このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
「ガンジー精神」でフランスとポルトガルの植民地を実力占拠
自由ヤナム
自由マヘ
自由ダドラ、自由ネロリ
自由ダドラ・ナガルハベリ
自由ヤナムや自由マヘ、自由ダドラ・ナガルハベリで掲げられ たのは、インドの国旗
自由ヤナム 自由マヘ 自由ダドラ 自由ネロリ 自由ダドラ・ナガルハベリ 植民地時代のインドの地図 黄色でマークしてある都市がポルトガル領、灰色はフランス領。「ヤオナン」はヤナム。
1954年7月25 日付『毎日新聞』。まず手始めにガンジーの肖像を・・・イン ドに併合されて消えた国といえば シッ キム が有名だが、他にもマイナーなところで ハ イデラバード 、もっとマイナーなところでは、ヤナムやマヘ、ダドラ・ナガルハベリというのもありました。シッキムはヒマラヤの独立王国だったものがイギリス、次いでインドの保護国となって併合され、ハイデラバードはインドが イギリスから独立した際に、単独で独立しようと試みて併合されましたが、ヤナムやマヘ、ダドラ・ナガルハベリはといえば、インドに併合してもらいたくて作 られ、念願かなって併合してもらったという国。一体どういう経緯だったのでしょう?インドでは大航海時代以来、イギリスやフランス、ポルトガル、オランダ、デンマークなどが沿岸に拠点を築いて互いに抗争を続けていた が、最終的にイギリスが勝利してインド全体を植民地にしてしまい、オランダとデンマークは撤退。ポルトガルとフランスは小さな飛び地のような植民地をいく つか保持するだけになった。
1947年にイギリスからインドが独立すると、インドはポルトガル領やフランス領の飛び地も引き渡すように交渉を始めたが、ポルトガル は拒否。フランスは52年にシャンデルナゴルを引き渡しただけだった。あくまですべての植民地の引き渡しを要求するインドとフランスとの間で話し合いが行 われたが、54年春に決裂した。
そこでインド人の間では「ガンジー精神で取り戻すしかない!」とサチャグラハ行進が始まった。サチャグラハ運動と はかつてガンジー翁が唱えた非暴力・不服従運動のことで、イギリスの植民地支配に抵抗し、独立を勝ち取ったのだが、それにあやかってフランスとポルトガル の植民地も取り返そうというわけだった。
具体的にはどうするのかといえば、インド人が集団で押しかけて植民地を占拠してしまう作 戦だ。かつてガンジーは塩の専売でインド人から搾取していたイギリスに抗議するため、みんなで何百キロも歩いて海岸へ押しかけ、警官隊に殴 られても非暴力不服従で塩を作ってしまうという「塩の大行進」を指揮していたが、ガンジー亡き後はもっとストレートに「植民地解放の大行進」が始まった。 こうしてインド人が押しかけて植民地の占拠に成功し、相次いで成立したのが、自由ヤナム、自由マヘと自由ダドラ・ナガルハベリだった。
自由ヤナム 〜 隣村へ逃げた亡命市役所VS仏の傀儡市役所〜首都:ヤナム 人口5800人(1954年)
1954年6月13日 フランス領ヤナムを占拠したイ ンド人らが、「自由ヤナム」の樹立を宣言
1954年11月1日 フランスがヤナムの行政権をインドへ 返還。「自由ヤナム」は名実共に消滅
1962年8月16日 インドが正式にヤナムを併合フランス時代のヤナムの地図
現在のヤナム詳細図
1955年のヤナム一帯の地図 インド返還後ですが、Yanamがどこにあ るか見つけられましたか?
ヤナムの衛星写真 (WikiMapia)ピンクの枠内が「自 由ヤナム」の領域イン ドが独立した当時、フランスは「仏領インド」と呼ばれた ポン ディシェリ と カ リカル 、 ヤ ナム 、 マヘ 、 シャ ンデルナゴル の5つの植民地を持っていた。フランスは48年にインド政府と協定を結び、各植民地でインドとの併合の是非を問う住民投票を実施することを約束。手始めに各植民地に 自治権を与えて市議会選挙を実施した。こうしてインドへの併合を主張する仏領インド国民会議派やフランス残留を主張する仏領インド社会党などの政党が結成 されたが、選挙結果はシャンデルナゴルを除いていずれも社会党が大部分の議席を占め、併合派は惨敗した。
シャンデルナゴルは49年に住民投票を行い、住民の97%が賛成して52年にインドに併合されたが(※)、他の4植民地の住民が併合を 支持しなかったのは、インドとパキスタンが分裂したことで、ヒンズー教徒とイスラム教徒との激しい抗争が勃発し、インド各地で100万人以上の死者と数千 万人の難民を生む事態になったから。「ひどい混乱に巻き込まれるくらいなら、とりあえずフランスのままでいい」と多くの人が考えたためだった。またフラン スはインド人にもフランス国籍を与えたため、有力者たちは「インドに併合されればフランス国籍が失われる」と懸念していた。
※シャンデルナゴルの住民が併合を支持したのは、シャンデルナゴルは他の植民地と 地理的に離れていて、住民もベンガル人でポンディシェリのタミール人とは異なっていたため。また経済的にも先進地域で、税収をポンディシェリに吸い上げら れることに対する反発もあった。選挙で敗れた併合派は、インド政府の後押しで「仏領インド併合評議会」という行動隊を組織して、「ガンジー精神」で植民地を解放する準備を進めながら、 「住民投票でも敗れて、フランス残留が確定したら大変だ」と、投票実施を阻止する運動を始めた。フランスとインドとの協定では「外部または内部からの圧力 がない状況で住民投票を実施すること」が決められていたので、併合派が残留派に襲われるなどの騒動が起きたために、住民投票は行えなかった。しかしインド独立から数年が経って混乱が収まると、各植民地ではしだいにインド併合を求める声が強くなり、残留派の中心勢力だった社会 党も併合へ路線を転換して、1954年3月にはポンディシェリーとカリカルの市議会がインドへの併合を決議した。しかしフランスはもともと経済的利益がな いインドの植民地は住民が望めば放棄してもよいと考えていたが(だからシャンデルナゴルはインドへ渡した)、この頃はベトナムやアルジェリアで独立戦争が 熾烈となり、アフリカでも独立要求が高まっていた。もしポンディシェリなどをインドへ渡せば、世界各地の植民地に波及しかねないため、フランスは決議を無 視して居直った。そこで怒った社会党は植民地を占拠してしまうことを決めた。
最初に占拠されたのが、ポンディシェリーの内陸にあるネッタパコム村(Nettapacom) だった。ネッタパコムは周囲をインド領に囲まれた小さな飛び地で、3月31日にポンディシェリの市長ら社会党のインド人が押しかけて占領し、ネッタバコム臨時政府の樹立を宣言した。社会党は続けて4月6日にチルブバン村(Tiroubouvane)も占拠したが、農村の飛び地を占領されたところで痛くも痒く もなかったフランスは無視し続けた。
ポンディシェリの地図 最も左側へ突き出している飛び地がネッタバコム村、 その上の南北に長い飛び地がチルブバン村。もともと親仏派だったはずの社会党に先を越された仏領インド併合評議会は、「ガンジー精神」ならこちらが本 家とばかりに、思い切って植民地を丸ごと1つ占拠してしまうことを計画。ターゲットに選んだのがヤナムだった。ヤナムのフランス人弁務官(中央)と亡命前のサチャナ ンダン市長(女性・子供を挟んでその左)
ヤナム はベンガル湾に注ぐゴウタミ・ゴダバリ川の河口から14km内陸へ入った河岸の町で、人口は6000人足らず。フランス植民地の中では最も小さかったが、 「婚礼の町」として繁栄していたこともあって(※)、フランス残留派が強い町だった。※インドでは女性が結婚する際、高額の持参金が必要だが、幼女のうちに結婚させて しまえば持参金は少なくて済むので、幼女婚が盛んだった。しかしイギリスが法律で幼女婚を禁止したため、フランス領でイギリスの法律が及ばないヤナムのヒ ンズー寺院で結婚式を挙げればいいと、1日に数千組もの婚礼が行われた。仏領インド併合評議会がヤナムを占拠すべく派遣したのは、ヤナム出身でポンディシェリで警官をしていたダダラという男だった。ダダラは最初、ヤナムに入っ て町の有力者たちを説得しようとしたが、警官に追い出されて失敗。そこで周辺の若者たちを煽ってヤナムでデモを行わせた。やがてサチャナンダン市長をはじめヤナムの有力者たちの間でも「やはりインドへ併合されるべきだ」という声が広がり、ヤナム市議会でも インドへの併合が決議された。ところが怒った残留派が市長を襲撃する事件が起きたため、市長や助役、議員な ど200人がこぞってインドへ亡命した(といっても、隣の村へ逃げただけ)。フランスは親仏派のクロウスチャナヤ医師を市長代理に据えたの で、市長や議員たちはヤナムの周りにスピーカーを設置して、連日インドの愛国歌や演説を流して併合を訴え、さながら亡命市役所VSフランスの傀儡市役所の争いのようになった。
フランスの警官隊がインド領内へ越境して、亡命者たちを襲撃する事件も発生し、インド人たちの怒りは沸騰した。さらに5月から6月にか けてパリで開かれていたフランスとインドとの会談が決裂したことが伝わると、亡命市役所側はいよいよサチャ グラハ行進でヤナムを占拠してしまうことを決意。6月13日にサチャナンダン市長やダダラを先頭に、200人の亡命者と数千人のインド人群 衆がヤナムへ押しかけた。フランスの警察は多勢に無勢で武装解除され、ヤナムを占領したインド人たちは自由 ヤナムの樹立を宣言した(※)。
※傀儡市役所のクロウスチャナヤ市長代理は抵抗しようとしたが、群衆と共にやって 来たインドの警官によって射殺された。クロウスチャナヤは「フランスに命を捧げた愛国者」としてフランスに銅像が建っているそうな。インドへの引き渡しを主張していたのに、なぜインドは併合しなかったのかと言うと、インド政府はフランスとの話し合いによる平和的な植民地引き渡しを主張 していたので、インド人が実力占拠したヤナムをそのまま併合するわけにはいかなかったのだ。一方で自由ヤナムもインドへの編入を主張していたので、独立は 宣言せず、フランス人の弁務官に代わってダダラが弁務官代理に就き(※)、サチャナンダン市長や助役たちが亡命前と同じく行政を運営。法律はフランス時代 のものが使われた。※フランス軍がヤナムに軍事攻撃を仕掛けてくるという噂が広がったため、ダダラは 間もなく弁務官を辞任してポンディシェリーへ舞い戻り、新たなサチャグラハ行進の準備を進めた。フランスはフリゲート艦を派遣してヤナムを奪還すると息巻いたが、「ヤナム解放」でインドの他の植民地でも反仏運動が勢いづいたため植民地の維持を断念 (※)。11月に各植民地の行政権はインドへ引き渡され、62年8月に正式にインドが併合した。※フランスは5月にベトナムのディエンビエンフーの戦闘で、ホー・チミン率いるベ トミン軍に敗北し、7月のジュネーブ協定で南北ベトナムの完全独立を認めた。インドの植民地はフランスにとってベトナムへの中継地としての意義を失ってい た。フランスへの残留を希望していた住民はどうなったかというと、各植民地の住民にはフランスとインドの二重国籍を与えることになった。一部はフランスへ移住 したが、現在でもヤナムやポンディシェリにはフランス国籍を持ったインド人がたくさん暮らしている。
左:1954年6月15日付『毎日新聞』。「無血接収」と報 じられたが、実際には傀儡側市長代理が犠牲に・・・。
右:自由ヤナムの首脳陣。ダダラ弁務官代理(中央・黒服)と サチャナンダン亡命側市長(その右隣)
自由マヘ 〜 兵糧攻めにネを上げて市長も逃亡〜首都:マヘ 人口1万8000人(1954年)
1954年7月16日 フランス領マヘを占拠したイン ド人らが、「自由マヘ」の樹立を宣言
1954年11月1日 フランスがマヘの行政権をインドへ返 還。「自由マヘ」は名実共に消滅
1962年8月16日 インドが正式にマヘを併合マヘの地図 赤い部分のParakkalとその上のValawilが海に面 しています
1955年のマヘ一帯の地図 インド返還後ですが、州境として旧国境線が描 かれています
マヘの衛星写真 (WikiMapia)
ピンクの枠内が「自 由マヘ」の領域ヤナムに 続いてインド人に占拠されたフランス植民地がマヘだった。マヘはインド南部の小さな港町で、町の中央は川とインド領の鉄道で分断され、3つの小さな飛び地に分かれていた。マヘはフランス植民地 で唯一西海岸にあったため、統治の中心地だったポンディシェリの管理が及びにくく、住民もポンディシェリはタミール人なのに対して、マヘはマラヤーラム人 が中心。またマヘを取り巻くインドのケララ州は共産党の拠点で、1957年から現在に至るまで州政権の与党はほとんど共産党だ。
マヘを占拠したのは、1933年にポンディシェリで結成されたマハジャナ・サバー(人民 議会)という共産党系の組織。1948年10月にフランスがマヘで市議会選挙を実施しようとすると、クマランに率いられたマハジャナ・サ バーのマヘ支部は、フランス残留派が勝利することを恐れて実力でマヘを占領することを決意。「有権者資格の審査に不正がある」と主張して、政庁や警察署、 裁判所などを襲撃し暴動を起こした。フランスはマヘに軍艦を派遣し、暴動は1週間で鎮圧されたものの、政府書類が燃やされたため選挙は実施できずに終わっ た。
インド領へ逃げ込んだクマランは、フランス当局の欠席裁判によって禁固刑20年の宣告を受けたが、次の機会を伺っていた。そして 1954年3月、ポンディシェリでインド人による飛び地の占拠が始まると、「マヘも続け!」と再びマハジャナ・サバーを率いて、こんどは暴動ではなく「ガンジー精神」でマヘ占領作戦に乗り出した。
1954年7月17日付『朝日新聞』。クリックで拡大 します
マハジャナ・サバーはまずマヘ北側の大きな飛び地に押しかけた。2人のメンバーが警官に射殺されたが、この事件で住 民たちの反仏感情に火がつき、4月末にこの飛び地を占拠した。その後マハジャナ・サバーは方針を転換して、マヘを封鎖して兵糧攻めを始 めた。マヘは海に面しているとはいえ、町の中央がインド領の川や鉄道で分断されているので、ここを塞げばたちまち困窮してしまう。食糧不足に陥ったマヘの 住民たちは続々とインド領へ逃げ出し、6月末までにはインド人の市長や政府職員たちも逃亡した。
こうしてほとんど住民がいなくなったマヘの町に、クラマン率いるマハジャナ・サバーの約100人がサチャグラハ行進で押しかけた。居 残っていたフランス人弁務官は、マヘから立ち去り行政をマハジャナ・サバーに引き渡すことに同意して、7月16日にマハジャナ・サバーは自由マヘの樹立を宣言、クマランが市長に 就任した。
かつてガンジーは、イギリスの植民地支配に抗議するために長期間の断食(ハンガーストライキ)で闘ったが、相手の食糧を奪ってしまうや り方はいわば「逆ガンジー」。しかしマヘでの成功に続けと、カリカルやポンディシェリーの外 れの飛び地の村々でも、兵糧攻め作戦が始まった。
マヘの併合調印式(1962年)
マヘは他の植民地と同様に、11月にインドへ行政権が引き渡され、62年8 月に正式にインドに併合された。この時、フランスとインドが結んだ条約では「フランスはポンディシェリー、カリカル、マへ、およびヤナムをインドへ割譲す る」と書かれ、インド人が占拠して樹立した自由ヤナムや自由マヘは存在しなかったことになっ ている(※)。最終的にフランスは話し合いで植民地を放棄したので、インドも実力占拠を正当化しなかったようだ。※ただし条約では、フランスからインドへの資産・負債の引継ぎや、フランス国籍の 付与について、フランスは54年6月13日以降のヤナム、54年7月16日以降のマヘに関して責任を負わないと明記されていて、これ以降の行政がフランス の手から離れていたことを暗示している。クマランはマヘがインドへ引き渡されると市長の座を退いたが、「マヘのガンジー」と呼ばれ、現在マヘには「クマラン・マスター・パーク」という公園があ り、マヘ解放の偉業が讃えられている。
右:1954年7月17日付『毎日新聞』。左:マヘの旧フラ ンス庁舎
自由ダドラ 〜15 人のインド人が押しかけて消滅した植民地〜首都:ダドラ 人口600人(1954年)
1954年7月23日 ポルトガル領ダドラ村を占拠し たインド人らが、「自由ダドラ」の樹立を宣言
1954年8月15日 自由ダドラ・ナガルハベリが成立し、 これに統合されるダマン(Damao)とダドラ、ナガルハベリの位置関係図(1956年)
ダドラとナガルハベリの行政区分図 「G]の部分はポルトガル領にならな かった メ グバル村 。
ダドラ村の衛星写真 ポイントをクリックすると英語の解説が出ます。デサイ 議長の家も・・・(WikiMapia)現在のダドラとナガ ルハベリの地図(クリックで拡大します)ポルトガルは ゴア 、 ディウ 、 ダ マン の3植民地を持っていて、こちらにもインド人が押し寄せた。ポルトガルはフランスとは異なり、あくまで強硬姿勢を貫いて、国境に軍や警察を出 動させ武力で排除した。しかしダマンの内陸にあった飛び地の ダ ドラとナガルハベリ は、インド人が占拠に成功した。ダドラとナガルハベリは18世紀後半からポルトガル領だった。ポルトガルは15世紀末にバスコ・ダ・ガマがインドへの航路を開拓して以 来、インド沿岸に貿易と海上支配のための拠点をいくつも築いたが、ダドラとナガルハベリはそういう拠点ではなく、10kmほど離れたポルトガル領の港町・ ダマンの後背地として、地元の王からポルトガルへ「プレゼント」されたものだった。山林が広がる農村地帯でめぼしい産業はなかったが、大航海時代が終わっ てダマンの貿易が衰退した後は、山林で伐採する木材がダマンの財政を支えていた。
戦後、インドでイギリスからの独立運動が盛んになると、ポルトガル領の拠点・ゴアでも反ポルトガル運動が盛んになったが、46年11月 に弾圧され多くのリーダーたちが逮捕された。そこでゴアの反ポルトガルのさまざまな組織はイギリス領だったボンベイ(ムンバイ)に集まり、ゴア国民会議派を結成。ゴアへ武力攻撃を仕掛けたがポルトガル軍に撃退され、支援を期待した独立後のイ ンド政府も「領土問題は話し合いで解決する」という方針だったため、ゴア解放の武力闘争は間もなく下火となった。
しかし植民地の返還を求めるインドとポルトガルとの会談は1953年に決裂。翌年フランス植民地ではヤナムやマヘでインド人による占拠 が成功すると、ゴア国民会議派はポルトガル植民地も続け!と、こんどは武力闘争に代わって「ガンジー精神」 で闘うことを決めた。
舞台となったダドラ警 察署
そこでまずターゲットに選ばれたのがダドラだ。ダドラは周囲をインド領に囲まれた3km四方の小さな村で、ポルトガル軍は駐屯しておら ず警官が3人駐在していただけだった。7月21日夜にマスカレナスが率いる左派系組織のゴア人連合戦線(Goans United Front)のメンバーがサチャグラハ行進でダドラ村へ押しかけ、阻止しようとした警官と衝突になったが、翌22日には村を占拠(※)。マスカレナスは村 の 有力者たちを集めて話し合い、23日に自由ダドラの樹立を宣言した。※押しかけたインド人を日本の新聞は当時35人と報じたが、実際には15人ほど だった。「ガンジー精神」のはずだったが、警官1人が警察署の裏から忍び込んだインド人に刺殺された。村人たちは村議会を開いて、デサイを議長に、ムドラスを弁務官に選出し、マスカレナスたちは彼らに村を任せてダドラから引き揚げた。ポルトガルはダドラを 奪還するために軍隊を派遣しようとしたが、内陸の飛び地なのでインド領を通らなければならない。そこで「イ ンド人を撃退しに行くので、ポルトガル軍の通過を認めてほしい」とインド政府へ要請したが、インドは当然拒否したため、なす術がなかった (※)。※ポルトガルは国際司法裁判所に「インドが飛び地へのポルトガル軍の領内通行権を 認めないのは不当だ」と提訴した。裁判所は文官や一般物資の通行権は認めたものの、軍隊や武器弾薬の輸送はこれまでも事前許可が必要とされ、インド側が拒 否することも可能だと、 ポルトガル側の主張を退けた 。
1954年7月23日付『毎日新聞』(左)と、同29日付夕 刊『朝日新聞』(右)ネロリ村の衛星写真 ポイントをクリックすると英語の解説が出ます (WikiMapia)
首都:ネロリ 人口4400人(1954年)
1954年7月29日 ポルトガル領ネロリ村を占拠し たインド人らが、自由ネロリの樹立を宣言
1954年8月15日 自由ダドラ・ナガルハベリが成立し、 これに統合される続いて7月28日には、ラワンデが率いる自由ゴア団(Azad Gornantak Dal)やヒンズー者会議(RSS)の約30人が、サチャグラハ行進でナガルハベリへ押しかけた(※)。
※ダドラ占拠の成功で、共産党系の組織がナガルハベリへ押しかけようとしたが、イ ンド警察によってリーダーが軟禁されて進めず、ヒンズー教系の民族主義者が先に押しかけたという。彼らがまず目標としたのは、ナガルハベリ北西端のネロリ村。ナガルハベリにはポルトガルの軍隊や役人など300人以上がいたが、ネロリ村には6人の警官が 駐在しているだけだった。毎年夏のモンスーン・シーズンになると、ネロリ村とナガルハベリの中心地・セルバサを隔てるダマンガンダ川が氾濫し、ネロリ村は孤立してしまうので、これを絶好のチャンスと狙ったのだ。「非暴力」を掲げたインド人たちが行進して来ると、ネロリ村の警官たちはダドラ村の「警官刺殺事件」のような暴力的事態を恐れてたちま ち降伏した。インド人たちは翌29日に自由ネロリの樹立を宣言し、村行政委員会を設置した 後、メンバーを150人に増やして中心地のセルバサを目指した。セルバサのポルトガル軍は行進してくるインド人たちを撃退しようとしたが、近くにいたイン ドの予備警察隊を見てインド軍が侵攻してきたと勘違いし森へ逃亡、自由ゴア団は8月2日にセルバサの町を占領した。南部に立て篭もったポルトガル軍はその 後も抵抗を続けたが、孤立無援のままで8月11日までに投降した(※)。
※ナガルハベリのポルトガル人司令官は、事前にゾロアスター教徒の商人を通じて 「妻子を安全な場所へ避難させたい」とインド人側と交渉し、了解を得ていた。しかし司令官の妻子を乗せたジープはインド人たちによって止められ、司令官の もとには「ご家族は無事ですよ。私たちが保護していますのでご安心ください」というメッセージが届き、司令官は投降を決断したという。「ガンジー精神」と いうわりには、インド人結構ズルい!
1954年7月31日付『毎日新聞』
自由ダドラ・ナガルハベリ 〜併合要請を受け入れてインド政府も公認〜首都:セルバサ 人口4万2000人(1954年)
1954年8月15日 自由ダドラ・ナガルハベリが成 立
1961年6月12日 自由ダドラ・ナガルハベリの村議会 (パンチャヤト)がインドへの編入要請を決議
1961年8月11日 インドが自由ダドラ・ナガルハベリを 併合こうしてダドラとナガルハベリを占拠したインド人たちは、8月15日に自由ダドラ・ナガ ルハベリの成立を宣言した。押しかけたインド人たちはインドへの引き渡しを主張していたのに、なぜインド政府は併合しなかったのかと言う と、インド政府は話し合いによる平和的な植民地引き渡しを主張していたので、インド人が実力占拠した村々をそのまま併合するわけにはいかなかったのだ。
自由ダドラ・ナガルハベリもインドへの編入を主張していたので、独立は宣言せず、国会も設置されずに、かわって村行政委員会や村議会が 行政を担当した。この村行政委員会とは、パンチャヤトと呼ばれるインド農村部に古くから存在 した互助組織で、結局のところポルトガル領から実質的なインド領に変わろうが、住民たちの伝統的な暮らしは変わらなかった。
自由ダドラ・ナガルハベリの初代行政長官にはラワンデが就任したが、サチャグラハ運動をめぐってはラワンデら民族派やヒンズー教系と、 先に自由ダドラを成立させていた左派系・共産党系との内部対立があったうえ、ラワンデの強引なリーダーシップが村人たちの反発を招き、間もなく辞任。ラワ ンデは続いてゴアもポルトガル人から取り戻そうと、新たなサチャグラハ行進に取り組んだ。
55年にはゴアへ入ろうとしたインド人のデモ隊がポルトガルの警察に発砲されて、死者20人以上、負傷者500人近くを出す惨事となっ た。ポルトガルが植民地明け渡しを拒んだのは、インド植民地からの撤退が、アフリカなどの植民地での独立闘争に波及して、植民地帝国の崩壊を引き起こすこ とを恐れたから。イギリスやフランスのような先進国は、直接的な植民地支配から多国籍企業を通じた経済支配へ切り替えつつあったが、後進国のポルトガルは 植民地を失ったら何も残らない。またゴアでは豊富な鉄鉱石が発見され、戦後ようやく日本企業との合弁で採掘が始まったばかりで、ここを手放すわけにはいか なかったのだ。
ポルトガル植民地に集団で押しかけるインド人と、ポルトガル側の襲撃の映像 1955 年。うまく観れない場合は VLC をダウンロードその後もサチャグラハ行進では毎年のように流血の事件が繰り返され、非暴力のインド人に暴力を振るうポルトガルに、ついにインド政府の 怒りが爆発。61年12月にインド軍はポルトガルの3植民地に侵攻し、数日のうちに占領してしまった。それに先駆けて、インド政府は「パンチャヤトからイ ンド編入の要請があった」と8月に自由ダドラ・ナガルハベリを併合した。この時点ではインドはすでにポルトガル植民地の武力解放を決意していたので、実力 占拠の追認にためらいはなくなっていた。自由ヤナムや自由マヘはインド政府から存在を公認されないまま消滅したが、自由ダドラ・ナガルハベリは編入要請を 受け入れるという形で、インド政府が存在を認めたことになる。
ラワンデはゴア解放後も自由ゴア団を率いて、ポルトガル人来航500周年の記念イベントを中止させたり、「バスコ・ダ・ガマなどポルト ガル植民地色の強い地名を変えるべき」と要求する運動を続けていたが、98年に死去。ゴアにラワンデ記念館が建てられたようだ。
1954年8月1日付『毎日新聞』
●関連リンク
Home Page of Yanam ヤナム市役所の公式サイト(英語)
Official web page of Mahe マヘ市の公式HP。写真もいろいろありますが、何もなさそうな町です・・・(英語)
UT of DADRA & NAGAR HAVELI ダドラ・ナガルハベリ連邦直轄地域の公式サイト(英語)
Free Goa (EIP) インドによるポルトガル植民地の併合を不当だと訴えるゴア人の団体(英語)
南日本新聞—非暴力運動で奄美が本土復帰 1953年の奄美諸島の「非暴力」による返還運動(詳細は こちら )をインド政府は参考にした!?(復元サイト)参考資料:
WEB India123 http: //www.webindia123.com/territories/dadranagarhaveli/history/history.htm
INCODIS http://indiacode.nic.in/coiweb/amend/amend10.htm
See My India http://www.seemyindia.com/dadra-nagar-haveli/dadra-nagar-haveli-history.htm
インド最前線 http: //www.tkfd.or.jp/news/india/36_20040709_1.shtml
Flickr http://www.flickr.com/
Ministry of External Affairs, India http://meaindia.nic.in/treatiesagreement/1956/chap133.htm
Wikipedia, http://en.wikipedia.org/wiki/
Entrevue avec Dr Nallam, Ao?t 2004 http://www.claudearpi.net/maintenance/uploaded_pics/Nallam.pdf(仏語)
Freedom Struggle Mahe http://www.calicutnet.com/yourtown/mahe/freedom_struggle.htm
Free Goa (EIP) http://www.geocities.com/prakashjm45/goa/eiport.html
Assam Goa's Freedom Movemen http://www.mail-archive.com/assam@assamnet.org/msg00104.html
Countercurrents.org http://www.countercurrents.org/comm-sinari061103.htm
GOA News http://www.goanews.com/12feb01.htm
Goacom.com http: //www.goacom.com/joel/news/2006/sep/21sep06.htm
Modern Indian Postal History http://www.geocities.com/indianphilately/modernph.htm
Orthopapism II http://www.geocities.ws/prakashjm45/dadrahistory.html
「消 滅した国々」へ戻る
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |