このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

「クリスマス・プレゼント」と称して日本へ復帰

奄美群島 

旧アメリカ領

1946年2月2日 北緯30度以南の奄美諸島が日本の行政権から切り離され、米軍の統治下に入る
1952年2月4日 サンフランシスコ平和条約に基づいて、北緯29度以北(トカラ列島の十島村)が日本へ復帰
1953年12月25日 奄美諸島が日本へ復帰
1953年の地図。奄美大島の北に消し損ねた国境線が・・・
2002年は沖縄返還30周年でマスコミなども特集を組んでいたが、2003年は奄美返還50周年。でも全国的にはあんまり話題にならないでしょうね。

沖縄はアメリカ軍の占領とともに日本から切り離されて米軍の統治下に置かれたが、翌46年2月2日には北緯30度以南の奄美諸島の行政権も日本政府から米軍へ移された。発表はわずか4日前。奄美諸島では戦時中に空襲は受けたが米軍が上陸したことはなかった。終戦から半年経って突如日本から切り離されるなんて、奄美の住民たちにとってはまさに晴天の霹靂だ。

ただしアヤシイ兆候は敗戦直後からあった。奄美大島にいた日本軍の武装解除にやって来た米軍が携えてきた降伏文書にはNorthern Ryukyu(北部琉球)と書かれていたため、日本軍司令官は「ここは琉球ではなく、九州・鹿児島県に属する奄美群島である」と署名を拒否。すったもんだの押し問答の末、米軍側はマニラの司令部と相談してAmami Gunto Kagoshima Ken(鹿児島県奄美群島)と文面を訂正し、ようやく日本軍が降伏手続きが行われるという一幕があったのだ。

奄美諸島は鹿児島県だが、もともと沖縄の文化圏で言葉は琉球方言だし、かつて琉球王朝の統治下に置かれた歴史もある。17世紀初めに薩摩藩が琉球を征服した時に薩摩の直轄領に移された。アメリカは沖縄上陸の前から「琉球人は日本人によって虐げられていた少数民族である」と分析し、米軍の占領が終わっても沖縄は日本へ返さず、韓国のように独立させることも検討していた。そこで奄美諸島も「もともとは琉球の領土」とみなし、日本から切り離して沖縄の一部に加えるのが当然と考えたようだ。

アメリカは軍政府の下に琉球人による民政府を作り、限定的な自治を行わせることにした。しかし沖縄本島は激しい地上戦で破壊され交通・通信は壊滅状態だったので、沖縄、宮古、八重山、奄美の4つの「群島」に分け、それぞれに自治政府を作った。

こうして奄美では46年3月に本土出身の「日本人」が公職から追放されて鹿児島へ強制送還され、10月に「奄美人」による臨時北部南西諸島政庁が発足、50年11月には奄美群島政府に昇格し、ちょっとしたミニ国家のようになった。米軍の指令によって、本土企業の支店や営業所は接収されて公営企業となり、大島中央銀行も誕生した。群島政府知事や群島議会の選挙に先駆けて、協和党や社会民主党などの独自政党が生まれ、地下組織として結成された奄美共産党は当初「奄美人民共和国の独立」を掲げた。

しかし、4つの群島知事選の結果はいずれも「日本復帰の実現」を公約にした候補が勝利したため、不愉快になったアメリカは51年4月、新たに琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止することを決定。翌52年4月に琉球政府を発足させた。琉球政府のトップである主席は公選ではなく米軍からの任命で選ばれ、親米派の元英語教師を主席に据えた。こうして奄美の行政は沖縄と一体化することになった。

1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約では、琉球列島(日本式に言うと南西諸島)は正式に日本から切り離されてアメリカの施政権下に置かれた。平和条約の調印を前にして本土復帰運動が急速に盛り上がったが、なかでも激烈だったのが奄美。復帰要求の署名運動では、14歳以上の住民のうち99・8%もの署名が集まり(沖縄本島では72%)、数千人規模で村ぐるみの断食祈願(つまりハンガーストライキ)が繰り返された。

なぜかというと、日本と切り離された打撃は沖縄より奄美の方が大きかったから。アメリカ統治が始まってから本土との往来は禁止され、後に緩和されはしたものの本土へ行くにはパスポートが必要になったし、渡航許可は那覇を経由して申請したので手続きに数週間かかる。本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられたため売れなくなり、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップしたうえ、アメリカからの援助は沖縄本島の復興が優先されたので奄美にはほとんどまわってこなかった。このため奄美住民の生活は困窮し、沖縄のように基地産業で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていった。

ところでその頃、すでにアメリカによる沖縄統治の目的は変わっていた。サンフランシスコ平和条約ではアメリカによる施政権を認める一方で、日本の潜在主権も認められ、将来的に琉球列島(南西諸島)が返還される道を残したものになった。アメリカが施政権を保持するのは、当初のような「少数民族である琉球人の独立のため」ではなく、朝鮮戦争以降の東西冷戦の中で東アジアにおける軍事拠点を確保するためになった。そうなると、基地がない奄美諸島を占領し続けてもアメリカにとってメリットはない。むしろ復帰運動が激しいことでマイナスになった。

かくして53年になると、アメリカは奄美諸島を日本へ返還する方針を明確にした。一時は沖縄に近い与論島と沖永良部島を除外する案も出たが、小中学生が血書の嘆願状を出したり、「奄美と一緒に返還されないのなら島民全員で移住する」と決議するなど激しい反対運動が起きたため、結局すべての奄美諸島を返還することに決定した。返還日は12月25日だったので、アメリカはこれを「クリスマス・プレゼント」だと自画自賛した。

奄美の人たちは本土復帰が決まって万事メデタシかと言えば、新たな問題も生まれた。沖縄で働いていた3万人の奄美人は、奄美復帰とともに琉球人から日本人、つまり法的には「外国人」になってしまった。沖縄で仕事を続けるためには居住許可が必要となり、政治的権利は剥奪され、公務員にもなれなくなり、また土地所有権の取得が認められないなど、沖縄に住む奄美人は様々な差別を受けることになったのだ。こうした「民族分断」がもたらす矛盾が解消されたのは、72年に沖縄が日本へ復帰して、本土人も沖縄人も奄美人もみんな同じ「日本国民」になってからのこと。

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