への酒や武器の販売禁止、軍事基地の建設禁止や先住民への軍事教育の禁止、信仰の自由の保障などが義務付けられた。わかりやすい言葉で言えば「文明人にはほど遠い原住民たちに酒や武器を与えず、キリスト教の福音で教化すべし」と国連で決めたということ。また受任国には毎年国連へ行政年報を提出して審査を受けることが規定された。
B式(旧ドイツ領の中央アフリカ) 「文明化」が進んでおらず住民のレベルも低く、当面独立は不可能
C式(旧ドイツ領の南西アフリカや太平洋地域) 「文明社会」から遠く離れ、住民のレベルは低く、地理的環境が悪くて人口も少なく、独立はまず不可能委任統治はあくまで植民地・属領に対して適用されたもので、国連預かりになった敗戦国の旧領土のうち、「文明社会の中心」たるヨーロッパにあるものは委任統治領にはならなかった。
ダンチヒ (旧ドイツ領、現在のポーランド領グタニスク)は国連管理下の自由市となり、 フィウメ (旧オーストリア領、現在のクロアチア領リエカ)もイタリアとユーゴスラビアとの間で紆余曲折を経て自由市に。 ザール地方 (旧ドイツ領、現在もドイツ)は15年間にわたって直接国連の施政下に置かれ、スタンブールを中心とした ボスボラス海峡 も1936年まで国連の海峡委員会の管理下に置かれた。 メーメル (旧ドイツ領、現リトアニア領クライペダ)は連合国を代表してフランス軍が管理し、住民はダンチヒ同様に自由市とすることを求めていたが、23年にリトアニアが武力併合し、翌年国連もこれを追認した(※)。イ
※リトアニアのメーメル併合にあたっては、リトアニア政府から派遣された総督の下で独自の議会と執政府を持つ自治区とすることが条件とされた。しかし当時メーメルの住民は80%がドイツ系で、38年の選挙ではナチスが大勝し、住民たちは翌年ドイツへの編入を要求。リトアニアはドイツにメーメル返還を申し出た。船で視察に訪れたヒトラーは熱狂的に歓迎されたが、この時ヒトラーはひどく船酔いをして大いに怒り、東プロイセンの飛び地解消のためにダンチヒ併合とポーランド侵攻を決意した・・・という説がありますが、どうでしょう?その後メーメルは45年にソ連が併合し、ドイツ系住民は全て追放。91年にリトアニアの一部として独立している。このほか、条約で委任統治領にすると決められながら実現しなかったのが アルメニア (※)。1920年8月のセーブル条約でトルコ東北部のアルメニア人地区は独立することが認められ、当面はアメリカが委任統治を行うことになった。しかし委任統治案はアメリカ上院に否決されてしまった(その前の3月には国連への加盟自体も否決されていた)。※トルコ領内では1915年から「ロシアに通じている」とアルメニア人虐殺が続いており、アルメニア人はエルゼルムで独立を宣言して半年にわたってトルコ軍と戦うが全滅し、犠牲者は100万人以上とも言われる。現在のアルメニア共和国はロシア、ソ連から独立した地域で、アララト山をはじめアルメニア人の心の故郷であるトルコ領のアルメニア高原には、現在アルメニア人は存在しない。こうしてスタートした国連の委任統治だが、A式で順調に独立を果たせたのはイラクだけ。シリアではフランスはキリスト教徒が多いレバノンを分離して独立を認めようとしていたが、第二次世界大戦でフランス本国がドイツに占領されるとイギリス軍が占領。パレスチナではイギリスはとりあえずヨルダンを分離して独立させたが、エルサレムを中心とした残るパレスチナでは、イギリスはユダヤ人とアラブ人(パレスチナ人)の双方に二枚舌を使って独立を約束したため収拾がつかなくなり、48年に委任統治を放棄して「あとは野となれ山となれ」という状態。「当面独立は無理」と判断されたB式とC式は、南アフリカが自国領に編入しようとした南西アフリカ(現ナミビア)を除いて第二次世界大戦後は信託統治領へ移行したが、リン鉱石の採掘で潤った特殊例のナウルを除き、驚異的な発展と「文明化」を実現したのが南洋諸島。日本は製糖産業や漁業の育成に力を入れ、南洋諸島では財政的自立が可能となるまでに至った。しかし実際には日本人を大量に移民させたためで、1935年には南洋諸島の人口10万人のうち内地人(日本人)が約半数を占め、サイパン島に至っては40年の段階で先住民3765人に対して日本人は25309人に上った。結局のところ日本の植民地として開発・発展に成功したわけで、住民(先住民)による自立を促し、独立を可能とさせたわけではなかった。
ちなみに日本は1933年に国際連盟を脱退したが、国連の委任統治はそのまま継続した。なぜそんなことが可能だったかというと、日本の委任統治は国連創設に先立つベルサイユ条約で決まったものだと主張したから。日本が国連を脱退してもベルサイユ条約の批准国であることには変わりがないわけで、国連側もそれで了承。国連不加盟を決定していたアメリカにアルメニアを委任統治させようとした前例もありましたからね。ただ、日本は軍事基地建設を禁止した国連の委任統治規定は、国連を脱退したから適用外だと主張し、36年にワシントン軍縮条約が失効すると、各地に海軍基地や航空基地を建設することになりました。
国際連合の信託統治領
地域名 現在の国名 旧統治国 施政権者 変遷 西カメルーン カメルーン、ナイジェリアの一部 委任統治領(英) イギリス 1961年住民投票で北部はナイジェリアに、南部は カメルーンに併合 され信託統治終了 東カメルーン カメルーン 委任統治領(仏) フランス 1960年カメルーンが独立し信託統治終了。61年西カメルーンの南部と合併 西トーゴランド ガーナの一部 委任統治領(英) イギリス 1957年英領黄金海岸とともにガーナとして独立し、信託統治終了 東トーゴランド トーゴ 委任統治領(仏) フランス 1960年 トーゴ が独立し、信託統治終了 タンガニーカ タンザニアの大部分 委任統治領(英) イギリス 1961年タンガニーカが独立し、信託統治終了
1964年 ザンジバルと合併 、半年後にタンザニアと改称ルアンダ-ウルンディ ルワンダ、ブルンジ 委任統治領(ベルギー) ベルギー 1962年北部はルワンダ、南部はブルンジとして分離独立し、信託統治終了 北東ニューギニア パプアニューギニアの一部 委任統治領(豪) オーストラリア 1949年豪領パプアと行政統合。75年 パプアニューギニア として独立し、信託統治終了 西サモア サモア 委任統治領(NZ) ニュージーランド 1962年西サモアが独立し、信託統治終了。97年サモアに改称 ナウル ナウル 委任統治領(英豪NZ) 英、豪、NZ 1968年ナウルが独立し、信託統治終了 太平洋諸島 マーシャル諸島
ミクロネシア連邦
パラオ
米自治領北マリアナ諸島委任統治領(日) アメリカ 1978年北マリアナ諸島が米自治領として分離
1976年ミクロネシア連邦とマーシャル諸島で自治政府発足
1981年パラオで自治政府が発足
1986年ミクロネシア連邦とマーシャル諸島がそれぞれが独立
1994年パラオが独立し、信託統治終了ソマリランド ソマリアの一部 イタリア イタリア 1960年 英領ソマリランドと合併 してソマリアとして独立し、信託統治終了 第二次世界大戦の後、国際連盟に代わって国際連合が創設されると、それまでの委任統治制度も信託統治制度に代わり、B式とC式の委任統治領は45年から47年にかけて信託統治領に切り替えられた。委任統治と信託統治の内容は基本的には同じだが、信託統治されている住民が国連総会や信託統治委員会へ直接請願を出し、口頭で意見を発表する制度ができたり、統治状況をチェックするために従来の年報提出に加えて3年ごとに国連視察団が現地を視察する制度が加わった。またA式B式C式の区分はなくなったが、新たに「戦略地区」という区分ができた。信託統治領では引き続き軍事利用は禁止されたが、戦略地区に指定されると「国際平和のため」なら可能となり、年報は国連総会ではなく安全保障理事会へ提出し、安全保障上の理由で国連視察団の受け入れを拒否することができた。信託統治領のうち、戦略地区に指定されたのは日本に代わってアメリカが統治する太平洋諸島(旧南洋諸島)だけだった。つまり、かつてアメリカは日本が占領した南洋諸島の軍事利用を規制するために委任統治制度を作ったが、いざ自分が占領すると「軍事利用させろ」と新しい制度を作らせたわけで、いやはや身勝手なものですね。
信託統治領は委任統治領からの継続のほか、第二次世界大戦の敗戦国の海外領土や、統治国が自発的に放棄した領土を加えることができたが、実際に新たに加わったのは旧イタリア領のソマリランドだけだった。
イタリアは日本やドイツとともに枢軸国だから敗戦国・・・だと思いきや、ムッソリーニ政権の崩壊後に駐留ドイツ軍と戦ったパルチザン部隊の活躍で連合国側から「「共同交戦国」のお墨付きをもらい、戦勝国ということになっている。イタリアが戦前擁していた植民地のうち、エチオピアは独立、 リビア はイギリス軍による占領を経て独立、エリトリアはイギリス保護領を経てエチオピアが併合(93年に独立)したが、 ソマリランド についてはイタリア側は「ムッソリーニ政権より以前から保有していた植民地だから」と統治の継続を強く要求、結局1950年に国連の信託統治領となったもののイタリアがそのまま統治を受任することになった。
また、信託統治が検討されながら実現しなかったのが朝鮮と沖縄だ。
敗戦で日本が放棄した海外領土のうち、 関東州(租借地) と台湾は中国(中華民国)へ返還、南樺太と千島列島はソ連が領有(ただしソ連→ロシアとは平和友好条約がまだ締結されていないので、最終的な国境線は北方四島を含めてまだ未確定)、南洋諸島の委任統治領はアメリカの信託統治領となった。
朝鮮はもともと独立国だったし独立することになった。しかしルーズベルト米大統領は43年のテヘラン会談で「40年間信託統治にするべき」と提案、ヤルタ会談でも「20〜30年間は信託統治に」と主張。日本の敗戦で朝鮮半島はとりあえず北緯38度線を境に北はソ連軍が、南は米軍が占領したが、米英とソ連は中国を加えた4カ国で朝鮮を最大5年間は信託統治してから独立させることで合意した。
しかし、この構想に朝鮮、特に南部の民衆は「即時独立」を求めて猛反発し、信託統治賛成の左派と反対の右派との対立がエスカレート。北では信託統治に反対する民族派が追い出されて金日成主導の共産党政権が固まり、南では信託統治賛成派の政治家が暗殺されるなどの混乱が続く中、「南だけでも早く独立を」と48年に南だけの総選挙を実施して大韓民国が成立。朝鮮半島の分断が決定的になった。
信託統治を回避した沖縄
一方、沖縄について戦時中アメリカは 「琉球人は日本人とは別の民族で、虐げられている民族」 だと考え、沖縄も国連の信託統治を経て独立させるつもりだった。終戦後の沖縄でも「鉄の暴風」と言われた焦土戦への反発から、沖縄独立論や信託統治によるアメリカとの一体化論が台頭。信託統治実現を掲げる社会党(日本社会党とはまったく別)も結成された。
しかし東西冷戦が始まり、中国での共産党政権成立や朝鮮戦争の勃発によって、アメリカは沖縄を不可欠な軍事拠点と考えるようになり、国連の信託統治領化には消極的になった。信託統治領になれば「戦略地区」に指定されても基地建設のために大規模な土地収用ができなくなり、住民のために経済的社会的発展が義務付けられ、さらにソ連もいる安保理に毎年報告を義務付けられたうえ、沖縄の住民に国連総会へ直接乗り込んでアメリカ統治を批判する権利を与えてしまうことになる。また沖縄住民の間でも51年のサンフランシスコ条約締結を控えて日本への復帰運動が盛んとなり、信託統治を求める声はほとんど消えた(※)。
※1950年の群島議会選挙では、本土復帰を掲げた沖縄社会大衆党が15議席+沖縄人民党(後に日本共産党に吸収合併)が1議席に対して、独立派の共和党が3議席、信託統治派の社会党は全員が落選した。社会党は続く52年の立法院選挙でも当選者を出せずに解党した。結局サンフランシスコ講和条約では、日本政府は沖縄(奄美諸島を含む)小笠原諸島を「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意」し、このような提案が行われて国連で可決されるまで、アメリカが沖縄と小笠原で行政権と立法権、司法権を行使することを認めた。しかしアメリカはもはや国連に信託統治領化を提案するつもりなどなく、そのまま沖縄で施政権を行使し続けた。一方、日本にとっても、もし沖縄や小笠原が信託統治領になれば、「主権の完全な喪失」を意味してしまうが(=沖縄の住民は無国籍者)、信託統治領にならなければ、日本は本来自分が持っている行政権と立法権、司法権をアメリカに委ねた形になり、日本は沖縄や小笠原に対して潜在主権(または残存主権)を持っていることになる(=沖縄の住民は日本政府の管轄が及ばない場所に住んでいるけど日本国民)。
この潜在主権を盾にとって、53年に 奄美群島 (トカラ列島は52年)、68年に小笠原が、72年に沖縄が日本へ返還されることになったのでした。
信託統治領は、アメリカが自治領として編入した北マリアナ諸島(サイパン島など)を除いて、すべて独立を果たしました。94年にパラオが独立したことで、信託統治領は国連の制度としては残っているものの、事実上消滅しています。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |