このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

誰が国民だかはっきりできなかった満州国の謎

関東州
Kwantung Leased Territory

旧日本領

1898年 ロシアが清朝から関東州を25年間の期限で租借
1905年 日露戦争後のポーツマス条約で、関東州の租借権を日本が引き継ぐ
1915年 日本と中華民国との条約で、租借期限を99年間(1997年まで)に延長
1932年 満州国成立。日満議定書により関東州は満州国から日本への租借地となる
1937年 満鉄付属地の行政権を満州国へ返還
1945年 日本の敗戦により、飛び地消滅

 
ピンクの部分が日本租借地の関東州で、オレンジの部分は中国領の中立地帯。クリックすると拡大します(左)

大連市街地図(1919年)   
大連市街地図(1933年)  
中国と満州国の地図(1933年)   
満州国の地図(1933年)   
満州国の地図(1942年)   

かつて私は「関東軍」って、てっきり東京や埼玉あたりの出身者で構成した日本軍部隊のことだと思ってました。「泣く子も黙る関東軍」って言われたらしいけど、九州出身者の部隊の方がよっぽど強そうじゃん・・・とかね。でも、「関東軍」は関東州に駐屯していたから関東軍だったんですね(笑)。

関東州は大連、旅順などを中心とした遼東半島の先端にあった日本の植民地。「関東」とは山海関(万里の長城)の東側の意味で、本来なら満州全体を指す歴史的な言葉。日清戦争後の下関条約(1895年)で、日本は清朝に台湾とともに遼東半島(営口・鳳凰城・鴨緑江を結ぶラインより南側)を割譲させたが、ロシア・フランス・ドイツによるいわゆる三国干渉で清朝へ返還した。すると3年後にロシアが清朝から遼東半島の先端を租借し、拠点としてダルニー市を建設した。

日露戦争後にこの租借権は日本に引き継がれ、ダルニーは大連と名称を変更した。朝鮮総督府や台湾総督府に相当する植民地の統治機関として、関東都督府(1919年以降は関東庁、34年に関東州庁と改称)が置かれたが、都督府は関東州の行政だけでなく、満鉄付属地(日本の国策会社・南満州鉄道が主な駅周辺で統治していた治外法権地帯)の行政や、日本の治外法権に基づいた満州各地の警察業務なども管轄した。

関東州はロシア時代から輸出入に関税がかからない自由港(フリーポート)だったが、日本もそれを引き継いで自由港とした(※)。しかし大連港に陸揚げされて満州へ運ばれる商品等には中国の関税がかかる。関東州と満州の間で再び貨物検査をするのは面倒だったので、大連港には中国の税関(満州国成立後は満州国の税関)が設置され、満州向けや他の船に積み替えて中国本土へ発送される貨物から関税を徴収することになったがが、抜け穴も多く密貿易の拠点にもなったようだ。

※なぜ関東州を自由港にしたかというと、 こちら を参照。
関東州にもとから住んでいたのは満州族や漢民族(つまり中国人)だが、朝鮮や台湾、南樺太など他の植民地と違って、日本政府は彼らに日本国籍を与えなかった。関東州はいずれ中国に返す(ことになっている)租借地なので、彼らは中国国籍のままとされた。1925年(大正14年)版『関東庁要覧』の人口統計によれば、日本人8万8336人(うち内地人=現代でいう日本人8万7572人、朝鮮人764人)に対して、支那人(漢民族と満州族、モンゴル族)は63万7110人、他の外国人(主にロシア人)が416人だった。

ところが1932年、関東軍の暴走によって隣に満州国が成立するとヤヤコシイことになる。日本は「満州国の独立は決して日本の傀儡国家作りではなく、民族自決の国際原則に基づいた正しい独立」を建前としたので、「そもそも支那(中国)と満州は別である」ということになり、満州や関東州に住む漢民族や満州族、モンゴル族は、それまでの中国国籍から強制的に満州国籍へ切り替えられ、中国系住民は関東州の公文書などでの呼称もそれまでの「支那人」から「満州人」になった(※)。関東州も中国から租借していたものが、満州国から租借したことに変更された。

※1942年6月末の関東州の人口統計では、日本人22万6222人(うち朝鮮人約6000人)、満州人131万5790人、外国人1637人で、総人口154万人のうち大連市に74万5000人が居住。
  
右:大連の関東州庁(後に関東局庁舎) 左:満州事変5周年を祝う新京市内のアーチ
溥儀皇帝
満州国は日、漢、満、蒙、鮮の「五族協和」を掲げていたが、では残る日本人と朝鮮人も満州国籍に変わったかといえば、こちらは日本国籍のまま。満州国の成立は「五族が団結して王道楽土の新国家を建設する」のが目的なら、日本も関東州を満州国へ「返還」すべきだし、関東州や満州在住の日本人は日本国籍を捨てて満州国籍を取るのが当然のはずだが、そういうことを実際にやろうとしたキトクな日本人はほとんどいなかった。満州事変の仕掛け人である関東軍の石原莞爾は「関東州は廃止して、日本人はみな満州国籍を取るべき」と主張していたが、無視されたうえに左遷された。もっともそう言う彼も、「関東軍を解散して満州の日本兵はすべて満州国軍へ移るべき」とか、「天皇陛下の軍隊はやめて溥儀皇帝だけに忠誠を誓うべき」とは主張しなかったようだ。

かくして満州在住の日本人は、日本国籍のままで満州国の官僚や国策会社の幹部に就き、その他「満州国民」としてのさまざまな権利を享受したにもかかわらず、義務に関しては「日本国民」としての治外法権を利用して、満州国の警察や裁判所に従おうとせず、都市部では税金が安い 満鉄附属地 に住んでいた。企業も関東州や満鉄付属地で登記して「日本企業」として税制特権を利用した。満州国は首都・新京をはじめ奉天、撫順、営口、安東、鞍山など主な都市の中心部はほとんどが日本が行政権を持つ満鉄附属地で、満州国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばなかった。

日本政府もさすがに在満日本人のこうしたワガママぶりを放置し続けるわけにはいかず、1937年には満州における日本の治外法権を撤廃して、満鉄付属地は満州国へ返還した(※)。そして「満州で営業する日本企業は、日本の法律によって設立されていても、満州の法令に基づく満州企業とみなす」「在満日本人の相続、遺言などに関する判決は満州国の裁判所に従うこと」などの法令を次々と出した。

※満州在住の日本人や日本企業は「満州国の税制が適用されたら税金が上がる」と一斉に猛反発した。そこで満州国は日本企業の法人税を33〜66%減免、日本人個人経営者の営業税を50〜75%減免する優遇措置を実施し、さらに「国税徴収法」や「租税犯処罰法」によって、日本人や日本企業が脱税しても満州国は拘留や罰金徴収ができないことになった。
一方で、日本人子弟に対する教育や神社の管理は引き続き日本政府の管轄として残されたため、満州国政府は「満州建設」のためにやってきた数百万人の移民の子供に、「満州国民」としての国民教育を施すことはできなかった。

それどころか、満州国は国籍法を制定しなかった。そもそも国家というものは領土と国民、主権があって初めて成り立つものだが、満州国は「誰が満州国民か」を明確にすることができなかった。もし満州国が国籍法を作ると、満州在住の日本人は日本の法律が禁じている二重国籍になり、日本国籍を捨てなければならなくなる。そうすると、政府がいくら宣伝をしても満州へ移民しようとする日本人はいなくなり、せっかく送り込んだ満蒙開拓団も「日本人をやめて満州人になれなんて、話が違うべ!」と逃げ出しかねない。だいいち関東軍が満洲の日本人を徴兵することは不可能になる。そのため満州国は国民の定義を最後までウヤムヤにし続けた。国民を定義できなかったから当然のことながら選挙は行えず、議会は存在せず、満州国は最後まで憲法を制定できなかった。

  
右:日本語を習う満人(=中国人)の女学生 左:防空演習を見学するハルビンの日本人女性たち。満州へ移民したけど「大日本国防婦人会」

私の母親は満州生まれの満州育ちで、しかも終戦時には関東軍司令部で秘書をしていたというツワモノ(?)で、冬の朝、マッチで石油ストーブに点火するたびに「満州の都会は戦前からセントラルヒーティングが完備してたのに、日本はまだまだ途上国・・・」だとブツブツ言い、「小学校で関東州の租借期限99年間は、九九=久久=永久だから、永遠に日本領だと習った」「戦争に負けなかったら、日本なんかに引き揚げて来るつもりはなかった」と豪語する典型的な満洲大好き引揚者ですが、満州にいた時もずっと日本国籍で「満州国籍?そんなもんあるわけないでしょ。イヤよ、そんなの。皇帝もカイライだし、カイライ国民みたいで恥ずかしいから」と言ってます。これじゃリットン調査団に「インチキ国家」と言われちゃっても仕方がないですね。




★関東州の中の中国領の飛び地:金州城 Chinchou walled city

1898年3月にロシアと清朝が結んだ関東州の租借に関する条約では、追加条約として「ロシア政府は中国政府の請求により、金州城内を中国が治め、巡捕(警官)等を置くことを許す」と規定され、金州城の住民が租借地より北側の本土と往来する権利も認められた。ここで言う「城」とは日本的な城ではなく、城壁に囲まれた都市のことで、いわば県庁所在地。つまり租借地の中で金州の中心都市だけは引き続き中国が統治し続けることになったのだ。

中国側が金州城での統治を継続しようとしたのは、租借期限満了時の租返還に不安を抱いていたから。清朝はこれより前、新疆のイリ地方返還交渉をめぐって大いに苦労させられていた。イリ地方は1871年、ウイグル人の反乱に乗じてロシアが占領し、反乱が鎮圧された後もロシア軍はそのまま居座り続けた。このため清朝はイリ地方の返還を求めて交渉したが、ロシア占領中に現地の中国人は逃げ出してしまい、代わってロシア人が入植していたので難航。81年に返還が実現したものの、一部はそのままロシア領とされてしまった。この教訓をもとに、租借にあたっては金州城内だけは中国が統治を継続し、中国側の役人や住民を踏み止まらせて、期限満了時にはスムーズな返還を実現しようと考えたらしい。

大連がロシア租借後に発展したのに対して、金州城は古くからの中心地で城内には道台(代官のようなもの)が派遣されていた。また遼東半島が幅4kmほどに狭まる地峡のため、軍事的にも重要な場所で、日露戦争で日本軍が真っ先に占領したのも金州だった。そういえば乃木将軍が 『金州城下の作』という漢詩 を詠んでいましたね。

しかしこの追加条約では、「金州の中国軍は撤退しロシア軍に代わる」とあったため、ロシア軍に占領された金州城から中国の警官は追い出され、金州城の行政は大連や旅順同様にロシアが行った。これに懲りて、清朝が3ヵ月後にイギリスと結んだ九龍半島北部(新界地区)の租借条約では、 九龍城砦を「租借地から除外する」と明確に規定した。 九龍城砦でもほどなく中国側の役人が追い出されたのは同じだったが、租借地ではないため英軍は入れず、こちらは結局どこの国家の統治も及ばない正真正銘の無法地帯になってしまったのは、有名な話。

日露戦争後にロシアから関東州の租借を引き継いだ日本も、「清朝の留保した自治制と巡捕維持権といっても、要は城内二三町四方の行政と火の番的巡警を従前どおり支那人の手に任せて置くという軽い意味のものであったらしい」という認識で、清朝は1908年に改めて金州城に対する行政権の返還を要求したが、日本はこれを無視し続けたのでした。


金州城の城門


★関東州の中立地帯:蓋平

こちら を参照してください


★ロシアと中国で「一島両断」にされた島:鳳鳴島、西中島

関東州の地図(1921年)   ピンクの部分が関東州、オレンジ色は「中立地帯」
関東州の地図   
関東州の地図(1942年)   

上の3つの地図をよ〜く見比べてみると、関東州の範囲がそれぞれ異なっていることがわかる。例えば、西側の海に浮かぶ島々。上の地図(1921年発行となっているが、おそらくオリジナルは19世紀末の中国の地図)では鳳鳴島と花椒島は関東州に含まれていないが(オレンジ色の中立地帯)、真ん中の地図では鳳鳴島と西中島は島の上に国境線が引かれて真っ2つ、そして下の地図では鳳鳴島と中島は完全に関東州に含まれている。花椒島、西中島、中島というのは名称は違えど同じ島のこと。

実は関東州の境界線は何度が変更されて、租借地が拡大していたのだ。1898年3月にロシアと清朝が結んだ「旅大租地条約」では、清朝は旅順口と大連湾および付近の水域をロシアが租借することを認めると決められたが、具体的な境界線をどこに引くかは後に定めるとされた。この時、清朝ではそれまでの金州の範囲を租借地にするつもりだった(それが上の地図)。

ところがロシアは普蘭店湾の河口からまっすぐ西へ線を引いてその南を租借地にすることを主張。境界線を明確に定めた5月の「続訂旅大租地条約」では、復州に属する鳳鳴島と西中島も河口の延長線上でそれぞれ2つに分断されてしまった(それが真ん中の地図。ただし河口との位置関係はいいかげん)。島に国境線が引かれたら住民はさぞかし大変だろうと思えば、租借地内外の往来は自由と定められていたので、パスポートが必要だったり出入国検査をするわけではなかった。

一方で東側の国境線は、普蘭店湾の河口をもとに決めたので、本来の金州の境より南側に引かれた(真ん中の地図の右側の紫の部分が、租借地にならなかった金州)。しかし1905年に租借地を引き継いだ日本が改めて清朝と条約を結んだ際、日本は中途半端だからと金州すべてを租借地に含めるよう要求、また鳳鳴島や西中島が一部だけが租借地なのも中途半端だと、周囲の3つの島も合わせて関東州に編入することを主張した。こうして関東州の面積は3200平方kmから3462平方km(埼玉県の約9割)へ拡大した。

大連から離れた島を獲得して、日本は一体どんなメリットがあるのかと思えば、新たに租借地になった鳳鳴島・西中島の北方や3つの島は、もともと塩の産地で、広大な塩田が広がっていた地域。また東側で拡大した金州県の沿岸も塩田地帯だ。

鳳鳴島と西中島の衛星写真   (google map)
関東州東側の衛星写真   左側の入り江から右側の河口までが日本が拡大した租借地 (google map)

大連は自由港なので関税収入が見込めなかったが、代わりに塩税が関東州の財政を支えた。関東州庁も積極的に塩の生産拡大を図り、やがて塩田の9割以上は日本企業の経営になり(※)、関東州産の塩はソーダ工業の原料用として内地へ大量に輸出され、日本の化学工業を支えることになった。

※関東州の塩田は、1939年の時点で満州人(中国人)所有が249・9万坪に対して、日本人所有は2825・4万坪に達した。
現在でも、鳳鳴島や西中島は塩の産地だが、塩田で本土とつながっているロケーションを生かして、西中島の南方はリゾート地として新たに売り出し中とか。
 

●関連リンク

大連市史  このHPの姉妹サイト。「大連」という名称の由来や、大連市議会の選挙制度をどうするかについてケンケンガクガク争っていた会議録など

満州日日新聞・満州日報 戦前の大連で発行されていた日本語新聞の記事が閲覧できます(神戸大学図書館)
中野文庫植民地法令目次  日本が旧植民地で施行した法令を読むことができます
「関東州」における植民地教育 関東州の教育制度について。中国系住民は日本国籍を与えられなかったので、清朝時代の伝統形式の学校が存続していたらしい
植民地満洲・淪陥十四年その研究の中での図書館 植民地支配を支えた満鉄や満州国の図書館が果たした役割など
日露戦争と日本による「満州」への公娼制度移植 原文は韓国語で書かれたみたいです
大連・旅順の面影 関東州時代(昭和12年)の絵葉書の写真があります
満州・関東州の放送局 戦前の満州や関東州の放送局のリスト。朝鮮や台湾、樺太、南洋諸島のリストもあります
満洲どよよん紀行  かつての日本支配の面影を求めて大連や満州各地の旅行記
看看大連 現在の大連のボーダルサイト
大連会 かつて関東州に住んでいた日本人の親睦団体。うちの母親も会員ですヨ
大連史誌網 現在の大連市による市史(中国語)


 

『世界飛び地領土研究会』トップページへ戻る



 
 
 
 
 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください