このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
インド独立で密輸の拠点として栄えたつかの間の繁栄
ポンディシェリー
旧フランス領
1664年 フランス東インド会社が設 立
1674年 フランスがビジャプル・ラジャからポンディシェ リーを獲得
1693〜1699年 オランダが占領
1703年 都市建設に必要な木材を得るため、フランスが北 部のカラペット村を獲得
1706年 フランスが周囲の5ヵ村を獲得
1740年 ムガール皇帝の太守軍司令官からフランスへ、4 つの村が「贈り物」として譲渡される
1749年 ハイデラーバード藩王国の王位継承戦に介入し、 南部のバホールなど郊外36か村を獲得
1760〜1765年 イギリスが占領
1778〜1783年 イギリスが占領
1793〜1802年 イギリスが占領
1803〜1816年 イギリスが占領
1954年11月1日 インドへ行政権を返還
1962年8月16日 正式にインドへ併合
ポンディシェリー交通図
ポンディシェリーの中心部の地図 運河と海の間が「白い町」、運河の上側は「黒い町」
植民地時代のインドの地図 灰色でマークしてある都市がフランス領
1955年のポンディシェリー一帯の地図(中心部と南部) (北部) インド返還後ですが、州境として複雑な旧国境線が描かれています
植民地時代のポンディシェリーの地図 赤い部分がフランス領
現在のポンディシェリーの地図 かつての国境がそのまま州境に1954年8月7日付『毎日新聞』( クリックすると拡大します)
インドと言えばイギリスの植民地だが、フランスも飛び地のような小さな植民地を持っていた。東海岸のポンディシェリーとカリカル、ヤナム、西海岸のマエ、カルカッタ近郊のシャンデルナゴル。これらはかつてイギリスとフランスが東インド会社を設立して、互いにインドの覇権を 争ったことを伝える歴史的遺物だ。ポンディシェリ−は仏領インドの首府で、フランス領有当時の人口は22万人、うちポンディシェリ−の町は約4万5千人が 住み、運河を境にしてフランス人地区のヴィュ・ブランシュ(白い町)とインド人地区のヴィュ・ノアール(黒い町)とに整然と区画されていた。18世紀になるとイギリスは、それまでの貿易拠点となる港の奪い合いから、内陸部の藩王国の征服に乗り出し、ついにムガール皇帝を廃し てビクトリア女王がインド皇帝を兼任し、英領インド帝国を完成させるが、フランスも一時は中央インドの ハ イデラバード藩王国 の内紛に干渉して支配下に置いたし、19世紀初頭にはナポレオンがエジプト遠征に続いてペルシャと結びインド征服を企てた。し かしナポレオンがヨーロッパ征服に精を出している間にポンディシェリ−はイギリスに占領され、ワーテルローの戦いで破れたナポレオンがセントヘレナ島に流 された後、イギリスは非武装の貿易港とすることを条件にポンディシェリーなどの植民地をフランスに返還した。
ポンディシェリは自由貿易港になったが、大型船が直接接岸できないため、帆船から汽船の時代に代わると貿易港としての役割は低下した。 しかしインドが1947年に独立すると、ポンディシェリーをはじめとする各フランス植民地は関税を逃れるための密貿易の拠点としてにわかに活気づく。フラ ンスやポルトガルの植民地からインド本土へ流入した密貿易の外国製品は当時の金額で年間450億円に達したと言われ、インド政府の関税収入に大きな打撃を 与えたほか、国産製品の保護政策の障害にもなった。インド政府の強い要求でポンディシェリ−とインド国境での検問が強化され、ポンディシェリ−駅に発着す る列車では乗客全員の厳重な荷物検査が行われたりもしたが、何せポンディシェリーはかつて地元の藩王から五月雨式に領地を割譲させて拡大したので、港を中 心とした半径20kmの範囲に村ごと、集落ごとの細かな飛び地が散在する状態だから、厳格な 国境管理を実行するのは全く不可能だった。
複雑怪奇なポンディ シェリ一帯の国境線(クリックすると拡大します)54年になるとインドに残るフランスとポルトガルの植民地を回収しようという民族主義者の運動が高まり、かつてガ ンジーがインド独立を求めて行った非暴力の反英大行進にあやかって、インド人が集団で押しかけ植民地を占拠するという サ チャグラハ行進 が繰り返さた。実際のところ、ポンディシェリ−はフランスにとって利益がある植民地ではなかったが、アフリカやインドシナで熾烈化 していた反植民地闘争に与える影響を恐れたため、フランスは当初、障害を引き起こしていた関税権だけインド政府に引き渡し、植民地の行政権は保持しようと 目論んだ。しかし6月から7月にかけてマエやヤナムがインド人に占領され、ポンディシェリーも周辺部の集落がインド人に包囲され占拠されると、フランスは ついにインド植民地の返還を決断した(※)。※フランス軍は1954年5月に、ベトナムのディエンビエンフーの戦闘で、ホー・ チミン率いるベトミン軍に大敗北した。インド人が勢いづいたのも、フランス人が弱腰になったのも、「ホーおじさん」のおかげ。まぁ、この時のフランスの判断は賢明でしたね。あくまで返還を拒んだポルトガルの植民地は、61年にインド軍に攻撃され、ほとんど抵抗らしい抵抗ができな いまま総督が生け捕りとなり、武力併合されるというブザマな姿を世界に晒してしまいました。ポンディシェリーはカリカル、ヤナム、マエとともに連邦直轄州となり、かつて飛び地だった歴史の痕跡は、行政区分として現在でもそのま ま残っています。フランス時代の法律は1963年9月末まで適用され、旧フランス領に住んでいた住民たちにはフランスとインドの国籍選択権が与えられて、 現在でも約1万人のフランス籍インド人が住んでいます。インドに返還された後は輸入品に関税がかけられるようになり、貿易自由港と密輸拠点としての繁栄は 失われたものの、最近では街に残るフランス色を活かして観光に力を入れているようですね。
1954年8月8日付『朝日新聞』
●関連リンク
インドのじかん−ポンディシェリー ポンディシェリーの街並みや海岸の写真があります
Home Page of Pondicherry, Karaikal, Mahe and Yanam
Album ポンディシェリーの写真がいろいろ
平戸オランダ商館復元計画 インドの商館区もこんな感じだった?
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |